第百六話「業務じゃ、なくなった」
本部聴取の帰り、俺と川瀬さんは恋管庁舎の前で立ち止まった。
夕方の風が、ガラス張りの入口に反射していた。
「疲れました」
「すみません」
「謝らないでください。私が行くと決めたので」
「はい」
「でも、コーヒーは淹れません」
「今日は、ですか」
「今日は、外で飲みます」
川瀬さんはそう言って、駅の方を指した。
◇
初めて、彼女の部屋以外で二人でコーヒーを飲んだ。
駅前の小さなカフェだった。テーブルは狭く、隣の席の会話も聞こえる。恋管の端末を広げる場所はなかった。
それが、よかった。
「森本さん」
「はい」
「今日、私は対象者ではなかったと思います」
「はい」
「証言者でも、参考人でも、11%でも、100%でもなくて」
彼女は紙カップを見た。
「ただ、私でした」
俺は頷いた。
「そう見えました」
「それなら、よかったです」
◇
帰り際、川瀬さんが言った。
「次、うちに来るときは、業務じゃないんですよね」
「はい」
「じゃあ、予定を聞いてください」
「予定」
「勝手に来ないでください。恋管じゃないので」
言われて、気づいた。
今まで俺は、訪問予定に従って彼女の部屋へ行っていた。これからは、約束しなければ行けない。
業務じゃなくなった、ということは、自由になったということではない。
相手の時間を、ちゃんと尋ねるということだった。
「次、いつ会えますか」
川瀬さんは少し笑った。
「明後日なら」
それだけで、十分だった。
カフェのコーヒーは、薄かった。川瀬さんの薄さとは違った。どこにでもある、誰のためでもない薄さだった。
「これ、薄いですね」
「はい」
「でも、これはこれでいいです。誰の意味も背負っていないので」
彼女はそう言って笑った。
俺たちは、初めて「意味のないコーヒー」を飲んだ。これまでのコーヒーはいつも、濃さに意味があった。待っていた。怒っていた。確かめていた。変わっていた。今日のカフェのコーヒーには、何もない。何もないものを、二人で飲めることが、少し嬉しかった。
川瀬さんの紙カップが、テーブルの上で少しこちらへ寄った。俺の紙カップも、たぶん無意識に寄っていた。狭いテーブルの真ん中で、二つの白いカップが並んだ。彼女がそれを見て、小さく笑った。
「業務じゃないと、何を話せばいいかわかりませんね」
俺が言うと、川瀬さんは紙カップを持ったまま言った。
「わからないままでいいんじゃないですか。業務じゃないので」
その通りだった。
カフェのコーヒーは、彼女の部屋のものより薄かった。
薄いのに、落ち着かなかった。隣の席の笑い声、レジの音、紙カップの軽さ。彼女の部屋では聞こえない音が、全部、二人の間に入ってきた。
業務ではない場所には、業務ではない雑音がある。
それが、妙に新鮮だった。恋管の静かな部屋より、ずっと生きている場所にいる気がした。
帰り道、二つの紙カップは捨てた。彼女の部屋のカップは、洗ってまた使う。カフェのカップは、一度きりで捨てる。それでも、今日のコーヒーのことは、たぶん長く覚えている。容れ物が残らなくても、残るものはある。
次話「呼ぶ、練習」




