第百五話「本部からの呼び出し」
本部からの呼び出しは、午後三時だった。
対象者は、俺、課長、鶴田、桐生。そして川瀬さん。
差出人の欄には、本部監査部 榊、とあった。中止勧告のときと同じ名前だった。
通知を見た瞬間、俺は課長室に向かった。
「川瀬さんを呼ぶ必要がありますか」
「本部は必要だと判断した」
「彼女は民間人です」
「だから任意聴取だ」
「任意に見えません」
「俺にもそう見える」
課長は、珍しく反論しなかった。
「榊という人を、ご存じですか」
課長は通知の名前を見たまま、答えなかった。代わりに、別のことを言った。
「お前は、聞かれたことだけ答えろ」
◇
川瀬さんに連絡した。
「本部から呼び出しが来ています」
「来ました」
「無理に応じる必要はありません」
「そう言われると、応じたくなります」
「なぜですか」
「私のことを、私抜きで決められるのが嫌なので」
予想通りだった。
そして、それが彼女だった。
◇
本部へ向かう廊下で、川瀬さんは少しだけ歩く速度を落とした。
「私、こういう場所、苦手です」
「すみません」
「謝らないでください。苦手な場所に来ると、自分が何を選んでいるのか、少しはっきりします」
彼女はそう言って、背筋を伸ばした。
会議室に入る直前、川瀬さんは俺を見た。
「森本さんは、私の横に座らないんですか」
「本部の席次では、担当職員と対象者は分けられます」
「もう対象者じゃないですよね」
言葉に詰まった。
彼女は少しだけ笑って、向かい側の席に座った。分けられた席に、自分で座る。その選び方が、いかにも彼女らしかった。
◇
本部会議室は、窓が広かった。
折衝課に窓がないことを、わざと思い出させるような部屋だった。
正面の席に、男が一人いた。四十代の後半に見えた。端末は開いていない。机の上には、分厚い黒の紙の手帳が一冊だけ置かれていた。
「監査部の榊です。聴取の主任を務めます」
低い声だった。抑揚がなかった。
「はじめに、一つだけ申し上げます」
榊は課長を見なかった。
「そちらの課長は、十年前、私の上司でした。私は折衝課で、押せ、と教わりました」
それから、俺を見た。
「私は四百十二回、押しました。あなたは三百十二件で、ゼロです。今日はその差を、数字として扱います」
課長は動かなかった。
榊は手帳を開いた。
「川瀬奈緒さん。今回の照合について、恋管職員から不適切な誘導を受けた認識はありますか」
「ありません」
榊はペンを持ったまま、書かなかった。
「今回の照合について、恋管職員から不適切な誘導を受けた認識はありますか」
同じ声で、同じ文だった。
「ありません」
そこで初めて、ペンが動いた。
「二度、聞くんですね」
「はい。二度目の答えを書きます」
川瀬さんは、それ以上は言わなかった。
「森本職員との関係について、恋管の介入によって感情が誘導された可能性は」
「あります」
俺は息を止めた。
榊は、もう一度同じ問いを繰り返した。
川瀬さんは答える前に、右側の髪を耳にかけた。
「あります。でも、誘導されたから偽物だとは思いません。人は誰かに会って、話して、変わります。それを全部誘導と呼ぶなら、恋愛は全部、誘導です」
会議室が静かになった。
その静けさの中で、ペンの音だけがした。榊は書き終えて、顔を上げた。
「もう一度、お願いします」
「どこからですか」
「それを全部誘導と呼ぶなら、から」
「それを全部誘導と呼ぶなら、恋愛は全部、誘導です」
榊は一字ずつ書いた。声も、顔も、変わらなかった。
「私は、変わりました。でも、変わったことを他人に取り消されたくありません」
彼女は、はっきりそう言った。
「誘導された可能性はある。しかし偽物ではない。その二つは矛盾しませんか」
「しません。誰かに会ったから変わる、というのは普通のことです。普通のことを、制度が後から異常として扱うなら、異常なのは私たちではなく、制度の方だと思います」
榊は、それも二度聞いた。川瀬さんは、二度とも同じ言葉で答えた。
窓の外を、雲が流れていた。
最後に、榊は俺を見た。
「森本さん。介入完了の押印回数は」
「ゼロです」
「押印回数は」
「ゼロです」
黒い手帳に、短い字が一つ書かれた。
次話「業務じゃ、なくなった」




