第百一話「噂は、一晩で回る」
翌朝、恋管の空気が変わっていた。
誰かが俺を見る。目を逸らす。もう一度見る。端末に何かを打つ。
噂は、制度より速い。
俺がデスクに着く前に、隣の職員が小声で言った。
「100%って、本当に出たんですか。本部の知り合いから回ってきたんですけど」
俺は答えなかった。
答えないことが、答えになった。
◇
課長室に呼ばれると、課長の机には本部からの通知が三通並んでいた。
「早いですね」
「桐生が報告した」
「当然では」
「当然だ。だが当然の速さではなかった」
「噂は、本部の側から降りてきたようです」
「だろうな。報告は上へ行った。噂は上から降りてきた。誰が落としたかは、知らん」
課長は一通目を俺に渡した。
職員と介入対象者の照合結果に関する緊急調査。
二通目。
折衝課運用規定の一時見直し。
三通目。
PAIR上限処理に関する保守課聴取。
俺、課長、鶴田。全員が呼ばれていた。
一通目の末尾に、差出人の欄があった。
本部監査部 榊。
照合室で、桐生が読み上げた名前だった。昨夜、俺の端末に来た聴取の通知と、同じ部署だった。
通知には、聴取に先立つ質問が並んでいた。照合の承認者。実施日時。対象者の意思確認の方法。事務的な文面が続き、最後の行で、俺は目を止めた。
対象者本人の意思確認は、照合の前に行いましたか。
同じ問いが、三行上にもあった。一字も違わない。誤記には見えなかった。一度目は質問の列の中にあり、二度目は、答えを書く欄のすぐ前に置かれていた。
「同じ質問が、二度あります」
「読めばわかる」
「誤記ですか」
「違う。二度聞かれたら、二度とも同じに答えろ。変えるな」
課長は、差出人の欄を見なかった。照合室のときと、同じだった。
◇
「川瀬さんは」
「対象者として聴取対象になる可能性がある」
「彼女は職員ではありません」
「だから面倒なんだ。職員ではない人間に、恋管の異常が直撃している」
課長は、珍しく苛立っていた。
「森本。先に言っておく。100%が出たことより、本部が恐れているのは別だ」
「何ですか」
「PAIRが、照合対象外の二人を勝手に照合していた可能性だ」
俺は息を止めた。
そこだった。
俺と川瀬さんが100%だったことより、なぜその100%がERRORとして先に存在していたのか。
PAIRは、何をしていたのか。
◇
その日の昼、鶴田からメッセージが来た。
「本部に行きます。森本さんは、何を聞かれても『川瀬奈緒さん本人の意思を尊重した』と言ってください」
続けて、もう一通。
「それ以外は、私が計算中です」
計算中。
その言葉が、初めて頼もしく見えた。
廊下ですれ違った若い職員が、小さく言った。
「100%なら、もう恋管いらないじゃないですか」
聞こえないふりをした。だが、聞こえていた。
恋管は、低い確率を管理するために作られた。高い確率を繋げるために作られた。けれど100%が出た瞬間、恋管はその数字を扱えなくなった。高すぎる数字もまた、制度の外側にある。0%と100%は、どちらも人間を手順書の外へ追い出す。
課長は通知を閉じた。
「噂は止められない。だから、事実だけは隠すな」
「どこまで事実ですか」
「森本と川瀬氏の照合結果は100%。ただし、それで二人の意思が決まるわけではない。そこまでだ」
課長の口から、意思という言葉が出た。
折衝課が、少しずつ違う言葉を使い始めていた。
折衝課の画面を見ながら、俺は初めて、噂もまた一種のデータなのだと思った。
誰がいつ俺を見たか。誰が誰に何を送ったか。誰が黙ったか。全部が、数字にならないまま庁舎の中を流れている。
PAIRが拾わない感情を、人間は勝手に拾う。
100%という数字は、出た瞬間から、俺と川瀬さんだけのものではなくなっていた。守りたいと思った。だが、噂からは守れない。数字からも守れない。守れるのはたぶん、彼女が最後にならないように、先に話すことだけだった。それすら、昨日の俺はできていなかった。
次話「川瀬さんに、言うべきか」




