第10話 幼い告白と、優しい拒絶
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アスラにとってのアイトとは、出会ったその瞬間から、漆黒の霊鳥のような存在だった。大きく、美しく、野生動物の優雅さを備えている。あの夜に救い出してくれた時、本当に翼を広げて立ちはだかってくれたかのように思ったのだ。
城に保護されてからすぐにアスラの身の回りのこと一切をする女官――後の養母だ――をつけてくれたが、彼自身も頻回に見舞い、細々と気遣いをしてくれた。落ち着いた声音で当たり障りの無い言葉をかけ、何を聞いても誠実に返してくれるアイトに、アスラはすぐに心を開いた。顔を見るだけで喉がゴロゴロと鳴ったり、褒められれば思わずミイミイと鳴いたりするようになるのに時間は掛からなかった。
「鳥だと思ったの」
アイトはンフ、と低い声で笑った。
「鴉でしょうか。ずる賢いと、よく言われますよォ」
面白がっているような口調で、笑みを湛えたままだったが、アスラは違う違うと否定した。
「ドミヌス様は鴉よりずっと大きいわ。それに、鴉だってきれいよ。死の穢れを祓う存在だって母様が言っていた」
「それは…ありがとうございます」
急にアイトは真顔になった。
「私には何よりのお言葉ですよォ」
母親の死が脳裏に浮かんだというのに、アスラは自分を見つめる闇色の瞳があんまりにも美しくって、悲しいと思うことを忘れたものだった。
フィロニコスの養女となってからも、アスラはかなり長い時間を護国卿・アイティウスの居城で過ごすことを許された。養父は学者でもあったから、形式的にはアイトの宮廷に招かれた、ということになる。
実際のところは、アスラが皇女だったことや、銀狐の容姿を隠すための準備期間だった。城の食客である他の学者たちとは異なり、フィロニコス家族はアイト自身の居住空間にまで招き入れられていたが、そこはアイトが大切にしている部下たちの中でも副官しか足を踏み入れることの許されない、外部の人間が殆ど入って来ない奥の間だった。
アイトは先ず、アスラに自分自身の魔力で容姿を変えることを教えた。
「あなたの姿は大変可愛らしいのですが」
大きな体を屈め、アスラに視線の高さを合わせながらこう言ったのだ。
「可愛らしさは時に、狙われる原因にもなるのですよ。ですからアスラ、こう…私のような外見に変えてみませんか?」
「ドミヌス様のように大きくなるのですか?」
「ンッフッフ。あなたは楽しい発想をしますねェ。ですが、体の大きさを変える魔法は意外に難しいのですよ。変化の魔法は、術をかけることよりも維持することが大変なのです。大きさを変えることはあまりお勧めできません。そうですねェ…」
アイトはその大きな手を顔の前に持って来ると、指先をパチンと鳴らした。たちまち輪郭が揺れて、現れたのは大きな黒い狐耳と、ゆらりと揺れる尻尾のついたアイト。
「わぁ」
目を丸くするアスラに、少しだけ得意そうな笑みを浮かべたアイトは「どうでしょう、この姿は?」と言うから、夢中で答えた。
「とっても素敵です」
「ありがとうございます。では、元の姿の私と、狐族の私では、どちらが良いと思いますか?」
「どちらも素敵なので、決められません。どちらでも、ドミヌス様はドミヌス様です」
そうですねェ、と彼は笑った。
「憶えておくのですよ、アスラ。耳の形がどうであろうと、尻尾があろうと無かろうと、本質には何の変わりもありません。どのような姿に見えようとも、私は私、あなたはあなたです」
まだ幼かったアスラにも、その言葉の意味はちゃんと届いた。
帝都の宮殿で過ごしていた頃、人々が自分に向ける奇異の視線を、薄々感じ取っていたから。狐族の娘であることは、表立って悪く言われなくても、決して「普通」ではなかった。
アイトは姿を変化させる術を教えながらも、それはアスラの血筋を否定するものではないと、丁寧に伝えてくれた。だからアスラは、変化の術をちっとも嫌だとは思わなかった。
何度も練習を重ね、最初は魔法石や触媒を借りていたけれど、程なくしてアスラは変化の術を安定して使えるようになった。ただ、髪色はどうしても赤毛にしかならず、瞳の色は勿忘草色のまま変わらなかった。
「目立つ銀髪でさえなくなればどのような髪色でもいいのですが、どうして赤毛に固定なんでしょうねェ。髪や瞳の色は比較的変化させやすいはずですが…まあ、いいですよ。赤毛はあなたの瞳の色にもよく合う。少し印象的過ぎる気もしますが、問題にはならないでしょう」
それからアイトは、父皇帝も白髪になる前には赤毛だったのだと、そっと付け加えてくれた。
「お父上のお若い頃には赤髭なんて呼ばれていたこともあったようですよォ」
アクイラ要塞で暮らした間は夢のように楽しかった。
膨大な書物を自由に読むことを許され、帝国人の容姿に慣れると、城内を自由に歩くことができた。要塞はひとつの巨大な街のようで、軍の兵舎、訓練施設、魔道研究所、商会、教会……さまざまな人が行き交っていた。
アスラは何よりも、アイトの長衣の裾を掴んで、彼の後ろをついて回るのが大好きだった。見上げるほどの広い背中、しゃんとした首筋。そっと眺めているだけで、胸の奥がきゅうっと締め付けられるような、不思議な気持ちになった。
その気持ちはなんだろうかと考え始めたのは、変化の術が安定した8歳かそこらの頃のことだ。その頃からフィロニコスの屋敷で過ごすことが少しずつ増え、アイトと過ごせる時間が減り始め…離れて過ごす時間にも、アスラはアイトのことばかりを想っていた。
どうしたら、もっと長い間、アイトと一緒にいられるだろうか。
そればかりを考えて過ごし、そのうちには、とうとう言ってしまったのだ。
「アスラは大人になったら立派な大魔道士になります」
大真面目だった。
「ちゃんと戦場でもお役に立てるようになって、ご恩を返したいのです」
アイトは笑わなかった。いつになく真剣な表情になった。
「アスラ。それは頼もしいことですが…恩などと考えずともいいのですよ。どのように生きても、あなたは自由です。本当に望むことだけを追い求めなさい」
その時のアイトの顔を、アスラはよく憶えている。
闇色の瞳も、真っ直ぐな黒髪もいつもの通りだったが、切ないような、とても複雑な表情をしていた。
その顔を見ていたら、つい、気持ちが溢れた。
「ドミヌス様と一緒に戦えるような大魔道士になれたら、アスラと結婚してくださいますか?」
結婚というのがどういうことなのか、よくわかっていなかった。
ただ、アイトとずっと一緒にいたかったのだ。
ずっとずっと、城にいる時も、遠征に行く時もずっと一緒にいたかった。
アスラにとっては、アイトと一緒にいることは他のどんなことよりも重要で、この先どんなことがあっても、どれほど時間が経っても変わらないことだった。
そういう気持ちで誰かと作り上げる関係性の、わかりやすい形が結婚というものだっただけで、具体的に妻であり夫であるということを理解していたわけではなかった。
言ってしまってから、アスラは自分で息を呑んだ。
でも後悔はない。
心の底からの本気の言葉だったから。
「それはできません」
いつもと変わらぬ、低く美しい声音でアイトは言った。
お読みいただきありがとうございました。




