第9話 黒鷲護国卿、動揺する
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「スーッゴイものを見ましたねェ」
帝国領に引き上げた後、アイトは上機嫌だった。
動揺している気配は微塵も無い。
結局のところ、追い詰められた神の軍が発動した未完成の巨大なる滅びは、亡命皇子によって止められた。彼は王室に伝わる宝物である魔石と、彼自身の命をもって魔道を止め、古の宮殿に集まった彼の民を救ったのだ。
その光景を目の当たりにした民衆は力の限りにセパー・エ・ホダーに立ち向かい、セパー・エ・ホダーは戦意を大きく損ない、そこに帝国正規軍が地上戦に切り替えて駆けつけ、アリアンシャフルの体制転覆は完了した。
言葉にすれば簡単だが、そこには数千とも数万ともまだ全像が明らかにならない死者がいる。新しい体制をどう作り上げるのか、帝国の支配をどの程度受けるかも不明で、死体の数は今後も増え続けるだろう。
アイトの従者として現地に入っていた者たち、それに隠密作戦に従事した者たちも皆、帝国軍と入れ替わりで現地を離れて、殆どの者がアクイラ要塞に帰投した。報告を終えればそれぞれ家に帰ることが許可されるが、帰った者はひとりも居らず、まだ兵舎に留まっていた。
軍人同士の戦闘とは違う残酷さがあり、死者の規模も、大きな魔道を目の当たりにしたことも、アイトが直々に選んだ精鋭をして、受け止めることが難しかったのだ。
アイトだけが
「亡命皇子も、蜂起した人々も、命の使いどころを間違えずに生を全うしたと言えるでしょう」
と、満足げであった。それだけではない。アリアンシャフルは滅びの魔法と、王家の宝物をひとつ、丸々と喪失したのだ。帝国にとってはこれ以上ないほどの戦果と言える。帝国正規軍では成し得ぬことを、アイトが仕掛けた。そのことを知る者は僅かだ。
「あなたたちも、自宅に帰って休暇にしていいんですよォ?」
要塞内の訓練施設をウロウロしているウルディンとエデコを見つけると、アイトはそう声をかけた。
城主の居住空間は当然、城の奥まったあたりにあるが、アイトは普段から訓練施設や魔道研究所に出入りをしている。一般的な貴族階級は兵卒の使う施設など寄り付きもしないものだが、アイトは軍団の運営に関して非常に合理的で、貴族らしさが全く無かった。
「はっ。我々は独り身ですので、帰るよりも今は訓練を継続したく思います」
ウルディンが馬鹿正直に答え、エデコはまた横目で見る。独り身と言えばアイトだって独り身なのだ。身分と年齢を考えると3回くらい結婚していてもおかしくないはずが、妻を娶ることに興味を示さない。アイトの内心に於いて理由は明白だが、そんなことは誰も知らないわけで、世間から見るとアイトは相当な変わり者だった。
「そうですかァ。体を鍛えるのも仕事のうちですから、いいですけどね。休むのもまた仕事のうちだと言うことを忘れてはなりませんよォ」
情勢次第ですぐに次の作戦が始まることもあるのですから…と続けながら、アイト自身も諸肌を脱いで訓練を開始する。
「相変わらず、ドミヌスは凄い」
呆れたようにウルディンが呟いた。
基礎訓練と呼ばれる、自重を利用して全身の筋力を鍛える動きをアイトの配下は全員が行うのだが、その動きだけでもアイトは桁違いだ。人よりも大きな体はしなやかで、飛び跳ねる高さも並外れている。全身の可動域が広い。
「俺でもああは動けぬ。俺はドミヌスよりもずっと年下なのに」
年齢だけでなく、ウルディンは兵士の中でも身体能力が高く、訓練場では注目の的になるほどだ。だがそれでも、肉体的には壮年に差し掛かるアイトに勝てない。
「殿は特別なのだ。転生者の中、いや、歴代ドミヌスの中でも、あれほど全てに強く、何事にも動じない方はおられない」
エデコは敢えて殿という言葉を使った。それは主を示す古い言い方で、アイト自身は好まない。行政官に対する呼びかけとしては不適切だからだ。ゆえに、殿という言い方は本人の聞いていない時に限られる。
「そうだな。殿は特別なのだ」
歴史の転換点で重要な役割を果たしながら、重さに潰れることなく、そっと日常に帰ることのできる主君の背中を、ふたりは見つめていた。
事態が変わったのは、ドミヌス旗下の副官であるヴィテークが訓練場に走り込んで来た時だ。
ヴィテークは明るい金髪の大男で、年の頃はアイトと同じくらい。エデコよりも更にずっと以前の、アイトがまだ先帝の元で中央政界にいた頃からの部下なのだ。非常に有能で、アイトに万が一のことがあれば指揮権は彼が持つ、当然ながら先般のアリアンシャフル動乱にはヴィテークは参加せず城で待機していた。
「ドミヌス、一大事ですぞ!」
ヴィテークもまた、主君同様に感情は露わにしないが、アイトが終始穏やかな表情を保つのに対し、ヴィテークは無表情に近い。顔の筋肉が死んでいるのかと噂されるほどに表情が変わらない。
一大事と言っても表情も抑揚も無いから、それほどの緊急事態にも思えない。
アイトは腕立て伏せをしているところだったが、振り向きもせず訓練を続行し、
「何です、また大袈裟なんじゃァないですか?」
と呑気に構えていた。
「本当に一大事です。腕立て伏せなどしている場合ではありません」
「だから何なんです?」
「はっ。ぜひ冷静にお聞きいただきたいのですが、」
「冷静に現実と向き合うように常日頃から努めておりますよォ?」
「申し上げます!アスラ嬢が結婚したそうです!」
ずるり、とアイトは崩れ落ちた。
腕立て伏せの姿勢のまま真っ直ぐに落ちた。
「ドミヌス!」
「殿!顔面が!」
エデコとウルディンが叫んだが、アイトはそのまま音もなくひらりと身を起こすと、物凄い素早さでヴィテークに向き合う位置に移動した。
「どういうことです?」
落ち着いた口調のままではあったが、その声には重みがあり、アイトは明らかに怒っていた。激怒と、動揺が窺える。ついでに言えば鼻の頭が赤くなっている。
(そんなに…?)
声には出さずとも、エデコもウルディンも頭に浮かんだことは同じである。
アスラのことは、側近一同、知っている。城にもよく出入りしていた学者フィロニコスの娘。アイトはよほど目をかけていたのか、存外子供好きなのか、手を引いて訓練場にも連れて来ることがあったほどだ。深い青色の目がくるくると動く、表情豊かな利発そうな子供で、配下一同も可愛らしく思ってはいた。
このしばらくは姿を見かけなくなったが、そろそろ娘頃のはずだ。結婚したとて、少しばかり早くはあるが、そこまで不自然ではない。酷い嫁ぎ先に無理に押しやられたというのならばともかく、結婚したというだけでアイトが動揺する理由は特に無いように思われた。
「どこの誰に、いつ、どういった経緯で嫁いだのですか?」
アイトの顔からは表情が消えた。
感情を隠すために常に柔和な表情を浮かべているアイトが無表情になるのは、滅多には無い。
「嫁ぎ先はエティコンの末子だそうです。結婚成立はおよそ半年前です」
「半年…」
「経緯は全く不明ですが、おそらくフィロニコスの行方不明と関係があるかと思われます」
「行方不明だったんですか?」
「はっ。この戦争続きの折、どうにも戦場を回せなくなった中央がフィロニコスを呼び出し、そのまま軍務に復帰させたということです。西方の戦場を回っていた間に消息を断ち、折悪く、フィロニコス夫人が重篤な病に倒れたことがわかっています。アスラ嬢は養母であるフィロニコス夫人を守ろうと、資産のあるエティコンとの縁談を受けたのではないでしょうか?」
訓練場にビシビシと地鳴りの音がした。
見ればアイトが石畳の床を踏み締めて、石にはひび割れが入っているのだった。
顔色を変えないのはヴィテークだけだ。エデコもウルディンも、恐ろしくて下を向いている。
「詳しく聞きましょう」
お読みいただきありがとうございました。
明日から5月でございますね。日本の5月は最高ですよね。




