第8話 黒鷲護国卿と歴史の転換点(2)
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死が充満していた。
それも新鮮な死が。
焼け焦げた臭い、排泄物、内臓、全ての重く暗いものの臭いが充満していたが、最たるものは血だ。
厳しい戦場を経験した者でも絶望に溺れそうになるような夥しい血が流れていた。
古い宮殿へ続く道は、血が川のようで、戦場に慣れたエデコでも、その血が戦闘員ではない民衆の血であることが殊更に堪えた。隣を歩くウルディンも、口元を覆う布の上を更に手で押さえている。同行したもっと若い兵士などは、殆ど蒼白になっている。
ただ、主君アイティウスだけが眉ひとつ動かさずに進んで行く。
(血飛沫が烟るようではないか)
エデコはもう長くアイトに仕えている。身分低く生まれても能力を評価してくれている主に対して、深い信頼と感謝がある。彼がこの現場を敢えて見せるには意味があるはずだった。
神の軍は自国の民をなんの迷いも無く殺した。無数に。それは対外戦争とは全く異なる悲惨さであり、
(奴らはなんのために戦うのだ…)
そう考えずにいられない。
戦はそれ自体が惨たらしい。この世のどの戦であっても、全てが地獄のようなのだ。人は人を平気で屠るようには出来ていない。憎い敵であっても、命を奪えばその重さが背にずっしりと伸し掛かり、生涯その感覚から逃れることはできない。
同胞であるはずの無辜の民を殺して、正気でいられるだろうか。
亡命皇子の呼びかけに応えて、時間の経過と共に民衆は集まってきていた。
そこに渦巻くのは、圧政の元で苦しめられて来た数十年に及ぶ、深い憎しみだ。
(恐怖だろうか)
セパー・エ・ホダーという組織は民衆からの憎しみ、恨みを向けられ、もはや恐怖によって狂っているようなものではないかと…エデコは思う。
「流石に血に酔うようですねェ」
アイト自身は顔色ひとつ変えずに言う。
この国に彼が介入しなければ、少なくとも、今、この夜に民衆がこれほど大量に命を落とすことは無かった。それぞれが家に閉じ籠もり、暗い夜を震えて過ごす、昼には監視に怯えて心を殺して暮らす、それでも命は続いていたはずだ。
膨大な死の原因を作ったことの重みを、アイトは感じていないわけではない。むしろその背に、肩に、全てを背負っている。
重みを受け止めてなお、平静に思考し、行動できることそのものが
(人の上に立つということ…)
より暗い道を通って、動乱を横目に古の城を目指して移動したが、それでも酷い虐殺を間近に見、時にはセパー・エ・ホダーに目をつけられることもあった。
『貴様ら、待て!』
彼らの言葉は、エデコにとってははっきりとはわからない異国の言葉。エデコよりも言葉がわからないはずのウルディンは、一瞬にして短刀を閃かせて始末してしまった。魔術に頼るまでもなく、近接戦では刃物で仕留める方が速い。そのまま彼は、声をかけてきた兵士の隊と思われる者たちにも近付き、あっと言う間に命を奪ってしまった。
「ウル!やり過ぎだ」
セパー・エ・ホダーとの直接の戦闘は、身を守るためだけと指示されている。亡命皇子に手を貸すが、それは彼ら自身ではどうにもできない、監視と諜報の制御だけだと。この国を取り戻すには、どれほど過酷であろうとも、アリアンシャフルの民自身の手で達成されなければならない。それがアイトの考えだった。
「まァ、そのくらいは構いませんよ。女子供を屠るのは、まともな軍人なら耐え難い」
アイトはそう言って咎めはしなかったから、エデコもそれ以上は言わなかった。
「ドミヌス。ここの連中は、どうなっているのでしょうか」
ウルディンは青褪めて見えた。普段は精神的にも肉体的にも頑丈な、鬱陶しいほど元気な男だ。
「ただの農民ですよ、彼らは」
淡々と城への道を歩きながら、アイトは子供に話すような丁寧さで、アリアンシャフルの現状を語る。
(世話焼きでいらっしゃる…)
帝国で最も特殊な地位にある主君は、そば近く仕えてみると実に面倒見の良い、寛大な人物だ。その寛大さは、受け止めるだけの器のある者にのみ向けられる。
「アリアンシャフルは、政変が起きて皇帝が廃された際に、生き残った支配階層がほぼ全員、帝国に亡命したのですよ。その時に革命軍が組織したのがセパー・エ・ホダー。彼らは無教養で、上層部に従う以外に選択肢の無い者たちです」
それからアイトは、教養の無い階層に恐怖政治を敷くと、疑いも無く監視社会を作ることができる、という説明をした。
人は誰しも、正義という言葉が好きだ。
正義のために、人を抑圧し、互いに密告し合うように教える。
一部の者に武力を持たせ、正義のためだと教え、密告し合う不自由と特権を同時に与える。体制に逆らわない限り、一族郎党全ての安楽な生活を約束する。
「バカほど簡単に罠にかかります。特権階級の仲間入りをしたと思って、相互監視を嬉々として受け入れたが最後、もう抜け出せません。後になって、自分が密告されることを恐ろしいと思っても遅いのです。自分が密告されることを恐れて、積極的に民を弾圧し、同僚のことは信じられない。これがどれほど苦しいか、あなた方にはわかるでしょォ?」
ヒューンと音を立てて火の玉が近くを掠めた。民衆に向けられた魔術だが、アイトは蝿でも追い払うかのように消してしまった。
時間の経過と共に、民衆は増えて来ている。
亡命皇子に共鳴した国内勢力が、蜂起のために先陣を切ってセパー・エ・ホダーの拠点を攻撃したのだ。その動きに呼応し、人々は手に入る武器を全て持って解放までの道を進む。中には石を投げるなどの原始的な武器しか持たない者もいる。
人々の歩む道には何千何万の死があった。
(地獄だ)
そこには、何かの争い難い熱狂のようなものがあった。
彼らのひとりひとりがどこまで状況を理解しているのかはわからない。
この国の人々は、たとえ今夜こうして蜂起して命を落とさずとも、永遠に続くような絶望の生があっただけだった。
圧政によっていつ密告され、殺されるかもわからない毎日。
民を弾圧している側のセパー・エ・ホダー兵士だって同じことだ。
エデコは思う。戦場では、命を預け合う同じ部隊の者を信じられないことが何よりも辛い。己が身を投じる戦に大義名分が無いことも辛いが、隣で戦う者を信じられないことが辛い。想像しただけで心が凍るようだ。戦場において、隣の奴を裏切るのは許されざる行為で、ただ隣の奴を裏切ってはいけないという思いで、恐怖を抑えて戦うことができるのだ。死が迫った時、心に浮かぶのは遠くの家族ではない。隣の奴を裏切れないという、ただそれだけで戦場に立っていられるのだ。
終わりなき民衆の、兵士の絶望の生を、希望に満ちた死に変えた者。
それは覚悟を決めて祖国に戻った亡命皇子であり、協力者であるアイトだった。
セパー・エ・ホダーが占拠する政府、昔の宮殿であった建物に、民衆は雪崩のように押し入った。
絶叫が怒号が血飛沫が満ち溢れ、命運が動こうとしていた。
アイトと共に、一行は、飛空の魔術によって城の外側に浮かび上がった。こんなことをすればすぐにセパー・エ・ホダーに捕捉されるはずが、もはや全てが制御を失い、闇夜に飛ぶ黒鷲に気付く者はいないようだった。
「よく見えますねェ」
城の尖塔からは、吹き抜けの広間がよく見える。
そこでは、亡命皇子を奉じる一段が、まさに城を占拠しようとしていた。
「勝ったのでしょうか?」
ウルディンがそう言ったちょうどその時、遠くに熱を感じた。
「あれは、」
視線を走らせると、熱の塊が向かってくる。
(そんな、)
思考よりも素早く、それがセパー・エ・ホダーによって発動された巨大なる滅びのようなものであることを全身で察した。ようなもの、と言うのは、それが極めて不完全な、模造品のような威力であることがはっきりとわかるからだ。
すぐに自分たちの身の回りが白い光に包まれ、アイトが光の壁と呼ばれる防御魔術を発動したことがわかった。
そして周囲は光に包まれた。
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