第五章 鞍馬山(下)
「「………………」」
こめかみから尋常ではない汗をつたわせながら、うつ伏せの椿と梓が顔を見合わせた。
ふたりの前には、大穴の空いた大樹と、胴体の半分以上が消し飛んだ土蜘蛛の成れの果てがあった。
「……椿が神宮寺さんに渡したのって、レールガンかなにかだっけ?」
「……それならオレでも楽に怪異を祓えるな。さっそく学園に掛け合って配備してもらうか」
口元をひくつかせる。
柊が発砲する直前、ふたりは身の危険を感じ、揃って真横に飛んだ。ただの勘だったが、もしほんの少しでも遅れていれば、土蜘蛛と仲良く消滅していたことだろう。
「たしかにこうする作戦だったけど……それにしたって、ねぇ……」
「あぁ……絶対、神宮寺……さんだけは怒らせないようにしよ……」
うすら寒い笑顔を浮かべるふたりの耳に、死神の声が届いた。
「おふたりとも! 大丈夫ですか!?」
大樹に空いた大穴から柊がこちらを覗き込んでいる。そこはかとなく恐ろしく感じたふたりは仲良く立ち上がり、揃って敬礼。
「「イエス、マム!」」
「へっ?」
意味がわからない柊は首を傾げている。
ふたりはそのまましばらく微動だにしなかった。
そうこうしている間に土蜘蛛が灰となって消えていく。
「にしても……こいつ、なんだったんだろうな。変異種か?」
「変異種でもこんなのがいるなんて聞いたことないよ」
とにかく、
「司令部に連絡しよう。こんなのもう、期末試験どころの話じゃないよ」
そこへ泥だらけの柊が合流する。
「おふたりとも、けがはありませんか?」
「おかげさまでな。助かった、神宮寺」
「ありがとう、神宮寺さん。それにしてもビックリしたよ。まさかあんな威力が出るなんて」
たしかに超威力の固定砲台を目指す、とは言ったが完全にオーバースペックだった。怪異との全面戦争でもなければ、なかなか使い所が難しそうだ。
悪魔のような砲撃を見舞った少女は、まるでそうは見えない可憐な微笑みをふたりへ向けた。
「良かったです! ……ただ、その……」
柊は口ごもりながら、持っていたものをふたりに見せた。
「祈銃が壊れてしまいました……」
「「………………」」
溶けた銃口。
裂けた銃身。
排莢するための遊底は完全に折れてしまっている。
壊そうと思って壊してもこうはならないんだよな、と椿は事実から目を背けつつ言った。
「と、とにかく、榊さんに連絡しようぜ!」
「そ、そうだね」
梓が携帯端末を取り出した。
画面をタップし、緊急時の連絡先にコール。
「こちら参組五班。ポイントΓ付近で緊急事態発生。未確認怪異の発生を確認。至急応援願う。こちら――」
梓が司令部とやり取りするのを聞きつつ、椿は柊に目を向けた。
さっきまでの可憐な微笑みは消え、なにやら考えごとをしているようだった。
「どうした、神宮寺?」
「……いえ」
目の前の脅威は去った。あんなでたらめな怪異を相手に、だれひとり大きな負傷をすることもなかった。祈銃は二挺失ってしまったが、安いものだろう。
試験は中止されるはずだ。あとのことは教官たちに任せればいい。自分たちも事情聴取くらいはあるだろうが、よくわからない土蜘蛛については、教官たちや祈祷兵団が対応する。それで終わりだ。
(そのはずなのに……)
ずっと背筋をなでられている気がする。
おそろしく冷たい手でやさしく、何度も、何度も。
「……わたくし、杏さんのところに――」
そのとき、鞍馬山が揺れた。
「地震、か」と椿。
せいぜい震度二、もしくは三くらいだろうか。地震大国日本では日常的とも言える揺れだ。焦りもしなければ、不安もなにもなかったが、
「……長いね」
「そうだな……」
梓のぼやきに椿が返し、ふと目を向けた。
「神宮寺?」
柊は森の奥に目を向けている。
「どうし――」
そこで気がついた。
さっきよりも揺れが強くなっている――いや、違う。
震源が近づいてきている。
「まさか……!?」
「走ってください!」柊の悲鳴。
霊力の炎を浮かべ「ふっ!」腕を振るう。
炎は暗闇に閉ざされた森の奥へ。
その奥からは、無数の叫び声と木々の折れる音が聞こえてきた。足元を揺らす振動は、いまも確実にこちらへと近づいてきている。
「はやく! 杏さんを連れて逃げて――」
「馬鹿! おまえを置いて行けるわけないだろ!」
「ですが――」
「ふたりとも心配しなくても大丈夫そうだよ」
呑気に言う梓に揃って目を向ける。
「もう手遅れだから」
森の奥から土蜘蛛が現れた。
その数、五体。
「うっ――!」
あまりのおぞましさに柊が口元を押さえる。
八本の脚とずんぐりした胴体。
そこから生える鬼の身体と整った顔立ち、そしてなにも映していない空虚な瞳。
そこまではさっき祓った土蜘蛛と同じだが、それ以外がまるで違った。顔の造形は老若男女様々で、身体の大きさや腕の形、角の有無など個体差が激しい。
「なんなんだよ、こいつら……」
「まさか本当にキメラだったなんてね……」
ふたりのこめかみを汗がつたった。
そのとき、
「――いやぁぁぁああぁぁぁ!」
「杏さん!」
とっさに杏の元へ駆けようとした柊の前に、一体の土蜘蛛が立ち塞がった。虚ろな瞳は柊を映しているようで、なにも見ていない。
「そこをどいてください!」
柊の周りに炎が浮かんだ。
「馬鹿! 刺激すんな!」
土蜘蛛が奇声をあげる。
ある個体はその場で地団駄を踏んだ。
ある個体は鎌のような腕を振り回し、木を斬り落とした。それを野太い腕を持つ個体が凄まじい膂力で投げ飛ばす。
たちまち森中が騒がしくなった。
「あっ――」
「くっそ!」
そういって、椿は予備のマガジンを梓に押し付ける。
「杏は任せて!」
受け取った梓はすぐさま駆け出した。
「神宮寺!」
呆けていた柊の肩が震える。自身の失態を悔いているのだろうが、そんなことは全員で生き残ってから好きなだけすればいい。
「こいつらの注意を引きつけるぞ!」
言って、腰に吊り下げていた手榴弾を手に取った。ピンを咥えて抜き、一番近い個体に勢いよく投げつける。
爆発。
「くっ!」
思わず手で顔を覆った柊とは違い、椿はもう次の行動に出ている。サバイバルナイフを抜くと果敢に斬りつけた。
かと思えば、あっさりと身を引き、次の個体へ。
破魔矢すらも弾いた鋼のような皮膚だ。ちんけなナイフでの攻撃など、さほどの効果も見られないが、最初から椿の目的はこいつらの足止めだ。
椿が足元を駆け回るたびに、土蜘蛛の腕の振りが大きくなり、動きが単調になっていく。ちょろちょろと足元を飛び回る見えない羽虫が、うっとうしくて仕方がない様子だ。
うまい、と柊は思った。
土蜘蛛の攻撃を紙一重でかわしつつ、切り返す。土蜘蛛は、羽虫を叩き潰そうと躍起になって脚を動かしていて、杏のところへ向かう気配は見えない。
それどころか、虚ろな瞳は揃って柊へ向けられている。
「もっとオレにも興味もってくれよ! 寂しいだろうが!」
椿が挑発するも、土蜘蛛はおかまいなしだ。うっとうしいが無害な羽虫よりも、自分たちを祓える可能性がある小娘のほうが気になるらしい。
「ふっ!」
その小娘が放った霊力の炎が、一体の土蜘蛛にまともに命中した。巨体同士がぶつかり合って身動きが取れない、一瞬の隙を突いた攻撃だ。
鞍馬山に凄まじい金切り声が響く。
「ナイスだ、神宮寺!」
椿が叫んで、また斬りつける。
とはいえ、
(このままだと、ジリ貧なんだよな……!)
相手は得体のしれない土蜘蛛が五体。
こちらは霊力僅少の精鋭と霊力以外がポンコツの凸凹コンビだ。
「念のために訊くけどさ! 祈銃も破魔矢も使わず神宮寺の霊力だけで、こいつら祓えないのか!?」
「祓えなくは、ないですが、祈祷に捧げる時間がありません!」
「まったくもって正論だな!」
顎から汗がつたう。
ふたりの気力と体力を、極限状態が容赦なく奪っていく。それに輪をかけるのが、蒸すような暑さと粘つくような湿度だ。
「ふぅ……っ! ふぅ……っ!」
柊の肩が激しく上下している。もともとの体力にも不安があったし、最初の土蜘蛛相手にも派手にぶちかましている。
(まだか……?)
梓の性格を考えれば、杏を救助したらなんらかの合図を送ってくるはずだ。それがまだない。あっちはあっちで苦戦しているんだろう。
(良いタイミングで、こっちもトンズラしねぇとな……!)
と、
「あっ……!」
柊が膝をついた。
「神宮寺!?」
霊力の炎こそまだ浮かんではいるものの、すでに数はふたつになり、大きさも半分程度まで縮んでいた。椿の見立てよりも、柊はずっと消耗していたらしい。
「クソが!」
なんとか注意を引きつけないと。
そう思った椿は腰に手を伸ばし――その一瞬だけ、意識が土蜘蛛から外れた。
土蜘蛛が振り回していた野太い腕が椿を直撃した。
訓練で吹っ飛ばされるのは日常茶飯事だが、地面と水平に飛んだのはこれがはじめてだった。
「がふっ!」
勢いそのまま木の幹に背中から叩きつけられる。肺から空気が一瞬で排出され、痛みよりも苦しみが先にきた。
「「番匠谷さん!」」
柊の叫びが、二重に聞こえた。
視界が真っ赤に染まる。
「っ、の野郎……!」
揺れる視界に映る土蜘蛛の数は八体……そんなはずなんかないのにそう見える。いや、もっと多かった気がしてきた。頭がくらくらする。
膝をついた柊に土蜘蛛の群れが迫っている。
「くっそ……! こんなとこで……!」
土蜘蛛が鎌みたいな腕を振り上げた。人間の細い首など、豆腐のように容易く切断できそうだ。一刻もはやく柊を助けに行かなければ。わかっていても身体がまるで動かない。
「逃げろ……! 神宮寺……!」
「――――!」
視界の端で柊がなにかを叫んでいるが、耳鳴りがひどくて聞き取れなかった。
同時に、土蜘蛛の腕が勢いよく振り下ろされる。
肉の潰れる嫌な音がした。
●
「なっ……!?」
たったいま目の前で起きたことが、椿には理解できなかった。
柊へ向けて、腕はたしかに振り下ろされた。自分はまた目の前の人を助けられず、ここで同じように果てるんだ、と諦めかけていた。
だが、そうはならなかった。
振り下ろされた腕は、柊へ届く前に弾け飛んだ。
腕が、ではない。
鎌のような腕を持った土蜘蛛が、だ。
いったいなにが、と椿は状況を確認しようとした。
「伏せろ、椿」
その頭上を、鳴鏑のような音を立ててなにかが通過する。
通過したなにかは一体の土蜘蛛の土手っ腹に命中した。梓が撃った破魔矢ではまるで歯が立たなかったのに、そのなにか――破魔矢は、容易く風穴を空けていた。
そのまま続けてもう一発。
今度は野太い腕に命中。腕が中ほどから吹き飛んだ。
凄まじい不協和音が森中に響きわたる。
「くせぇ口を閉じろ、ばけもんが」
「榊さん!」
「黙ってろ」
そういって男――榊が発砲する。
椿は生唾を飲み込んだ。
榊はすぐ後ろに立っていた。いまも剃刀のようにするどい視線を怪異に向けている。
榊のにぎるリボルバーが火を噴いた。
柊に群がっていた鬼の身体のみぞおちを、きれいにぶち抜いた。
続けて発砲。
放たれた破魔矢は、それぞれ土蜘蛛の眉間や心臓を容易く撃ち抜いた。断末魔の叫びをあげながら、残っていた土蜘蛛も揃って灰になった。
榊がこの場に現れて五分も経っていない。必中必殺の破魔矢を撃った祈銃をホルスターにしまうころには、鞍馬山はうそのような静寂につつまれていた。
●
(め、めちゃくちゃすぎる……!)
榊の持つリボルバー型の祈銃は、拳銃型の中でもとくに大型のものだ。狙撃型の破魔矢すらも撃てる祈銃開発黎明期の一挺。
攻撃力に特化しているぶん、重くて取り回しが悪い。装弾数も少なく、バースト機能もない。なにより反動が凄まじく、並の祈祷兵ならたった一発撃つだけで簡単に肩が外れる諸刃の剣だ。
(それをあんなに軽々と……どんな筋肉してやがんだよ、ゴリラか)
「滅多なこと考えてんじゃねぇぞ、椿」
「へあっ!? いいいいったい、なんのことだ!?」
「おまえはもう少し、うそとごまかしを覚えろ……」
呆れた表情を向けていた榊が、よろよろと近づいてきた柊に目をやる。
「おまえは無事か? 神宮寺」
「わたくしはなんとも……そうです! 杠教官、杏さんと東堂さんが!?」
「あっちは先にすませてきた。生命に別状はない。いまごろ、桃あたりが救助に向かってるはずだ」
「――助かった。ありがとうな、榊さん」
らしくない言い回しだな、と引っかかりながらも礼をする。
柊も律儀にお辞儀した。
「あー、ったく。ひっさしぶりに走ったから足いてぇ……あした靴擦れ確定だな……」
嫌だ嫌だ、と手を振る榊。そんな気遣いをありがたく受け取りながらも、椿は目の前の灰の山を見ながら問いかける。
「榊さん、こいつらはいったいなんなんだ」
「さぁな」
「さぁな、って……」
「んなことおれが知るわけないだろ。楓にでも聞けよ」
「楓、って学年主任の一ノ瀬教官だろ? 嫌だよ、あの人怖いし、カッチカチの教官って感じでオレとは合わないんだって」
「あめぇなぁ、椿。あの堅物の仮面を剥がすのが最高に楽しいってのに」
どこかのテントで、全体を指揮している女性教官がくしゃみした。
「まあ、とにかくだ。試験は中止だ。おまえらはさっさと戻れ。ルートB4で戻れば、他の教官たちが待機してるから、また土蜘蛛が現れても問題ない」
「その、杠教官は……?」
「事後処理と現場検証が残ってんだよなー。めんどくせぇ。楓の野郎、今度マッチングアプリでからかってやるか」
最後の一文は聞かなかったことにして、椿と柊はさっそく動き出した。
柊は疲労しているものの目に見えるけがはない。椿も打撲や擦過傷はあるが、幸いにも骨折や捻挫のたぐいはない。
足元のおぼつかない椿を柊がしっかりと支えている。「わりぃな」「いえ」それきりふたりは無言で歩き続けた。
ふと、柊が振り向いた。
榊はしゃがみこみ、土蜘蛛の灰を丁寧にサンプリングしていた。
戦闘時よりも険しさを増した顔をしているように見えた。
●
あの土蜘蛛は、人工的に造られた怪異だ。
榊は、そう当たりをつけた。証拠はなにもない。強いて言うなら、この自分が見たことも聞いたこともないということが、なによりの証拠だ。
もちろん、そんな曖昧なことで組織は動かせない。そもそも煙たがられている自分の話を好き好んで聞く連中が、あんな腐った組織にいるはずもない。
(だからこそ、楓や桃に動いてもらうしかないんだが――)
「おっまたせー!」
噂をすればなんとやら。
件の人物が現れたことに、榊は内心でひと息ついた。
「おせぇんだよ、桃」
「あー! ひっどー! これでもちゃちゃっと片して全力で来たってのに!」
ぶー垂れる昔なじみをあしらいつつ、榊はサンプリングした灰を投げ渡した。
「どれくらいかかる?」
「んー、そうだね。ま、一週間もらえ――」
「三日だ」
桃のこめかみがひくついた。
「あのねー! いくらなんでも人使い荒すぎない!? いっつもいっつも、あたしのこといったいなんだって思ってるの!? こっちだって暇じゃな――」
「ここに楓のマッチングアプリのアカウントが――」
「OK。三日だね、楽勝だよ」
頬が上気した桃が、ふんす、と鼻息を荒くする。
これで仕事もはかどるし、溜飲も少しは下がる。
我ながらなんともうまく転がしたものだ。
「――どう思う?」
不意に桃が訊いた。
「おまえはどうなんだよ」
あえてすっとぼけて返した。
桃たちに動いてもらわないと話は進まないが、必要以上に動かれてもまずい。あくまで自分ひとりが勝手に動いていることにしておかないと、こいつらの身まで危うい。
「クロ。それも真っ黒寄りのクロ。真っ黒クロ助だね」
「そりゃまた研究者っぽくない言い分だな。まだ証拠なんてなにもないだろ」
「榊くんが疑ってる。それ以上の証拠なんていらない」
「――なに言ってんだ」
「榊くんもまだまだだねー!」
桃はしたり顔で言って、その場から駆け出した。
その場に残された榊は頭を掻きつつ、
「……おれもまだまだ、か。……そうだな」そうぼやいて桃とは反対方向、森のさらに奥を目指した。
●
「梓!?」
救護テントに駆け込んだ椿は、開口一番そう叫んだ。
「椿……よかった、無事だね」
「喋んなくていい!」
ひどい有り様だった。
顔の左半分と両手にも包帯が巻かれ、左足には痛々しいギプスがはめられている。
梓は視線だけで椿の状態を確認して言う。
「椿は……ほとんど無傷じゃん。さすが、だね」
「んなわけないだろ。オレだってボコボコにされたって……それに杏を守り抜いた梓のほうが、よっぽど……」
それ以上は言葉を紡げなかった。
杏は梓の隣のベッドで眠っていた。いい夢でも見ているのだろうか、おだやかな寝息を立てている。
少し前まではこうではなかった。
椿と柊が拠点に戻ってきて、すでに一時間以上が経っている。いままでテントを訪れなかったのは、梓の治療を待っていたのがひとつ。
もうひとつは、杏のことだった。
●
戻ってきた直後のことだ。
『椿!』
戻ってきたふたりに最初に気づいたのは、他でもない杏だった。救護担当の候補生から手当を受けている最中だったようだ。
見たところ、けがらしいけがは見当たらない。椿はほっと胸をなで下ろしたが、次のひと言で血相を変えた。
『椿! 梓……梓が!?』
『! 梓がどうした!?』
混乱している杏をなだめつつ、話を聞いた。
ひとり潜んでいた杏の目の前に、例の土蜘蛛が一体現れたこと。
取り乱した自分を、間一髪で梓が助けてくれたこと。
ひとりで戦い、ひとりで傷ついたこと。
自分はただ震えていただけで、なにもできなかったこと。
もうダメだ、と思ったときに榊が現れ、なんとかことなきを得たこと。
『あ、ああたしが、もっとしっかりしてれば』
『落ち着け。もう大丈夫だ』
『そうよ、あたしがもっとうまく立ち回れたら、梓はこんな目には! あたしが……あた、しが』
『落ち着いてください、杏さん。杏さんの責任では――』
『でも、ダメなの! 土蜘蛛の顔が! あの虚ろな目が、あたしを! ――あああぁぁぁああぁぁあぁ!』
『杏!』
『杏さん!?』
ひどく錯乱しだした杏を、椿はやむなく取り押さえた。それでもまだ暴れたので、教官の指示のもと鎮静剤が打たれた。
多くの候補生が見ている前で錯乱したこともあり、たちまち動揺は広がった。土蜘蛛と遭遇したのは椿たちだけだったが、それがかえって話を無駄に膨らませてしまったらしい。
そうした騒ぎが落ち着くのを待って、ようやく椿は梓の元を訪れたのだった。
●
「ちゃんと検査しないと、わかんないけど、全治三ヶ月だってさ」
「そうか。まぁ長い休養と思ってゆっくりしろよ」
「お見舞いの品は、メロンとマンゴーがいいな。北海道と宮崎の、いいやつ」
「わかった。あとはちゃんと高いエロ本も持って行くから」
「いまどきエロ本って。……でも、せっかくだからそれもいいかもね」
「うそだろ!?」
ふたりの乾いた笑いが狭いテントに響く。救護担当の候補生も数人いるが、なにも言わずにいてくれた。
「……杏には、悪いことしちゃったね。起きたら謝らないと」
「梓が謝ることなんてなんもないだろ。こうしてゆっくり寝ていられるのも、梓が身体張ったからだしな」
「だけど――」
「だけども、なにもねぇよ!」
椿がベッドをおもいきり殴った。簡易ベッドが軋んだ。
「悪いのはオレだ! オレに霊力があったら……! オレがもっとうまく立ち回れていたら……!」
「椿」
「なにが壱番隊だ! まともに怪異の一体も祓えないオレが、一番役立たずだ!」
「椿」
「ちくしょう! なんでオレはこんななんだよ……! 霊力はあるのに、雑魚過ぎて破魔矢の一発もまともに撃てない! それなら、もういっそ霊力なんて最初っから――!」
スッと。
梓の手が、椿の手をにぎった。
「落ち着いてよ。ぼく、これでもけが人だよ。杏も起きちゃうし、それに――」
梓の視線が、入り口付近で作業している救護担当の候補生たちに向けられた。事情を察してくれてはいるものの、さすがにこれ以上騒ぐとつまみ出されそうだった。
「……わりぃ」
「まったく、困ったもんだよ。椿がこんなんじゃ、おちおち入院もしてられないや。さっさと、身体治さなくちゃ」
梓が力なく笑う。
敵わないな、と思いながら椿も苦笑した。
「間もなくヘリが到着します。そろそろ――」
と、救護担当が言った。
「はい」
梓の身体がストレッチャーに移される。テキパキと作業を進める救護担当たちを尊敬の眼差しで見ていると、
「――すみません、最後に少しだけ、彼と話させてください」
と、梓が言った。
救護担当はけげんそうな顔を向けるも、納得してくれたらしい。先に杏を運ぶように動き出した。
「なんだよ」
「ちょっと耳貸して」
いまさら内緒話かよ、と思いつつ椿は耳を寄せる。そのうえで、梓は視線を左右に振り、声を潜めた。
「ソレだけは、土蜘蛛の体の中で灰にならずに残ってたんだ。本当は榊さんに、直接渡したほうがいいんだろうけど、すぐ椿たちのとこに向かってったから、渡せなくてさ」
椿は黙ってうなずいた。
「だから椿から渡しておいて。あの人なら、きっとなんとかしてくれるでしょ」
「それだけ、か」
「? それだけ、って……まさか、椿……!」
椿が視線をそらした。
梓は呆れた表情を向ける。
「あんなの、ぼくたちの、手に負えるわけないでしょ」
「そりゃそうだけど……オレがこの手で――」
テントを翻し、救護担当が戻ってきた。
ふたりは視線を交差させ、
「いい? 椿がなんとかする必要なんて、ないからね」
そのとき、轟音と強い風がテントをゆらした。ヘリが到着したらしい。
「お願いします」梓がそう言うと、ストレッチャーが押されていった。
「………………」
テントにひとり残された椿の手には、燃えかすのようなちいさな紙片がにぎられていた。興奮した椿を梓がなだめたときに、そっと渡してきたものだ。
「………………」
そのあたりに適当に置かれていたガーゼで紙片を包み、椿もテントから外へ出る。
ちょうどヘリが離陸しはじめたところだった。
椿はヘリを見上げ、ふたりの親友を無言で見送った。
●
「番匠谷さん」
と、柊が声をかけた。
「東堂さんとはお話できましたか」
「ああ。……悪いな、気を使わせて」
「いえ」
柊の目が、小さくなっていくヘリへ向けられた。だが、それもほんの一瞬。
すぐさま視線を椿に戻し、
「お身体は大丈夫ですか?」
「打撲と擦過傷。骨折も捻挫もない。戻ったらMRIとCTは撮るらしいけど、体感としては大事はないな。神宮寺は?」
「軽い霊力欠乏だそうです。わたくしも精密検査は受けますが、とくになんとも」
「そうか」
あれだけの怪異に襲われたのだ。この程度で済んでいるなら御の字だ。
もっとも、ふたりの顔色は曇ったままだが。
「あの怪異は、なんだったのでしょうか」
「さぁな」
ポケットの中で小さな紙片が、かさりと鳴った。
「あとは榊さんに任せよう。まさか、あんなに強かったなんてな」
脳裏によぎる榊の姿。
化け物じみた土蜘蛛を五体同時に相手して、あの余裕。霊力がとか、体力がとかそういったことでは計り知れない、圧倒的な強さだった。
「………………」
「神宮寺? どうした?」
「いえ」
そう言って、椿と真正面から目を合わせる。
「番匠谷さん、なにか隠していませんか?」
「――なにが?」
「わたくし、これでも人をよく見ているつもりです。普段の番匠谷さんなら、そんななげやりな態度は取らないし、人任せにするはずがありません」
「なげやり、って……いや、そんなこと言われても、実際オレには荷が重い――」
「それです」
ぴしり、と細い指が鼻に突きつけられた。
「普段の番匠谷さんなら、そんなふうに諦めたような言い方はしません。それがなによりの証拠です」
「いや、だから――!」
ただでさえ苛ついているのに、この物言い。一瞬で頭に血が上った。
「オレたちにはあの土蜘蛛の相手なんか荷が重すぎるっての! それに榊さんの強さ、おまえも見ただろ!? 化け物の相手は化け物に任せとけば――」
「だれが化け物だ、だれが」
そういって現れたのは榊だった。
土蜘蛛を前にしたときの覇気は見る影もない。頭をぼりぼり掻いて、大きな欠伸までしている。
「人聞きの悪いこと言ってんじゃねぇよ」
「あっ、いや、その――」
「杠教官、さきほどはありがとうございました」
律儀に礼をする柊にすら、榊はめんどくさそうな表情を向ける。人間離れした強さはともかく、戦場以外では本当に社会不適合者のようだ。
いや、そんなことはどうでもいい。
「あー、っ、その……榊さん」
「あぁ?」
ポケットの中で紙片をいじる。ガーゼに包まれた小さな紙片が、やたらと冷たく感じた。
もぞもぞと煮え切らない椿に、榊が珍しくやさしい声色で言う。
「どうした? なんか言いづらいことでもあんのか?」
「っ、いや……」
『いい? 椿がなんとかする必要なんて、ないからね』
「――例の土蜘蛛のこと、なにかわかったのか? 他の場所にも現れたとか、いったいどんな怪異だったのか、とか」
ポケットから手を抜いた。
指先にはガーゼのざらついた感触がまだ残っている。
「さあな。異常な怪異、ってのはおれにもわかるが、それ以外はサッパリだな」
「……そんだけか……?」
「怪異に興味ねぇんだ、おれ」
「あんなに強いのに?」
「強さと怪異に詳しいのはまたべつだろ。おれはおれが祓った怪異なんかどうだっていいんだよ。ただ祓うことしか、許されてねぇんだよ」
「? それって――」
榊は問答無用でパンパンと手を打った。
「っていうか、おまえらなにやってんだよ。さっさと荷物まとめろ。撤収すんぞ」
話はこれで終わりらしい。榊は足早に他の候補生たちの元へ向かっていった。
なんとなく、榊は話を打ち切りたかったんじゃないか、と思った。とはいえ、実際試験は中断され、これから一斉に帰投するのだから言ってることは間違ってはいないのだが。
釈然としないながらも、椿は荷物を片付けるために動き出した。
「………………」
並々ならぬ決意を込めた顔を見たものは、だれもいない。
「………………」
その様子を後ろから見ていた柊は、その場で黙ったまま立ち尽くしていた。
彼女の表情もまた、だれも目にしていなかった。




