痛みの不在
高校を卒業してからも、二人の関係は水が流れるように自然に続いていた。
進学先が離れ、頻繁には会えなくなっても、光希は講義の合間や移動の空き時間に彼女と連絡をとった。
恵も、夜遅くにレポートを書き進める手を止めて、彼の声に耳を傾けていた。
会えない夜の寂しさは、互いの声を媒介にすることで、むしろ二人の絆を確かなものにしているように思えた。
自分たちはこのまま、当たり前のように同じ未来へ歩んでいくのだろう。
光希はそれを、一片の疑いもなく信じていた。
けれど、大学という新しい世界は、光希の輪郭を少しずつ変えていった。
もともと人懐っこく、誰の懐にも飛び込んでいける彼の周りには、自然と人が集まった。
男女を問わない交友関係。
週末のたびに繰り返される飲み会やイベントの様子が、スマートフォンの画面を通じて恵の元へと届けられる。
写真の中で、見知らぬ女友達と肩を並べて笑う光希の姿。
恵はそれを見つめるたび、胸の奥が小さくざらつくのを覚えるようになっていた。
それでもはじめのうちは、恵は「楽しそう」「よかったね」と、いつもの穏やかな笑みを崩さずに口にした。
ある秋の夜、光希は何気なく話題に出した。
同じサークルの女友達と二人で映画を観に行った、と。
電話の向こうの恵は、しばらく迷うような沈黙のあと、掠れた声で言った。
「……二人で遊びに行くのは、ちょっと嫌だな」
それは、彼女が初めて口にした明確な拒絶だ。
だが、光希はその言葉を、自分に対する束縛や非難としては受け取らなかった。
むしろ、自分の誠実さをちゃんと説明すれば分かってくれるはずだという、根拠のない自信があった。
「でも俺、男とか女とかじゃなく、人そのものが好きなんだよね」
光希は受話器の向こうで、屈託なく笑った。
「そういうので人付き合い狭めたくないし。お互い制限し合う関係って、なんか嫌なんだ」
彼にとって、それは嘘偽りのない本音であり、一種の理想的な恋愛観の共有だった。
決して、恵を軽んじているわけではない。
むしろ、「俺のやり方を一番に理解してくれる恋人」として、全幅の信頼を置いているからこそ言える言葉だった。
恵は、長い沈黙に沈んだ。
受話器から聞こえるのは、彼女の微かな呼吸の音だけ。
やがて、彼女はぽつりと言った。
「そっか、わかった」
それ以上、彼女は何も口にしない。
光希はその引き際の良さを「大人だな」と好意的に受け止め、安堵の笑みを浮かべた。
「お前ってほんと聞き分けいいよな、助かる」
その瞬間、受話器の向こうで、恵の心の一部が静かに削り落とされたことなど、光希は知る由もなかった。
それ以降、恵は光希に対して「嫌だ」という言葉を一切使わなくなった。
光希がどんな集まりに出かけようと、誰と二人で会おうと、彼女はいつも「楽しそうだね」と微笑む。
光希はますます、自分たちは互いを尊重し合える最高の関係だと確信していく。
実際のところ、恵はただ、「言っても意味がない」と、自分の感情に蓋をすることを選んだだけだった。
伝えることを諦め、自分の傷を自分で手当てするようになったのだ。
それは、高校時代に一人で大きな十七絃を運び続けていた彼女の、悲しいほどに変わらない、心の在り方だった。
社会人になって二年目の冬。
仕事の忙しさに追われ、互いの存在が生活の背景へと退きつつあった頃、恵から一枚の絵葉書のような案内状が届いた。
趣味として細々と続けていた箏の、ささやかな演奏会があるのだという。
仕事終わりに駆けつけた光希は、ホールの客席の後方に滑り込んだ。
ステージの最奥、舞台の袖口に近い薄暗がりに、恵はいた。
学生時代と変わらず、十三絃の華やかな列の後ろで、十七絃の前に静かに腰を下ろしている。
その姿を見た瞬間、光希の胸に、埃っぽい体育館の匂いとともに懐かしい記憶が蘇った。
やがて演奏が始まると、あの低音が会場の空気を震わせた。
だが、高校生のときに聴いた音とは、どこか違っていた。
尖った硬さが取れ、以前よりもずっと柔らかく、けれど深く、重く響く。
それはホールの床を伝い、客席の椅子の背もたれを揺らし、光希の身体の最も深い場所へと沈み込んでいくような音だった。
(ああ、やっぱり恵の音だ。すぐに分かる)
光希は、どこか誇らしいような気持ちでその響きに耳を傾けていた。
自分だけが、彼女の音の価値を知っている。
そんな自負すらあった。
演奏が終了し、舞台裏の楽屋口で恵を待った。
光希は「お疲れ」とペットボトルを差し出した。
「ありがと」
恵がそれを受け取ろうと左手を伸ばした、その時だった。
街灯の白い光に照らされた彼女の指先から、鮮やかな赤が滲んでいるのが見えた。
「うわ。どうしたの、それ」
光希は思わず声をあげ、彼女の手首を掴みかけた。
指の腹の皮膚が、擦れたように削れている。
恵は少しだけ笑い、自分の指先を見つめた。
「十七絃って、十三絃よりずっと絃が太いから。ピチカートがある曲をやると、どうしてもこうなっちゃうんだよね」
何でもないことのように、彼女は淡々と言った。
右手に着けた爪で絃を弾く一方で、左手で絃をはじくやり方。
そういえば、高校時代にも聞いたことはあった。
「まあ、昔から慣れてるから大丈夫。大したことないよ」
「見てるこっちが痛いって」
光希は眉をひそめながら、ビジネスバッグのポケットをごそごそとあさり、常備していた絆創膏を引っ張り出した。
「ほら、貼りなよ」と手渡すと、恵は「ありがとう」と微笑んで、手際よく傷口を覆った。
光希は、それで満足していた。
彼女が微笑んでいるという、そのこと以上の思考が、彼の頭を巡ることはない。
だが、二人の間に流れる空気の質感は、すでに致命的な歪みを孕んでいた。
恵は昔から、「痛い」と言葉にはしない人間だったのだ。
重いものを抱えても、皮膚が裂けて血が流れても、誰かに助けを求めることをしない。
自分で抱えて、自分で傷に慣れて、最後には笑って済ませてしまう。
それが彼女の生真面目さであり、脆さでもあった。
そして光希は、その痛いと言わない優しさに、高校時代からずっと甘え続けてきたのだ。
彼女が静かに耐えていることを、「聞き分けが良い」「大人だ」と都合よく解釈する。
それが彼女の領域を侵食し続けていることに、彼はまだ気付けずにいる。
帰り道、冷え込んだ駅前までの道を歩きながら、恵はコートのポケットに両手を深く潜らせたままで、ぽつりと呟いた。
「十七絃ってさ、低音だから、あんまり目立たないでしょ?」
「そうか? 俺はすぐ分かったけど」
「光希はね」
恵は少しだけ歩調を緩め、夜のコンクリートに視線を落とした。
「でも、普通の人はみんなメロディを聴いちゃうし、私がちょっとくらい間違えても、そんなに気づかれないの。そういう楽器だから」
自嘲するような、小さな笑い声。
けれど、彼女はすぐに前を向き、一歩一歩を確かめるように歩きながら、静かに言葉を繋いだ。
「でもね、土台が抜けると、曲全体が全部変になっちゃうんだよ。一瞬で、全部崩れちゃうの」
「へえ、奥が深いんだな」
光希は、スマ-トフォンの画面に目を落としながら、軽い相槌を打つ。
その言葉が、楽器のことだけを指しているのではないことに、光希は気づかなかった。
彼女という確かな土台の上に、あぐらをかいていたのは自分自身だということに。
その土台が、すでに限界まで摩耗し、音も立てずに崩落の瞬間を待っているということにも。




