君の音は、すぐに分かった
夕闇は刻一刻と深まり、薄桃色だった川面は、次第に夜の藍色に浸食されつつあった。
頭上を覆う枝垂れ桜の隙間から、ぽつぽつと街灯の明かりが漏れ始め、濡れたような夜桜の輪郭を浮かび上がらせる。
二人の足音だけが、湿ったアスファルトに規則正しく響く。
恵は歩みを緩め、吸い込まれるような川面を見つめたまま、小さく呟いた。
「ここ、変わらないね」
「毎年ちゃんと咲くしな」
光希はポケットに手を突っ込んだまま、軽くいなすように返した。
学生時代から何度も歩いた、見慣れすぎた散歩道だ。
変わらないことなど、彼にとっては当然の事実に過ぎなかった。
しかし、恵は歩みを止めることなく、なおもじっと桜を見上げ続けていた。
街灯の光を浴びて白く浮かび上がる彼女の横顔を、光希は横目で盗み見る。
その瞳は、ただ目の前の景色を見ているだけには感じられない。
いつか失われるものを、五感のすべてを使って網膜に焼き付け、覚えておこうとしているような、静かな執着が感じられた。
一陣の風が吹き抜け、しなやかな枝が大きく揺れる。
零れ落ちた一枚の花びらが、恵のトレンチコートの肩にそっと舞い降りた。
彼女ならすぐに気づいて、「わっ、びっくりした」と小さく悲鳴をあげるか、笑って払い落とすと思っていた。
それなのに恵は、肩の重みなど初めから存在しないかのように、ただ前を向いて歩き続ける。
そのあまりに自然な拒絶に、光希の胸の奥で、再び冷たいざわめきが広がった。
その気まずさを誤魔化すように、彼は言葉を紡ぐ。
「仕事どう? 最近忙しい?」
「うん、まあ普通かな」
恵は視線を前に向けたままで、淡々と答えた。
「光希は?」
「俺も変わんないよ。相変わらず上司がうるさくてさ」
いつも通りのやり取りだった。
使っている言葉も、互いを呼ぶ声音も、高校生の頃から何一つ変わっていないはずだった。
それなのに、なぜだろうか。
恵の声は、光希の耳に届くまでにひどく時間がかかる気がした。
手を伸ばせば触れられる距離にいるはずの彼女が、信じられないほど遠くにいるように思える。
光希はその距離感の理由を、いまだ正しく理解できずにいた。
ただ、足元を流れる川の水が、二人の足跡を容赦なく過去へと流し去っていくような。
言い知れぬ焦燥感だけが、彼の足取りを少しずつ重くさせていった。
◆
高校時代、文化祭の演奏会。
秋の初めの体育館は、充満した熱気と埃の匂いで息が詰まりそうだった。
ステージ一面に広げられた鮮やかな緋毛氈の上には、色とりどりの小紋と袴を纏った十三絃奏者の部員たちが、華やかに並んでいる。
その一番後ろ、舞台の端の影に馴染むようにして、恵は十七絃の大きな箏を前に座っていた。
華やかな柄や色の着物に交じって、恵は薄墨に控えめに桜があしらわれた袴を選んでいた。
袖口から覗く彼女の白い手首が、やけに目についた。
観客の誰もが前列の主旋律に目を奪われる中、演奏が始まる。
その瞬間、深い低音が、木造の床を伝って光希の足裏から身体の奥へと突き抜けた。
それは耳で聴こえるというより、鼓膜を、そして皮膚を直接震わせて触れてくるような感覚だった。
華やかな旋律の底を支えて包み込む、重厚で確かな響き。
光希の視線は、自然と最後列にいる恵へと吸い寄せられていった。
彼女は小さな身体を精一杯に使って、その重い音を紡ぎ出していた。
演奏が終わると、体育館の裏手は機材を運ぶ生徒たちで慌ただしくなった。
光希は、丸められた緋毛氈の毛羽立ちを押さえるように抱え、片付けようとしていた恵を見つけると、歩み寄った。
「恵の音、すぐ分かったよ」
恵は、丸い目をさらに丸くした。
それから、少しきまり悪そうに髪を耳にかけながら、照れ笑いを浮かべた。
「低音だからじゃない?」
「違う、なんかちゃんと分かったんだ」
光希が真剣な声音で返すと、恵はほんの少しだけ沈黙した。
夕暮れの隙間風が二人の間を吹き抜ける。
やがて彼女は睫毛を伏せ、自分の手元を見つめながら、静かに言った。
「でも、ほんとに私は目立たなくてもいいんだ。皆を一番後ろから支えてる感じが、すごく好きだから」
その言葉を聞いたとき、光希はぼんやりと思った。
この少女は、きっとこれからもずっと、自分の意志で誰かを支える側に立ち続けるのだろう、と。
それは彼女の優しさであり、同時に頑なな生き方でもあった。
それから、彼女が先程まで触れていた十七絃を、二人で部室の倉庫まで運んだ。
「俺も持つよ」
光希が軽い気持ちで楽器の片側を抱え上げた瞬間、ずしりと腕に負荷がかかる。
その質量に、思わず声が漏れた。
「うわ、思ったより重い……」
隣で同じように端を抱えていた恵が、悪戯っぽく笑った。
「そうでしょ。中は空洞だけど、大きいからね」
西日の差し込む長い廊下を、二人は歩調を合わせてゆっくりと進んだ。
その重さを感じながら、光希の胸には、言葉にならない感情が満ちていった。
(こいつはずっと、こんな重いものを一人で持ってたんだ)
あの出会いの日から、彼女が一人で耐えていた重さの正体を、光希は今、自分の身体を通して初めて実感していた。
誰に頼ることもなく当然のように重荷を背負い、それでも微笑む彼女の横顔から、目が離せなかった。
西日に照らされた恵の横顔を見つめながら、光希は自覚した。
胸の奥がじんわりと熱くなるこの感覚が、恋と呼ばれるものであることを。




