枝垂れ桜の下で
夕暮れの光が、すべてを曖昧な薄桃色に染め上げていく。
社会人になって数年が経ち、光希は日々の業務に追われている。
地元を流れるこの川沿いの景色は、ただの帰路の延長線上に過ぎない。
頭上には、満開の枝垂れ桜が零れるように枝を伸ばしている。
春の生ぬるい風が吹くたびに、枝を離れた花弁が、滑るように水面へ吸い込まれていく。
どこかの誰かが「美しい」と歓声をあげるかもしれないその情景も、今の光希の目を引くことはない。
彼はスラックスのポケットからスマートフォンを取り出し、液晶の無機質な光に目を落とした。
約束の時間はとうに過ぎている。
「わざわざ平日に呼び出すなんて、久しぶりだな」
小さく呟いた言葉は、風の音に掻き消されていく。
最近、恵からの連絡の頻度は目に見えて減っていた。
それでも、互いに社会人としての責任が増え、生活のリズムが擦れ違っていくのは、仕方のないことだ。
高校生の頃から途切れることなく続いてきた二人の関係。
それは光希にとって、空気と同じように、そこにあることが当然のものになっていた。
不意に、少し離れた位置から微かな足音が聞こえ、光希は顔を上げた。
薄闇が混じりはじめた桜の影から、恵が歩いてくる。
小柄な体格も、少しだけ猫背気味な歩き方も、彼女そのものだった。
それなのに、距離が縮まるにつれて、光希の胸に奇妙な感覚が過る。
彼女の纏う空気は、あまりにも静かだった。
それはまるで見えない硝子の壁で、世界から隔てられているかのような冷ややかさを含んでいた。
恵は、軽やかに髪を揺らしながら眉を寄せ、申し訳なさそうに声をかけた。
「遅れてごめんね」
光希は違和感の正体をうまく掴めないままで、照れ隠しのような軽い笑みを浮かべて返す。
「いや。……なんか最近、服装落ち着いたね」
恵の纏っているトレンチコートや、抑えめの色合いのスカートは、かつての彼女が好んでいたカジュアルなものとは、確かに違っていた。
大人の女性らしくなった、と言えばそれまでだが、光希の目には、それがどこか寂しく映る。
恵は、光希の視線から逃げるように少しだけ目を逸らした。
彼女の声は、驚くほど低く、穏やかだった。
「光希、前から服のこといろいろ言うでしょ」
責めるような声音というより、むしろ、諦めを含んだ優しい拒絶に近かった。
光希の胸の奥で、小さな、しかし鋭い引っ掛かりが生じた。
これまでなら冗談として聞き流し、軽口を返せたはずなのに、なぜか喉の奥につっかえる。
光希はその不快な感覚を振り払うように、わざと大きな声で笑った。
「え、そんな言ってたっけ」
「うん、結構ね」
恵はそれ以上、何も続けない。
言い返すわけでも、笑い合うわけでもなく、ただ小さく息を吐くだけだった。
二人の間に、硬く冷たい沈黙が降りる。
光希はその沈黙の深さに気づかないふりをしながら、「行こうか」と促した。
並んで歩き出した二人の影が、夕闇の迫る川沿いの道に、長く、離れて伸びていく。
川のせせらぎに、恵と出会ったあの日のざわめきが重なる。
◆
放課後の文化棟は、様々な部活動が奏でる不協和音と、古い木造床の匂いに満ちていた。
高校二年に進級して間もない春の日、光希は薄暗い廊下の向こうから、奇妙なものが近づいてくるのを見た。
それは人間の背丈を優に越える、細長い塊だった。
最初は、特に気に留めていなかった。
しかし、その塊は妙にもぞもぞと不安定に揺れ、ときおり壁にぶつかりそうになりながら、恐ろしくスローペースで進んでくる。
「あはは、見て。箏が歩いてるみたい」
通りすがりの後輩たちが、声を殺して笑った。
その直後、大きな木の塊の横から、むっとした顔が覗いた。
「ちょっと! 聞こえてるからね!」
それが、光希と恵の最初の出会いだった。
少女の身体は、身体の前に盾のように構えられた十七絃の箏に対して、あまりにも小さかった。
長い廊下を一歩進むたび、膝が頼りなく揺れ、今にも楽器ごと転倒しそうに見える。
それでも彼女は誰かに助けを求めるでもなく、額にじっとりとした汗を浮かべながら、黙々と足を進めていた。
すれ違いざま、光希の目に、彼女の小さな両手が映った。
指先には、痛々しいほどいくつもの絆創膏が、歪に巻き付けられている。
(なんであんな小さい身体で、一人であんなもん抱えてるんだろう)
可哀想だとか、助けてあげたいとか、そんな大層な感情ではなかった。
ただ、西日の差し込む廊下で、自分よりも遥かに大きな木塊を必死に支える彼女の姿から、どうしても目が離せなくなったのだ。
張り詰めた彼女の空気だけが、その空間で異質に浮き上がっていたのを、今でも覚えている。
――その後、彼女がクラスメイトである恵だと知るまでに、時間はかからなかった。
翌日の休み時間、光希は窓際で外を眺めていた恵の席へと歩み寄り、何気ないふうを装って話しかけた。
「あのさ。……昨日運んでたやつ、重くないの?」
恵は驚いたように、黒い目を瞬かせたが、すぐに形の良い唇を綻ばせた。
「重いよ、すっごく」
あっけらかんとした笑顔だった。
だが、光希にはその笑顔が、どこか歪んで見えた。
それは「重いのは当たり前だから、自分が頑張るしかない」と、最初からすべてを諦めて受け入れているような、そんな笑い方だった。
その違和感をどう言葉にすればいいか分からず、光希は照れ隠しに頭を掻きながら、心に浮かんだことだけを口にした。
「でもなんか、お前とあの楽器、すごく似合ってるって思ったよ」
それは光希なりの、不器用な親しみの表現だった。
「ありがとう」
恵は一瞬だけきょとんとした表情を見せた後、絆創膏の貼られた手で口元を隠し、少し照れたように小さく笑った。
「あの楽器ね、十七絃っていうんだよ。私、筝曲部でね。低音担当なんだ」
そう嬉しそうに語りながら、垂れた目尻をさらに下げてこちらを見ていたあの表情。
廊下を吹き抜ける春の風が、彼女の短い髪を柔らかく揺らしていた、あの日。
それがまだ、胸の奥にこびりついている。




