020話. 香水
当然のことながら、ルーベンもスペイン国王フェリペ2世に会いたいとは思っていた。
だが、一国の王とは、会いたいからといって会える人物ではなかった。
『再来年に開かれる結婚式へどうにか出席して、顔を覚えてもらおうと思っていたのに、こんなふうに話が転がるとはな』
結婚式までに人脈を最大限築き、何としてでも一度は顔を見せようとしていたルーベンだった。
ところがベアトリスのおかげで、計画より二年も早くフェリペ2世に会えることになった。
『それにしても、焼失する前のアルカサルがどんな姿だったのか気になるな』
アルカサルは九世紀頃、ムーア人がマドリード一帯を占領した際に築いた要塞だった。
それをカスティーリャ王たちが拡張し、改築して使っていたのだ。
1734年のクリスマスイブに発生した大火災でほぼ全壊したため、その跡地には後にマドリード王宮が建てられた。
そのため、前世で何度もマドリードを旅行したルーベンも、アルカサルは絵で見たことしかなかった。
『いや、違う。今はそれが重要なんじゃない。こうなると計画を修正しないとな』
フェリペ2世にハーブティーを淹れれば、褒美が与えられるはずだった。
もちろん、どれほど満足させられるかによって、その内容も変わるだろう。
『向こうが決めてくれるなら、ありがたく受け取ればいい。けど、欲しいものを言えと言われた時に何を頼むかは考えておかないとな』
フェリペ2世がどのような反応を見せても対処できるよう、いくつもの場合を想定して計画を立てなければならなかった。
このような機会がいつまた訪れるか分からなかったからだ。
そうして長いこと考え込んでいると、副執事が話しかけてきた。
「お前は今、アルバ家の一員として動いている。つまり、お前が失敗すればアルバ家の名誉が傷つくということだ」
当然、人々の注目を集めることになるため、自分で身の振り方を弁えろという意味だった。
「承知しました」
「それから教師を付ける。王室の礼法を身に付けておけ。わずかな失敗でも大きな罰を受けることになりかねん。徹底的に習得するように」
『この人、本当にくそ真面目だな』
言われなくても、そのつもりだった。
フェリペ2世から何かを引き出さなければならなかったからだ。
***
無理やり連れてこられたとはいえ、ルーベンは非常に満足のいく旅をしていた。
まず、待遇が悪くなかった。
特別に世話を焼いてくれるわけではなかったが、だからといって雑用をさせられることもなかった。
何より、宿泊のために各都市の教会へ立ち寄ったことが最高だった。
『本当にこれくらいならVVIP待遇だな』
一人で旅をしていたなら、修道院内にある旅人用の相部屋で過ごしていただろう。
多少寄付して個室を得たとしても、さほど良い部屋ではなかったはずだ。
だが、アルバ家の名の下で動いていたため、教会が用意する部屋はルーベンの自室よりはるかに良かった。
『滞在時間が短いのは惜しかったけど、教会巡りも十分できたな。後で余裕ができたら、じっくり見に来よう』
道中で立ち寄った大聖堂だけでも四か所あった。
そのうちオウレンセ大聖堂はすでに訪れたことがあるので除外するとしても、レオン、バリャドリッド、セゴビアの大聖堂を見られただけで幸せだった。
そして、待望のアルカサル。
窓の向こうに、アルカサルの壮大な姿が見え始めた。
『うわ、すごいな。尖塔がめちゃくちゃ高い』
前世で見たマドリード王宮とは、まったく異なる印象だった。
もう少し目に焼き付けておきたかったが、副執事の声に視線を戻した。
「間もなくアルカサルに到着する。服装を点検しろ」
それはルーベンを含む全員への命令だった。
身なりを整えてしばらく待つと、馬車の速度が徐々に落ちていった。
やがて馬車が止まり、扉が開いた。
ルーベンはこれまで教えられたとおり、自分の位置に立った。
深く頭を下げていたため、副執事がどこで何をしているのかは分からなかったが、予定どおり彼が来るまで待っていた。
しばらくすると、誰かが近づいてくる気配を感じた。
「ふむ」
それは、これから出発するという副執事の合図だった。
副執事について内部を移動する間も、決して頭を上げてはならなかった。
『ああ、ベラスケスやティツィアーノ、アロンソ・サンチェス・コエリョの絵が掛かっているはずなのに! 死ぬほど見たい!』
激しい欲望が湧き上がったが、一瞬の衝動で台無しにするわけにはいかなかった。
未練を残しながら副執事について歩くことしばし。
一行は、ある扉の前で立ち止まった。
すると護衛が室内へ向かって叫んだ。
「公爵夫人。副執事が到着いたしました」
返事の代わりに扉が開いた。
『緊張しろ、緊張しろ』
ルーベンを呼び出したのはベアトリスではなく、その母親であるアルバ公爵夫人だった。
絶対に失敗してはならなかった。
「夫人がお召しになったルーベンです」
「ビーゴまでは遠い道のりだったでしょうに、無理なお願いを聞いてくれてありがとう」
「いいえ。国王陛下の晩餐に同席する可能性のある子供です。夫人は妥当なご命令を下されたまでです」
「ありがとう。それで、ここまで連れてきたということは、陛下との晩餐に同席させても問題ないと判断したのですね?」
「私の浅い見立てでは、そのとおりです。夫人に最終確認をお願いしたく存じます」
『何でも聞いてみろ。聖書まで朗読しながら答えてやる』
彼らが求める基準が何なのかは分からなかった。
だが、どのような質問をされても満足のいく答えを返す自信があった。
ここへ来るまでの一週間、独りで予想問題を作っては答えることを、何度も繰り返してきたからだ。
「ルーベンといったかしら?」
「はい、ルーベン・クルーガーです。アルバ家の女主人であられる公爵夫人にお目にかかれて光栄です」
「よろしい。顔を上げてみなさい」
以前、ベアトリスに言われた時とは違い、聞き返すことなくゆっくりと顔を上げた。
教師から、公爵夫人に顔を上げろと言われた時にどうすべきか、すでに教わっていたからだ。
『もう少し、もう少し。よし、そこで止めろ』
三十度ほど下げていた頭を、十度ほどまで起こした。
視線は依然として床へ向けたまま、飛んでくるであろう質問を待った。
「よろしい。娘の言ったとおり、とても品があるわね。合格よ」
『ん? 今、何て言った?』
公爵夫人は、ルーベンの顔が気に入ったのだった。
***
合格を告げられたルーベンは、使用人に案内された部屋で休んでいた。
『まあ、僕がフェリペ2世と会話するわけでもないし、見た目さえ整っていればよかったってことか』
部屋へ戻ってよく考えてみると、公爵夫人の意図を理解できた。
どうせハーブティーはベアトリスを通じて飲んだことがあるはずだからだ。
『それにしても、何でこんなに豪華な部屋なんだ?』
アルバ家の一員として来たからなのか、そもそも宮殿にはこのような部屋しかないのか、とてつもなく良い部屋を割り当てられていた。
高価な装飾品はもちろん、フェリペ2世の肖像画や様々な絵画まで掛けられていた。
『こんなふうに贅沢してるから国が破産するんだよ』
スペインは1557年に、すでに国家破産を宣言したことがあった。
その過程で実物資産も処分し、現物による返済も行われたが、その時に手放されたスペイン本土や植民地の土地権益は相当なものだった。
その中には鉱山もあり、長期的に見れば莫大な損失だった。
『このままなら1575年にも、もう一度破産するはずだけど、どうしたものかな。僕が助けたところで、数年後にまた破産するんじゃないか?』
この身体で目を覚まして以来、予定された没落を避けるための様々な道を模索してきたルーベンだった。
目の前の贅沢も、その元凶の一つだった。
度重なる破産によって、スペイン王室の信用は大きく失墜したからだ。
そうなればスペイン金貨であるエスクードの価値が下がり、ルーベンにとっては大きな損害となる。
『今だって借金は少なくとも二千万ドゥカートはあるはずなのに贅沢してるし、状況を見て、後で全部ドゥカートに両替しておこうかな』
フェリペ2世の人道的な治世には敬意を抱いていたが、正直、このような贅沢に関してはどうしようもない人物だった。
これほど立派なアルカサルがありながら、それでも足りずにエル・エスコリアル修道院を建設中なのだから。
ルーベンがフェリペ2世の肖像画を眺めながら考え込んでいると、ノックの音が聞こえた。
「はい、お入りください」
扉を開けて入ってきたのは、侍女服を着た少女だった。
「こんにちは、ルーベン様」
「はい、どうされましたか?」
「ベアトリス令嬢がお呼びです」
ルーベンは、初めてベアトリスに呼ばれた時の既視感を覚えながら、鞄を持った。
「参りましょう」
***
以前会った時と同じように、ベアトリスはフリアと一緒にいた。
一方、あの時とは違い、部屋の中に香水の匂いは漂っていなかった。
『あれ? それは困るな』
どれほど優れた香水を作ったところで、ルーベンにはまだ適切な取引先がなかった。
適正な価格を付けて香水を流通させられる相手は、ベアトリス以外にいないということだった。
「久しぶりね、ルーベン」
「ベアトリス令嬢にお目にかかります」
「もう、何よ。久しぶりなのに堅苦しいんだから。それよりバーネルおじさんが言っていたけど、私に手紙を送っていたんですって?」
バーネルおじさんとは、副執事のことだった。
「はい。今回、新しいハーブティーと香水を作りましたので、直接ご確認いただきたく手紙を送りました」
「香水? 香水まで作ったの?」
「はい。ひとまず試作品として作ったものですので、少量しか製造しておりません」
「ちょうど残り少なくて、陛下との晩餐で使うために取っておいたところだったの。よかったわ。早く見せて」
幸い、香水が嫌いなのではなく、単に不足していただけらしい。
安堵しながら、鞄から乾燥ハーブの入った瓶と、三本の香水瓶を取り出して渡した。
ベアトリスは香水瓶をあちこちへ回して見ながら、フリアへ言った。
「見て、フリア。香水ですって」
「特に変わったところはなさそうですね。ハーブティーならともかく、大学も出ていない子供が作った香水が、どれほど大したものだというんですか」
「どうかしら? 使ってみれば分かるでしょう」
ベアトリスが香水瓶のコルク栓を開けると、ハーブの香りが室内へ広がった。
「まあ! 良い香り」
「……確かに、香りは悪くありませんね」
ベアトリスは満足そうな表情で、手首に香水を数滴落とした。
まだスプレーというものが存在しなかったため、それがこの時代における香水の付け方だった。
「あら? 何これ? すっとした感じがするのに、柔らかく残っているわ」
「そんな香水があるわけないでしょう? 普通、すっとする香水はすぐに飛んでしまいますし、長く残る香水はべたつくものです」
すっとする感覚があるのはアルコールを基礎に作られた香水で、べたつくのはオリーブ油やアーモンド油で作られた香水だった。
「これは違うわ。あなたも付けてみなさい」
手首に香水を落としたフリアは、初めてハーブティーを飲んだ時とまったく同じ表情を浮かべていた。
「ほら、柔らかいでしょう?」
「こ、これはどうしてこうなるんですか? 何というか、肌にしっとり馴染むような感じです。とても心地良いです」
ベアトリスとフリアは、何がそれほど気に入ったのか、手首に付いた香水を休むことなく擦っていた。
『いくらグリセリンを初めて感じたからって、ここまでか?』
副作用が起きる可能性も考え、キシレンは加えず、グリセリンだけを添加した状態だった。
ルーベンの予想をはるかに上回る満足ぶりだった。
『それにしても、いつまでやってるんだ……』
先に話しかけることのできないルーベンは、ひたすら彼女たちが手首を擦る姿を眺めていた。
すると、ふと違和感を覚えたフリアが言った。
「あれ? お嬢様。香りが弱まらず、ずっと残っているようです」
「本当ね? 普通ならそろそろ薄くなるはずなのに。ルーベン、一体どんな香水を作ったの?」
「滑らかに塗れるうえ、香りが最低でも半日、状況によっては一日中持続するように作りました」
「そんなに長く持つの?」
フリアが、いまだに手首の香水を擦りながら尋ねた。
「ですがお嬢様。この程度の香水を作るには、お嬢様がお渡しになった30エスクードでは到底足りなかったはずです。どうやって作ったのでしょう?」
製法を知るルーベンからすれば、グリセリンを加えただけだった。
だが、彼女たちの立場からすれば疑問に思うのも当然だった。
「そうね? ルーベン、まさか他の貴族から後援を受けたの?」
『おっと、やっぱりまた妙な方向へ飛んだな』
「そのようなことがあるはずございません。ハーブティー事業で稼いだ金をすべて投じ、苦労の末に作り上げました」
もちろん、多少の脚色は欠かせなかった。
「ふうん、そうなの? 苦労したのね。投資額を回収するのは簡単ではないでしょうし、望むなら追加で後援してあげるわ。その代わり、この香水は今後も欠かさず送ってちょうだい」
ルーベンはしばらくベアトリスの表情をうかがった。
『予想以上に反応が良いな? これなら少しくらい欲張ってもよさそうだ』
不敬だと叱責される可能性もあったが、雰囲気を見る限り、よほどの願いでなければ聞き入れてくれそうだった。
『言ってみよう。いずれ手に入れなければならないものだ。今が好機だ』
しばし言葉を選んでから、ルーベンは口を開いた。
「ありがとうございます、令嬢様。ですが、基盤となる設備はすでに整っておりますので、香水を継続してお届けすることは難しくないと思われます。ですので……」
「ですので?」
「今回は後援金ではなく、別のものをお願いしてもよろしいでしょうか?」
その瞬間、フリアの顔色が強張った。
だが今回は、不敬だと先に口を挟むことはしなかった。
ルーベンの香水が相当な品であるうえ、ベアトリスの表情もさほど悪くなかったからだ。
「いいわ。言ってみなさい」
「セドゥラ・レアルを発給していただきたいのです」
「ふうん。……ん?」
ベアトリスはしばらく何かを考えるような素振りを見せた後、ルーベンへ問いかけた。
「あなた、失った記憶を取り戻すためにビーゴへ残ることにしたのではなかった?」
以前、ルーベンがトレドへ拠点を移さないために取り繕った言葉を覚えていたのだ。
『まったく、記憶力だけは良いんだから』
もしかしたら簡単に通せるかもしれないと思ったが、どうやらそうはいかないらしい。
だが、想定の範囲内だった。
ルーベンは落ち着いて言葉を続けた。
「はい、そのとおりです。令嬢様の慈悲のおかげで故郷にて療養し、父についての記憶を少し取り戻すことができました。そのおかげで、私が成すべきことも見つけられました」
「そーう?」
語尾を伸ばすベアトリス。
言いたいことがあるなら、もっと続けてみなさいという態度だった。
わずかに口の中が乾くような感覚がしたが、ここで止まるわけにはいかなかった。
「私は、貿易業に携わっていた父の遺志を継ぎたいと考えております。祖国スペインの栄光を世界へ広め、主の恩寵を無知で哀れな者たちへ伝えることこそ、私の使命ではないかと思うのです。それに加えて……」
「加えて?」
一度息を整えた。
「他国へ渡ってさらに多くの知識を学び、令嬢様により優れた品をお見せするためでもあります」
ルーベンの模範的な返答を聞き、ベアトリスは感心したような表情で答えた。
「本当に、あなたは顔だけでなく、舌まで負けず劣らず滑らかなのね」
ベアトリスは何がおかしいのか、しばらくくすくす笑ってから言葉を続けた。
「いいわ。もう苛めるのはやめてあげる。一緒に旅をする護衛と使用人も付けてあげるから、まずは契約書を書きましょう」
『助かった! この人、意外とお転婆だな。寿命が縮むかと思った』
だが、まだ終わったわけではなかった。
契約書に望む条項を入れなければならなかった。
香水の価値を一気に引き上げる内容を。




