018話. グリセリン
グリセリンは1779年に初めて発見された物質で、化粧品、食品、産業、製薬など様々な分野で使われている。
また、ダイナマイトをはじめとする複合無煙火薬と三基質無煙火薬の主要成分であるニトログリセリンの主原料でもある。
もちろん、油と木灰を利用した伝統的な鹸化過程で得られるグリセリンで軍隊に火薬を供給するのは、現実的に不可能だった。
絶対量が足りなかったからだ。
油なら農業で植物油を搾り取ればよかったが、アルカリ性の木は一、二年で育てられるものではなかった。
『ソルベー法かルブラン法で炭酸ナトリウムさえ大量生産できれば可能ではあるけど、財政的にも時期的にも、まだ気にすることじゃないな』
今は香水に必要なグリセリンを抽出することに集中すると決めた。
この用途ならグリセリンも少量で済むため、伝統的な方法でも十分だった。
『香水にグリセリンを加えれば、香りの持続力と保湿効果が強化される。つまり、飛ぶように売れる商品になるってことだ』
それどころか、香りを豊かにし、香水の安定性を高める効果まであった。
見方によっては、香水界の革命ともいえる物質だった。
そんなグリセリンは鹸化の過程で生成され、石鹸にも含まれていた。
「ワインも安く手に入った。金も順調に稼げてる。石鹸はもう買えばいいか。石鹸が100gもあれば、香水を三、四本は作れるだろうし」
オリーブ油と木灰を鹸化させてグリセリンを得る方が、石鹸を買うより安く済んだ。
だが、木を伐採できるまで待つ時間を考えれば、安いものだと思った。
ルーベンはすぐにベルティン商団の商団主、ベルティンを訪ねた。
ベルティン商団は、ビーゴではそれなりに大きな商団だった。
もちろん、ガリシアやスペイン全体で見れば、小さな商会に過ぎなかったが、石鹸くらいなら手に入れられた。
「こんにちは、ベルティンおじさん」
ウェガーに紹介されて親しくなったため、気軽におじさんと呼ぶルーベンだった。
「どうした? ちょうどお前のティーハウスに一度行こうと思っていたところだ。開店して一か月も経っていないのに、もうかなり評判になっているな」
「いつでも来てください。おじさんには無料でお出ししますよ」
ベルティンは豪快に笑いながら言った。
「無料で? その言葉、後悔しないか?」
「まず来てから言ってください」
「はは、そうしたいんだが、今回の追悼式に使う物資を運ぶので忙しくてな。それより、何の用だ?」
「ほかでもなく、石鹸を買いたくて」
当然、ハーブティーに関連する品を注文するものだと思っていた。
だが、予想外の品が出てきたので聞き返した。
「石鹸をなぜ? 石鹸は香りこそ良いが、衛生目的なら炭酸ソーダでも十分だぞ」
「僕が使うわけではなく、研究に必要なんです」
「ほう、本当に錬金術というものは金がかかるらしいな。あの高価な石鹸を研究に使うとは。いくつ必要なんだ?」
「一つ当たりの重さと値段はどれくらいですか?」
「1オンザ(onza)のものは10レアル、4ドラクマ(dracma)のものは6レアルだ」
オンザはイギリスで使われるオンス(oz)に近い重さで、約28.75gだった。
4ドラクマは1オンザの半分だった。
物価が違うため正確な換算は難しいが、現代でいえば30gにも満たない石鹸が7万円前後の価格だった。
100gほどの石鹸が150円前後だった前世を思えば、手が震えるほどの値段だった。
『本当にくそ高いな。それでも時は金だ。ひとまず今あるもので解決しよう』
電気分解を利用すれば、木灰の役割をする水酸化ナトリウムをもっと簡単に作ることはできた。
だが、その設備を整える費用を考えれば、かえって割に合わなかった。
「1オンザのものを五つ買います」
「それくらいなら、今すぐ見つけてきてやる」
「お忙しいのにありがとうございます」
「アルバ家から後援を受ける期待の新人だ。今のうちに気に入られておかないとな」
「さすが、ビーゴ一の商団主だけあってお目が高い」
「はは、お世辞はいいから少し待っていろ。すぐ戻る」
これで香水に必要な材料は、生花だけとなった。
***
ルーベンはハーブの在庫確認と子供たちへのおやつの差し入れを兼ねて、途中で店に立ち寄ってから家へ向かった。
そうして、おやつに歓声を上げる子供たちを後にし、研究室として整えた離れへ入って本格的な作業に取りかかった。
「薔薇かラベンダーがあればよかったんだけどな」
薔薇はすでに花が散っており、ラベンダーは地中海性気候のアンダルシア地方にしか自生していなかった。
「エッセンシャルオイルは、ラエフおじさんが来たら生花を緊急配送してもらって抽出すればいい。今日はエタノールとグリセリンでも抽出してみるか?」
ワインが酸敗するのは、エタノールが酢酸へ変化する作用だ。
さらに酸敗すれば完全に酢になるため、できるだけ早く蒸留する方がよかった。
香りを加える花については、乾燥した花を使うと乾燥過程で一部の化合物が揮発し、収率も香りも落ちるため、生花から抽出するつもりだった。
まずエタノールを蒸留するため、アランビックフラスコに酸敗したワインをたっぷり注いだ。
「うわ、酸っぱいな。果物から作って木樽で熟成させてるんだから、メタノールも少し出るだろうな」
メタノールは、木や果物のようにペクチンを多く含む物質が発酵する際に発生した。
そしてワインの原料は果物である葡萄。
保存容器も木樽だったため、すでにメタノールを含んでいる可能性が高かった。
『量自体は微量だろうけど、それでも注意しないとな』
ワインの状態では微量なので危険ではなかったが、蒸留する時は話が違った。
メタノールの沸点は64.7度で、エタノールの78.3度よりも低かったからだ。
つまり、序盤に蒸留されるものの大半はメタノールということだった。
万が一エタノールと混ざれば品質に影響する可能性があるため、必ず先に取り除かなければならなかった。
ルーベンはアランビックの蒸留管の先に、メタノールを受ける小さなコップを置き、フラスコの下で弱く火を焚いた。
そして鍋を取り出し、ナイフで石鹸を細かく刻み始めた。
「まさか、こんな時代遅れの方法で化合物を作ることになるとはな」
ルーベンは愚痴をこぼしながら鍋に水を注ぎ、火にかけた。
そして木の匙で石鹸をかき混ぜた。
「溶けろ、早く溶けろ」
そんな根拠も何もない作業歌を歌っているうちに、石鹸が溶け始めた。
「これくらいでよさそうだな。お前はここで冷めていろ。さて。メタノールはこれくらいなら、ほとんど出ただろう」
ルーベンはメタノールを処理し、エタノールを受ける新しいコップを置いた。
そして椅子に座り、生石灰を水に入れて石灰水を作りながら考え込んだ。
「うーん、もう追悼期間も終わりに近づいてるな。そろそろベアトリスに手紙も送らないと。教会に頼んで届けてもらおう」
この時代、平民が手紙を届ける方法は、商人や旅人、聖職者に頼むことしかなかった。
それでもアルバ家へ送る手紙なので、教会側も早く届けてくれるはずだった。
「新しいハーブティーに香水まで作ったんだ。僕が欲しいものを言ったからって、血眼になって襲いかかってきたりはしないよな?」
ハーブティーと香水を作ること自体は難しくなかったが、何を要求するかが悩みだった。
「通行証のセドゥラ・レアル? いや、外国はまだ早い」
外国旅行には、いくつもの難関があった。
不安定な治安や、行政上の手続きなどだ。
そのうち護衛については、金で人を雇えば済むことだった。
だが、本当に恐ろしいのは病気だった。
特にマラリア。
キニーネという薬はあったが、今はまだ手に入れられない薬だった。
既製品が存在しないのはもちろん、直接作ろうとしても原料となるキナの木はアンデス山脈でしか手に入らなかったからだ。
「家なら環境くらいは管理できる。スペイン国内なら、いざとなれば家に戻って薬を作れば済むし」
だが、外国へ出れば万一の事態に備えるのは難しかった。
「やっぱり外国へ出るなら、サルファ剤とペニシリンは必要だな。その二つを開発しながら、余った時間にフリントロック式マスケットでも作れればいい。銃器の研究がしたいと言えば、協力してくれるかな」
フリントロック式は、火打石で鋼鉄を叩いて発生する火花で火薬に点火する方式で、元の歴史では17世紀初頭にフランスで発明された。
従来のマッチロック式やホイールロック式と比べて構造も単純で、耐久性や扱いやすさはもちろん、大量生産も容易な進歩した方式だった。
もちろん、雨の日には同じように役立たずだったが。
「それに、フリントロック式が普及すれば、パーカッションロック式マスケットを作りやすくなるんだよな」
パーカッションロック式マスケットは、19世紀初頭に発明された進歩型のマスケットだった。
パーカッションキャップの中の爆薬を爆発させて発射する方式で、雨の日でも使用でき、面倒な火打石の交換も必要なかった。
ルーベンが自分の勢力を築いたら、優先的に装備させる予定のマスケットだった。
「フリントロック式マスケットを前もって市場に流しておけば、必ず模造品が出てくる。だが、その方がむしろ都合がいい」
他人が生産したフリントロック式マスケットを金で買い集め、パーカッションロック式マスケットへ改造して使うつもりだった。
フリントロック式マスケットをパーカッションロック式マスケットへ変えるのは、比較的簡単だったからだ。
最初から作るより、こちらの方がはるかに得だった。
市場には直接流さず、ルーベンの勢力にだけ配備するため、技術流出の危険も大幅に減った。
「まったく、悩みが尽きないな。技術を全部そのまま公開したら、あちこちから盗まれるのは目に見えてるし、かといって無闇に出すわけにもいかない」
互いに敵対する国家はもちろん、同盟国であっても大差なかった。
さらにはスペイン国内ですら情報を盗み出す、まさに大裏切りの時代だった。
今の状態で技術を無闇に公開するのは、どうぞ持っていってくれと宣伝するようなものだった。
「とにかく、そのためには腕のいい鍛冶屋も探さないとな」
フリントロック式マスケットの原理は知っていたため、設計図は描けた。
もちろん、自分で作る自信はなかった。
だからこそ、自分の設計図どおりに作ってくれる職人を探さなければならなかったが、それにもすべて金がかかった。
「通行証か、技術者か。それとも別のものを要求するか……」
ルーベンは石鹸液が冷え、石鹸とグリセリンが層になっているのを見て、考えるのをやめた。
「ええい、分からない。その時の雰囲気を見て頼めばいい。もっと良いものを思いつくかもしれないし」
ルーベンは新しい鍋にリンネルを重ねて濾し器を作り、石鹸液を注いだ。
するとリンネルの間からグリセリンが流れ落ち、上には石鹸が残った。
分離したグリセリンに、あらかじめ作っておいた石灰水を注いだ。
すると不純物が固まり始めた。
「思ったより不純物は多くないな」
石灰水と反応して沈殿した不純物を濾し、綺麗になったグリセリン溶液を加熱して水を蒸発させ、瓶に詰めた。
「蒸留は……まだまだだな。これはもう、無心になるしかない」
残念ながら、蒸留を速める技術はなかった。
ただ待つしかなかった。
***
翌日の夕方、ラエフは週に一度の定期配送にやって来た。
「ラエフおじさん。申し訳ないんですが、今回はすぐに配達をお願いしてもいいですか?」
「余裕を持って運んできたんだが、足りないものがあるのか?」
「今回は乾燥ハーブじゃなくて、生花が必要なんです」
「分かった。妻もお前の頼みなら理解してくれるだろう。お前が贈ってくれたハーブのおかげで、前の妊娠の時よりずっと体調がいいと言っていたぞ」
妊娠しているおばさんの話が出ると、何となく申し訳なくなるルーベンだった。
「今回の緊急配送料として、ハーブと3レアルをお渡しします」
「そんなに? ハーブだけでいい」
「それだと僕が申し訳なさすぎますが……」
「そこまで言うなら、今度妻に服を一着買ってやってくれ」
「分かりました。それじゃあ、おばさんが出産したら綺麗な服を一着買って差し上げます」
「ああ、そうしよう。では明日来るには、今すぐ出発しないとな」
ルーベンの頼みを受け、荷物を下ろすとすぐに出発するラエフだった。
遠ざかっていくラエフに向かって、ルーベンはもう一度礼を言った。
「おじさん、ありがとうございます!」
ラエフはしばらくして振り返り、手を何度か振った。
何気に親しみを感じさせるおじさんだった。
『下手に貴族へ憑依して、血縁すら信じられずに生きるより、平民の方がいい気もするな』
ルーベンはラエフの馬車が遠ざかるのを眺めてから、教会へ足を向けた。
追悼期間が終盤に入ったせいか、最初の一週間に近いほど大勢の人が集まっていた。
ルーベンは聖職者の服を着た人物を探して声をかけた。
「あの、修道士様。お忙しいところ申し訳ありません」
「ああ、ルーベン兄弟でしたか」
商人たちの酸敗したワインを買い取る中で、何人もの修道士と顔見知りになっていたルーベンだった。
「ほかでもなく、手紙を一通送りたいんです。あ、場所はトレドです」
目が回るほど忙しかったため、追悼期間が終わってから来てくれないかと答えようとしたが、トレドという言葉を聞いて確認のため尋ねた。
「もしかして、アルバ家へ送られるのですか?」
聖職者はもちろん、街の人々の大半が、ティーハウスの主人であるルーベンがアルバ家の後援を受けていることを知っていた。
「はい、そうです」
「それでしたら、今日中に処理いたします」
「いいえ。そこまで急ぎではないので、追悼期間が終わってから送ってください」
追悼期間も終盤に入り、残すところ一日と半日しかなかった。
一日や二日遅れたところで何かが変わるわけでもなかったため、追悼が終わってから優先的に送ってくれればいいと思った。
その間に溜まった仕事も多いはずだったからだ。
「これは、ご配慮いただきありがとうございます。それでは、追悼が終わった後に優先してお送りいたします」
「はい、ありがとうございます」
ルーベンが教会を出て広場の方を見ると、ひときわ人が集まっている場所が見えた。
『あそこはどうしてあんなに人が……あ、僕の店か』
教会の聖職者たちと同じくらい、子供たちも忙しい状況だった。
押し寄せた人の数に対して従業員を増やしていないため、なおさら大変なはずだった。
もちろん、金を惜しんで従業員を雇わなかったわけではない。
追悼期間中に従業員を募集すると宣伝でもすれば、どんな非難を浴びるか分からなかったからだ。
『追悼期間が終わるまではエッセンシャルオイルでも抽出して、終わったらすぐに従業員を雇わないとな』
ベアトリスに会いにトレドへ発てば、ルーベンは手伝えなくなる。
その前に、自分がいなくても店が回るようにしておくつもりだった。
『やっぱり商売は自動化に限るな』




