017話. エリザベート王妃
エリザベート王妃の崩御の知らせは、瞬く間にビーゴ全域へ広まった。
老若男女を問わず、誰もが悲しみに沈んでいた。
カルロス王太子が亡くなった時にはうやむやに済まされたことを思えば、実に対照的な出来事だった。
だが、ルーベンをはじめとする子供たちには、悲しみに浸っている暇などなかった。
四十日間の服喪期間が宣言され、公共の場や店での飲酒が禁止されたため、客がティーハウスへ押し寄せたからだ。
「行ってカモミールをもう一箱持ってきて。水もあと三桶汲んできて」
材料の準備と製造は子供たちに任せ、接客はルーベンが一手に引き受けていた。
時折、下級貴族も訪れるため、子供たちに接客を任せるにはまだ不安があったからだ。
そして何より……。
「あれが噂の……」
「まあ、きっと主ご自身がお創りになったに違いありませんわ」
「もう一度だけこちらを見てくださらないかしら」
「お茶をもう一杯注文すれば、私たちのテーブルへ来てくださるのではなくて?」
ルーベン自ら接客に出れば、客たちの反応からして違った。
「奥様、ローズヒップ・カモミールのハーブティーです」
ルーベンが近づくと、お喋りに興じていた女性たちは衣服を整え、優雅な姿勢で言った。
「あら? 注文を間違えていませんか?」
彼女は教会で最初に宣伝した女性だった。
ルーベンの予想どおり顔が広いのか、店を訪れるたびに毎回違う女性たちを連れてきた。
「こちらは私から奥様へのおもてなしです」
ルーベンの丁寧な返答に、同席していた女性たちは驚いた目で彼女を見た。
「ほほほ、そうなの? では遠慮なくいただくわ」
「光栄です、奥様」
「ところで……ルーベンがアルバ家の後援を受けているという噂を聞いたのだけれど、本当なのですか?」
ルーベンはその事実を自ら吹聴したことはなかった。
自分の口から言えば安っぽく見えるうえ、アルバ家の名を利用していると思われる可能性もあったからだ。
『さすがウェガーおじさん』
もちろん、酒好きのウェガーならすぐに言いふらしてくれると信じていた。
「はい、本当です」
「まあ、本当なの?」
ルーベンの口から肯定の言葉が出ると、店内の人々は皆驚いた様子だった。
「どうりでハーブティーを飲むとよく眠れて、目覚めもすっきりすると思いましたわ」
「味と薬効の両方を考えてハーブティーを配合しました」
「まあ……口に美味しい薬だなんて。さすがアルバ家の後援を受けるだけのことはありますわね」
「美しい殿方なのに、能力まであるなんて……」
その日以降、店はさらに多くの客で賑わうようになった。
***
押し寄せる客を前に、ルーベンと子供たちは嬉しい悲鳴を上げる日々を送っていた。
客があまりにも多く、五十個も用意したガラスのコップでも足りなかった。
そこでルーベンはウェガーを訪ねた。
「おじさん、こんにちは」
「ルーベンか。さっき教会へ追悼に行った時に見たが、ずいぶん繁盛していたな」
「おじさんが作ってくださったガラスのコップのおかげですよ! それで、あと二十個注文したいんです。可能ですか?」
最初はアルバ家との契約書が信用の証だったが、今はもう違った。
店が人で賑わっているところを、ウェガー自身も直接見ていたからだ。
「ああ、できるだけ早く作ってやる」
「今回の代金は今すぐお支払いします」
ルーベンが金貨十枚を渡すと、ウェガーは驚いて尋ねた。
「もうそんなに資金を回収できたのか?」
「商売がうまくいっているので。来年お支払いする予定だった二十エスクードも、もっと早く払えそうです」
服喪期間が宣言されて以降、一日の売上は最低でも三エスクードに達していた。
人件費や材料費をはじめ、諸々を差し引いてもルーベンの手元には一エスクード以上が残った。
しかも、それは日が経つにつれて増えていた。
「はは、それは嬉しい話だ。金も大事だが、健康にも気を配りながら働くんだぞ。そうしてこそ長く付き合える」
「もちろんです」
「そうだ、健康は若いうちから気を付けるものだ。とにかく、できるだけ早く作って届けてやる。それより……」
珍しくウェガーが言葉を選んだ。
付き合いはまだ長くないが、ウェガーがこういう様子を見せる時は、口にしづらい話をしようとしているのだということくらいは分かっていた。
「何かあったんですか?」
「それが、最近変わったことはないか? 誰かが難癖をつけてくるとか、周囲が騒がしいとかだ」
ウェガーが何を言おうとしているのか、すぐに察しがついた。
「僕の店の周りの商人たちのことですよね?」
「ふむ、もう知っていたのか。何か嫌がらせでもされたのか?」
実のところ、ある程度は当然のことでもあった。
服喪期間が長引き、近隣の酒場の売上は壊滅的なのに、ルーベンの店だけが繁盛していたため、商人たちは不満を示し始めたのだ。
とはいえ、禁酒令を出したスペイン王国や教会を非難することはできないため、御しやすそうなルーベンが矛先となった。
もちろん、まだ露骨ではなかったが、ルーベンも解決策を思案していた。
「僕もどう解決すべきか悩んでいたところです」
「……最近は商売がうまくいっていないから、そうなっているんだろう。あいつらは特別善人というわけではないが、かといって悪人でもないんだが……」
「理解しています」
ルーベンは席から立ちながら口を開いた。
「教えてくださってありがとうございます。それは僕が解決します」
「どうにもならないと思ったら、俺のところへ来い」
ルーベンはウェガーに礼を言い、店へ向かった。
***
『うーん、どうしたものかな』
最初の数日間は特に問題なかった。
彼らもエリザベートを悼むことで頭がいっぱいだったからだ。
だが、商売にならない日々が長引くと、ルーベンのティーハウスを疎ましい目で見るようになった。
同じビーゴの出身ではあったが、生まれた村が違うため、彼らの目には余所者も同然であり、なおさらだった。
『悪意のある噂でも流されたら困るんだよな』
時間が経てば虚偽の噂だと判明するだろうが、服喪期間中にできるだけ利益を稼いでおきたいルーベンにとっては、大きな損失となる。
『最善策は、そもそも揉め事を起こさないことだけど、今の雰囲気を見る限り難しそうだ』
彼らと対立しないために商売をやめたり、無条件に救済してやったりするわけにもいかなかった。
『いっそ相手が貴族なら、性格どおり一暴れしてやるんだけどな……』
これまで聖書を学んできたのは無駄ではなかった。
聖書の句を持ち出し、奴らの魂まで叩きのめす自信もあった。
『何の罪もない平民に危害を加えるのは本当に下策だ。この事態を引き起こしたのも彼らじゃない。問題を解決しながら、僕にも利益が出る方法があるはずだ』
今後、この港町を前進拠点とするつもりのルーベンだった。
民心を失えば、これからの計画すべてに支障が出るか、完全に水泡に帰す可能性すらあった。
いくら一部の貴族に気に入られたところで、民心には勝てないものだ。
そうして道を歩いているうちに、いつの間にか店が見えてきた。
そんなルーベンの目の前で、一人の聖職者が彼の店を通り過ぎ、教会へ入っていくのが見えた。
その瞬間、ルーベンの頭に良い考えが浮かんだ。
『そうだ、こういう時のために人脈があるんじゃないか』
決心したルーベンは店を通り過ぎ、そのまま教会へ向かった。
***
教会に到着したルーベンは、修道士に行政業務を担当する司祭との面会を求めた。
「特別寄付について、行政を担当されている司祭様にお会いしたいのですが」
特別寄付という言葉を聞くと、修道士はすぐに承諾した。
「少々お待ちください。お伝えして、すぐに戻ってまいります」
しばらくして戻ってきた修道士は、ルーベンを連れて教会の奥へ移動した。
ルーベンが通された部屋には、教会へ通う中で何度か挨拶を交わしたことのある司祭が座っていた。
「ようこそ、ルーベン兄弟。特別寄付をされたいとのことですが?」
「はい。王妃様の崩御によって皆が苦しんでおりますので、少しでも力になりたいと思いまして」
「実に尊いお心です」
ルーベンは用意していた台詞を頭の中で整理してから口を開いた。
「あなたの神、主が与えられる地のどの町においても、貧しい兄弟があなたと共に住んでいるなら、その貧しい兄弟に対して心をかたくなにしてはならない」
「手を閉ざしてはならず、必ず彼に手を開き、その必要とするものを十分に貸し与えなさい。申命記十五章の御言葉ですな」
ルーベンが始めた朗読を、司祭が締めくくった。
わずかな乱れもない、完璧な呼吸だった。
『今まで勉強してきた甲斐があったな』
司祭もまた、流暢なラテン語で聖書を朗読するルーベンの姿に感嘆していた。
「兄弟は実に信仰心が篤いのですね。伊達にアルバ家の後援を受けているわけではないようです。それで、特別寄付はどのような形で……」
「お褒めにあずかり恐縮です。ここ数日祈りながら考えていたのですが、服喪期間中にワインを売れず苦しんでいる近隣の店から、酸敗したワインを買い取る形で助けようかと思っております」
教会へ直接金を納めるわけではなかったにもかかわらず、司祭は顔を輝かせて言った。
「おお、実に高潔なお心です」
それもそのはず、店へのワイン供給の大半は教会が担っていた。
教会にとって大きな利益を生む部門だった。
一方で、売れずに酸敗したワインを安値で買い戻すこともあった。
酢を作ったり、聖水の代わりに使ったりしていたからだ。
問題は、近頃は酸敗したワインの量があまりにも多いことだった。
服喪期間中、どの店でもワインを売れなかったのだから当然だった。
『ただでさえ処理に困っていたところだ。助かった』
だが、ルーベンが酸敗したワインを買ってくれるなら、彼らの不満も解消できるはずだった。
「ただ、私が一軒ずつ回るのは難しいので、教会の方で調整していただければと思っております」
わざわざ労働力まで提供するつもりはないルーベンだった。
「それでしたら、いくらでもお力になれます」
どうせ現場で動くのは修道士たちなので、司祭本人には関係のない仕事だった。
「難しいお願いを聞いてくださり、ありがとうございます、司祭様」
「いえ。兄弟が下された難しい決断に比べれば、これくらい容易いものです。しかし、酸敗したワインをなぜ買われるのですか?」
「商人たちが困っていることもありますし、酸敗したワインを蘇らせる研究をしてみようかと思いまして」
もちろん嘘だった。
しかし司祭は感嘆の声を上げて言った。
「なるほど。後援を受けることになったきっかけも研究だったと聞いておりますが、さすがです。ところで……価格はどのようにお考えですか?」
いくら酸敗したワインとはいえ、あまりに買い叩けば不満がさらに強まる可能性があった。
「気持ちとしては十分な額を差し上げたいのですが、私も店を始めたばかりですので、教会の買取価格より一マラベディ多く支払います」
司祭は心の中で歓声を上げた。
「できるだけ早く話を進め、売る意思のある商人には兄弟を訪ねるよう伝えておきましょう」
司祭は嬉しそうな顔を隠そうともせず、簡単に挨拶を交わすと席を立った。
どうやらルーベンが気を変えるのではないかと気が気でないらしい。
だが、本当に快哉を叫ぶべきなのはルーベンだった。
『よし。金が浮いた』
ルーベンが次に作る製品は香水だった。
そして香水は、全体量の六十パーセントから九十パーセントがエタノールで構成されていた。
『酸敗したワインだろうが、まともなワインだろうが、エタノールだけを抽出するなら大差ないんだよな』
つまりルーベンは、次の事業に必要不可欠な材料を安値で仕入れ、同時に近隣の人々の好意まで得られることになったのだ。
***
ルーベンの家の倉庫には、ワインが次々と積み上がり始めた。
知らせを聞いた商人たちが、酸敗したワインを売るために持ち込んできたからだ。
「この量なら……三レアルお支払いします」
「本当にありがとう。ちょうど今月の家賃をどう払おうか悩んでいたところなんだ」
酒場の打撃は、単に酒類の販売だけにとどまらなかった。
ワインと一緒に注文される軽食の売上も急落していた。
そのため、一部の零細業者は今月の家賃を心配しなければならないほど追い詰められていた。
そのうえ、街には酸敗したワインが溢れ、教会も買取を拒否していたため、皆気を揉んでいる最中だった。
「お礼なんて。僕も研究材料として使うものを買っているだけですから」
「いや、本当にありがとう。実は周りの商人たちと一緒になって、君のことを悪く見ていたんだ。本当にすまなかった」
「人間、生きていればそういうこともありますよ」
「このまま済ませるわけにはいかないから、近いうちに教会で告解してくるよ。とにかく、本当にありがとう」
『告解したって僕に金が入るわけでもないのに……』
心の中とは裏腹に、ルーベンは商人へ温かく答えた。
「今後も教会に買取を断られたら、僕が代わりに買いますよ。もちろん、その時は教会の買取価格と同じになりますけど」
「本当か? それだけでもありがたい」
ルーベンは商人を見送り、倉庫に積まれたワインを眺めた。
「これだけあればエタノールは十分すぎるな。となると、次に必要なのは……」
ルーベンの口元が徐々に吊り上がった。
「石鹸」
正確には、石鹸から抽出できる『グリセリン』。
この時代の香水を上回る香水を作るには、絶対に必要な材料だった。




