016話. 店舗オープン
港町に到着したルーベン一行は、教会へ向かった。
この時代、転入届は教会で行われていたからだ。
ルーベンは村の教会の司祭から受け取った紹介状を見せながら言った。
「私を含めて全部で五人です。そして、こちらが村の司祭様からの紹介状です」
五人も登録に来たのだから袖の下を期待していた司祭は、紹介状を見ると残念そうにその思いを飲み込んだ。
いくら田舎の小さな教会の司祭とはいえ、教会同士の用件で私腹を肥やそうものなら、余計な問題を招きかねなかったからだ。
「登録は明日中に行政司祭様が最終確認してくださいます」
簡単な質問すらなく、そのまま通された。
『やっぱり人脈ってありがたいな』
もちろん、港町に住むことになっても村の教会へ寄付を続けると、それとなく伝えた上で受け取った紹介状ではあったが。
ルーベンは司祭に銀貨を一枚差し出して言った。
「寄付をしたいのですが、まだ教会のことをよく知らないもので。申し訳ありませんが、司祭様にお願いしてもよろしいでしょうか?」
すると、不機嫌そうだった司祭の表情が穏やかなものへと変わった。
『おいおい、もう少し表情を隠せよ』
それもそのはず、これは司祭への袖の下だったからだ。
「なるほど、ベダード神父様が紹介状を書いてくださった理由が分かりました。主の祝福があなたと共にありますように」
「ありがとうございます。それでは失礼します」
金が有り余っているわけではなかったが、聖職者たちとの繋がりはどうしても必要だった。
渡し方も、今のように洗練されている必要があった。
誠実な聖職者なら本当に寄付として受け取るか、寄付先を紹介してくれるだけなので問題にならない。
金に目がない聖職者なら、そのまま『繋がり』を築いていけばいい。
『やっぱり金が一番だ』
ルーベン一行は教会を出て家へ向かった。
転入届を出している間に荷物を運び込んでくれていたのはラエフだった。
「おじさん、本当にありがとうございました」
「礼なんていいさ。俺だって金をもらってやってる仕事だからな」
「それでも感謝は感謝です。それより、もし今日泊まる場所がないなら、うちで泊まっていってください。家も広いですし」
「いや、今日はウェガーと一杯やってから帰るつもりだから気にするな」
とても嬉しそうな顔をしていたので、それ以上引き止めることはしなかった。
「はい。それじゃあ次の配送の時にまたお会いしましょう」
「みんな元気でな。もし困ったことがあったらウェガーに言え。俺から話しておく」
ラエフが去ると、子供たちは家を見つめて驚いた。
「本当にここが僕たちの家なの?」
「このレンガ見てよ。すごくきれいな色だ」
「早く入ろう!」
家へ入ろうとする子供たちにルーベンが叫んだ。
「待って!」
子供たちは何事かとルーベンを見た。
その中でエミリナが代表して尋ねた。
「どうしたの?」
「先に言っておくことがある」
「入ってからじゃダメ?」
「入る前じゃないとダメだ。それに、これは友達としてじゃなく、雇い主のルーベンとして話す」
ルーベンが真剣な口調で言うと、家へ向いていた子供たちの体が一斉に彼へ向き直った。
「何?」
「この家は一人で住む家じゃない。だからみんなで守るべきルールがある」
「うーん……そうだね。ルーベンが借りた家なんだから、ルーベンの決めたルールに従わないとね」
エミリナの言葉に他の子供たちも頷いた。
「まず、家の中には絶対に靴を履いたまま入らないこと」
自分の家の中を土足で歩くことだけは、ルーベンには絶対に許せなかった。
どれだけスペイン人の身体に宿っていようと、これだけは譲れなかった。
何より、この時代は家畜が平然と街を歩き回っていたため、糞尿を踏んで病気にさらされる危険が大きかった。
「じゃあ中では裸足なの? 石の床だから土はつかないけど、足が冷たそう」
「もちろん室内用のウールの靴下を買ってあるよ」
羊や山羊の毛で作られたウールは、この時代では比較的安価な繊維だった。
だから一人につき三足ずつ余裕を持って用意していた。
「これも二日に一回は必ず洗濯すること」
「分かった。もう入っていい?」
何を言ってる。
「いや、まだまだある。仕事から帰ったら炭酸ソーダで手足を必ず洗うこと。外出着はこまめに払うこと。外出着と部屋着は分けること。夏は二日に一回、冬は――」
ルールは延々と続き、子供たちは次第に気圧されていった。
「そんなにルールが多いの?」
「みんなのために作ったルールだから必ず守ってほしい。最初は大変でも、続ければ慣れるよ」
全員の健康のための決まりだったので、少しも譲るつもりはなかった。
シラミやノミ、ダニに気を付けるだけでも、ペストや発疹熱、発疹チフスなど多くの病気を防げるのだから。
「最後に、離れは僕の研究室にするから絶対に近づかないこと」
「もちろんだよ。心配しないで」
子供たちを信用していないわけではなかった。
だが後で揉めないよう、最初にはっきりさせておく必要があった。
「軽く考えないでしっかり覚えておいて。アルバ家と契約した研究を進める場所だから、もし君たちが見てしまったら、僕もアルバ家へ報告しないといけなくなる」
「ひいいっ!」
アルバ家へ報告すると聞いた子供たちは青ざめた。
「ぜ、絶対に見ない! 本当に絶対!」
ルーベンはわざとさらに脅した。
「報告しなかったら、僕と母さんが連れて行かれるかもしれないんだ。そんなことにならないように必ず守って」
「分かった!」
これもまた子供たちのためだった。
もし有毒物質に誤って触れてしまったら……。
想像するだけでも恐ろしかった。
「本当に急ぎの用事があったら大声で呼んで。中にいても聞こえるから」
「分かった! ルーベンの言うことちゃんと聞く! と、とりあえず部屋着に着替えなきゃ? あっ、いや、先に靴かな?」
研究室へ近づかせないために脅したつもりだったが、思わぬ効果を発揮した。
どうやら子供たちは、この奇妙なルールすべてが研究に必要なものだと勘違いしたらしかった。
***
翌日からすぐに店の内装工事に取りかかった。
まずは外壁と店内の塗装からだった。
全体を明るい雰囲気にする予定だったので、壁という壁をすべて白く塗っていた。
明るさが目的ではあったが、この時代では石灰で作る白い塗料が最も安かったという理由もあった。
ヨーロッパには石灰岩がいくらでもあったからだ。
「そこの隅、塗りが足りませんよ」
ルーベンは目を光らせながら職人たちを監督した。
『時間がないから任せたら、自分の仕事じゃないって本当に適当だな』
この時代は、仕事を頼んだら前世以上に細かく確認しなければならなかった。
終わってから文句を言える場所などなかったからだ。
それでも、仕事が終われば追加で三マラベディ払うと約束していたので、次々と出される注文にも熱心に応えてくれていた。
塗装は昼のミサを告げる鐘が鳴る頃に終わった。
「僕はミサへ行ってくるから、誰もペンキを触らないよう見張りながら開店の宣伝をしておいて」
塗料が乾く時間が必要だったので、今日はこれで作業を切り上げ、宣伝に回るつもりだった。
***
昼のミサの時間。
ルーベンは両手を組んで祈る姿勢を取りながら、横目で人々を観察していた。
『まずはあの女性だな。早く終わればあっちの奥さんにも声をかけよう』
どれほど綺麗な店を作り、しばらく独占的に飲み物を売れたとしても、人々が店の存在を知らなければ意味がない。
そこで社交界に顔が利きそうな女性を探していた。
一人でもうまく掴めば、噂はあっという間に広がるはずだった。
やがてミサが終わり、ルーベンは人混みに紛れながらゆっくり教会を出た。
『うわ、いざとなると緊張するな』
前世では知らない女性に話しかける機会など一度もなかった。
それでも宣伝のためには勇気を出して積極的に動かなければならなかった。
ぎこちない足取りで女性の横を通りながら周囲を見回す。
『くそ、変な奴だと思われてないよな?』
胸は激しく高鳴っていた。
しかし、それが杞憂だったことはすぐに分かった。
ルーベンの顔を見た女性が笑顔になって立ち止まったのだ。
予想以上に好意的な反応に、ルーベンは少し肩の力を抜き、用意していた台詞を口にした。
「ここじゃないのかな……あの、少しお尋ねしてもよろしいでしょうか?」
女性は満面の笑みで答えた。
「ええ、どうぞ」
「引っ越してきたばかりなのですが、果物を売っている通りはどこかご存じでしょうか?」
「果物ですか? あちらの二つ目の路地をまっすぐ行けば果物屋さんが並んでいますよ」
会話は思った以上にスムーズだった。
『なんだ、思ったより簡単じゃないか。俺が勝手に怖がってただけだ』
ルーベンは自信を取り戻し、そのまま会話を続けた。
修道士と一緒に繁華街を歩き回っていたので果物屋の場所くらい知っていたが、あえて初めて聞いたような顔をした。
「おお、本当にありがとうございます。今すぐお礼はできませんが、あそこの白く塗られた建物が見えますか?」
「あら、ちょうど何のお店か気になっていたんです」
「ティーハウスを開く予定です。十月一日に開店しますので、お越しいただければ感謝の気持ちとして一杯ご馳走いたします」
「まあ、ぜひ伺います。それより、そこの素敵な方?」
「は、はい」
「ご結婚のお相手はいらっしゃるの?」
「?」
その瞬間、ルーベンの思考は止まった。
いきなり?
これがこの時代のスペイン式スモールトークなのか?
それとも何かの罠か?
いや、それより俺って家庭持ちに見えたのか?
……いや違う。
この時代なら平民の男でも十七歳で家庭を持つことは珍しくない。
そう考えれば変な質問でもないのか。
様々な考えが頭を駆け巡った末に出たのは、どこか間の抜けた返事だった。
「あ……まだいません」
「あら残念。私の周りにいい子がたくさんいるから、今度連れてくるわね」
「ありがとうございます。お待ちしております」
予想外の会話に戸惑いながらも、ルーベンは気を取り直して次の獲物を探した。
「あの、すみません……」
「あら? 初めてお見かけしますけど、お引っ越しされたんですか?」
二人目も三人目も、皆驚くほど好意的だった。
中には話を切り上げようとしてもなかなか離してくれない人までいて、ルーベンは困るほどだった。
この頃になると、ルーベンもようやく悟り始めた。
『俺の顔、本当に戦略兵器だったんだな』
両親から受け継いだ魔性の才能が、ついに本領を発揮し始めた。
***
ルーベンの宣伝と開店効果のおかげで、初日から予想以上に客が集まった。
「まあ、お店が本当に素敵ですわ」
「なんて明るい雰囲気なんでしょう。他の酒場も少し見習ってほしいですね」
ガラスのコップを揃えるのにかなり費用をかけたため、内装は少し節約していた。
とはいえ、明るさを諦めたわけではない。
壁もテーブルも椅子もすべて白く塗り、その上に青と黄色のテーブルクロスや飾りをあしらっていた。
『本当にこれはトウモロコシとザクロのおかげだ』
トウモロコシから作る青い染料と、ザクロの皮から作る黄色い染料が安価だったからこそ実現できた内装だった。
人々の感嘆はハーブティーを受け取ってからも続いた。
「まあ、この淡いピンク色を見てください」
「お店の雰囲気にぴったりですね」
「味も本当に素晴らしいですわ。ローズヒップってこんな味だったの?」
「でしょう? 来て正解だったわね」
開店二日目も客足は悪くなかった。
場所も教会が正面に見える広場の最前列で、店では社交の集まりもいくつか開かれた。
『これなら十分だ。ハーブティーを売る店があるってことくらいは、もう皆に知れ渡っただろう』
もちろん、まだ全ての席が埋まるほどではなく、このままでは赤字は避けられない。
そのため子供たちは心配そうな顔をしていた。
「夕方のお祈りに来た人たちも帰ったし、そろそろ閉めよう」
「もう? もう少し待ってみようよ」
自分の店のように一生懸命働く子供たちの姿は、本当に頼もしかった。
だからといって、王妃様がもうすぐ亡くなるなどとは言えるはずもなく、適当に誤魔化した。
「これで十分だ。明日からはしばらく眠る暇もないくらい忙しくなるから、今日は早く休もう」
子供たちはルーベンが励ましてくれたのだと思い込み、皆で店を閉めた。
***
ルーベンの豪語とは裏腹に、翌日も状況は前日と大差なかった。
閑古鳥が鳴くほどではないが、繁盛しているとは言えなかった。
それでもルーベンは、この先押し寄せる客に備えてハーブを準備していた。
『そろそろ鳴る頃なんだけどな』
テラスに座って汗を拭っていると、教会から鐘の音が響いた。
ゴーン――
「何だ? まだ昼のミサには早いはずじゃ……」
ミサの前にも鐘は鳴るが、時間が合わなかった。
朝のミサの鐘が鳴ってから、まだそれほど経っていなかったからだ。
ゴーン、ゴーン――
重要人物が亡くなった時に鳴る三打の鐘に、子供たちは大騒ぎになった。
「わっ! 大変だ! 鐘が三回も鳴った!」
しかし鐘は止まらなかった。
ゴーン、ゴーン、ゴーン――
合計九回の鐘。
国王か王妃が崩御した時に鳴らされる回数だった。
ルーベンは両手を組み、静かに頭を下げた。
『王妃様。あの世なんてあるかは分かりませんが、もしあるのなら、どうかそこで健康で幸せに長生きしてください』
だが、生きている者は生きていかなければならない。
つまり、ルーベンのティーハウス事業にとっては、まさに絶好の機会が訪れたということだった。




