012話. コールタール
ルーベンは御者を帰した後、空き倉庫を改造して作った研究室にアランビックを大切に安置した。
そして、子どもたちと一緒に瀝青炭と柳の樹皮を運んだ。
「危ないから、ゆっくり。」
中身と箱を合わせると、50キロほどあった。
大切なものだったため、子どもたちと慎重に運んだ。
瀝青炭の箱一つは特製オーブンの近くに置き、残りは使っていない倉庫に保管した。
「箱から変な匂いがするけど、何が入ってるの?」
「瀝青炭という石で、イングランドでは木の代わりに使う燃料だ。」
ピラオンをはじめとする子どもたちは、信じられないという目でルーベンを見つめた。
「石を木の代わりに使うって? 石に火がつくってこと?」
「並の木よりずっとよく燃える。」
「本当に? 見てもいい?」
「構わないけど、火をつけた後は遠くから見ていろ。危ないから。」
特に秘密を守るためではなかった。
万が一ガスが漏れたり爆発したりすれば、怪我をする可能性があるため、子どもたちを巻き込むわけにはいかなかった。
「分かった。ルーベンの言う通りにするよ。」
「私も! 私も!」
やる気に満ちた子どもたち。
ルーベンは熱心な働き手たちを見ながら、作業を指示した。
「まず瀝青炭を適当な大きさにして、窯の中へ入れないといけない。」
子どもたちは大きな瀝青炭を砕き、ほどよい大きさのものはそのまま窯へ入れ始めた。
その間、ルーベンはあらかじめ用意しておいた黄土と藁に水を注ぎ、混ぜ始めた。
エミリナがその様子を見て尋ねた。
「ルーベンは何をしてるの?」
「これは瀝青炭が熱分解される時に煙が漏れないよう、入口側の煉瓦を塞ぐ材料だ。」
「熱分解って何?」
「ええと、うーん…………。」
この年頃の少年少女は好奇心の化身。
しかし、正直に『物質を高温で加熱すると起こる化学物質の分解反応』と説明したところで、理解できるはずもなかった。
「熱を加えて、物を役に立つ形に変えることだ。生地をオーブンに入れればパンになるようにな。」
「そうなんだ! じゃあ、私たちパンも売るの? 美味しそう!」
「え、ああ。そうだな。」
エミリナの無邪気な反応を見て、ひっそりとティーハウスのメニューにパンを追加するルーベンだった。
「でも、土と藁で煙を止められるの?」
「もちろんだ。ほかの窯でもよく使われている。後で見せてやる。」
ほかの部分はアマンじいさんがモルタルで丁寧に仕上げていたが、瀝青炭を入れるための入口は当然開いたままだった。
ここは瀝青炭を詰めた後、細心の注意を払って塞ぐ必要があった。
ルーベンを含めて七人で取りかかったため、作業は思ったより早く終わった。
「ルーベン、終わったよ。次は何をすればいい?」
「少し待って。」
ルーベンは瀝青炭を入れたオーブンの入口を煉瓦で塞ぎ、泥をまんべんなく塗った。
そして、木炭と瀝青炭の欠片を、中央の窯を取り囲む外側の炉へ入れた。
「火をつけるから、近づかずにそこで見ていろ。」
「うん! 分かった。」
ルーベンは慎重に火種を外側の炉へ入れた。
やがて足で鞴を動かし始めると、瀝青炭と木炭が燃え上がり、中央の炉を加熱し始めた。
「わあ! 本当に石が燃え始めた!」
「本当だ! どうして石が燃えるんだろう?」
『可愛い奴らだ。たったこれくらいで驚いていて、後になったらどうするつもりなんだ。』
純粋に驚いている子どもたちを見ていると、ただ可愛らしいと思った。
「でも、どうしてオーブンみたいに外から熱を加えるの?」
「さっきのパンの話を覚えてるか?」
「うん! 早く食べたい!」
「……ああ。そうだな。後で食べよう。とにかく、パンを焼く時、火で直接焼いたらどうなる?」
「全部焦げちゃう! 焦げたパンは苦くて不味い…………。」
「そう、それと似たようなものだ。俺が今作ろうとしているものも、火で直接焼けば、ただ燃えてしまう。」
コークスを作る工程は燃焼ではなく、熱分解だった。
そのため、外部から1000度以上の温度を継続的に供給しなければならなかった。
ここから先は、ひたすら忍耐勝負。
コークスができるまで、絶えず木炭を入れて温度を維持すればよかった。
実のところ子どもたちに任せようかとも考えたが、火を扱う作業だったため、ルーベンが自分で行う方が安心だった。
「今日はここまでだ。みんな、体を洗って家へ帰り、ゆっくり休め。」
「本当? 今日は終わり?」
「ああ。」
「パンは?」
「帰りに、うちの母さんに頼んでみろ。」
ルーベンは子どもたちを帰し、木炭を加えながらオーブンへ熱を与え続けた。
「早く集まりさえしろ。きっちり蒸留してやるからな。」
一人残ったルーベンはコークスオーブンの周囲へ広く水を撒き、炉へ木炭を入れる作業を繰り返した。
***
瀝青炭がコークスになるまでの工程には、余裕を見て三日ほどかかった。
だからといって、遊んでいる時間はなかった。
柳の樹皮からサリシンを抽出するため、その間にアランビックを使って蒸留水を作っていたルーベン。
「蒸留水もある程度たまったし、始めよう。」
大きな鍋へ柳の樹皮を細かく刻んで入れるため、包丁を手に取ったところ、外からピラオンの声が聞こえた。
「ルーベン! 問題が起きた!」
ルーベンの個人研究室は絶対に立入禁止だったため、離れた場所から大声で呼んだのだった。
「どうした! 何があった!」
誰かが怪我をしたのではないかと、心配するルーベンだった。
「ハーブに虫がついてる! 早く来て!」
「すぐ行く!」
ルーベンはアランビックのフラスコを熱していた火を始末し、すぐに農園へ向かった。
農園には六人の子どもたちが集まり、心配そうな表情で何かを見つめていた。
「何があった?」
「大変だよ、ルーベン。これを見て。」
ピラオンが指さしたローズヒップの茎には、小さな黒い点がいくつも見えた。
「あれ? アブラムシだな。」
「昨日までは確かになかったのに、今日になって急にこうなったんだ。どうしよう?」
それほど心配するほどではなかった。
こうした事態に備え、間隔を広めに空けて植えていたからだ。
「ひとまず、これは引き抜いて燃やすから、ほかの株にもついていないか確認していてくれ。」
「うん、分かった。」
ルーベンはアブラムシに占領されたローズヒップを根ごと引き抜き、慎重に燃やした。
そして、生活用品を積んでおく倉庫へ向かった。
「ソーダ灰の箱は、この辺りにあるはずなんだが。」
ソーダ灰は洗浄剤として使っていたため、倉庫には常に予備を置いていた。
もちろん、石鹸を作れるほど大量ではなかったが、これくらいのアブラムシ退治なら十分にできた。
「あった。」
ルーベンはソーダ灰を箱ごと持ち、農園へ向かった。
戻ってきたルーベンへ、子どもたちが報告を始めた。
「カモミールの方には広がってないよ。」
「ローズヒップは、あそこまで所々についてた。」
子どもたちが毎日管理していたからか、大きく広がる前に見つけられたようだった。
「これくらいなら幸いだな。」
被害が大きくないことに安堵したルーベンは、ソーダ灰の箱の蓋を開けた。
「それ、ソーダ灰じゃない?」
「そうだ。」
「何に使うの?」
「まず俺が手本を見せるから、よく見ていろ。」
ルーベンはソーダ灰を手につけ、アブラムシがついたローズヒップの葉と茎を擦った。
そして、手に残った少量の灰を払い、周囲の地面へ撒いた。
「終わり。難しくないだろ? アブラムシがついた作物にはこうして、周りへソーダ灰をほんの少しだけ撒くんだ。」
「難しくはないけど、これでアブラムシがいなくなるの?」
「明日来れば、全部落ちているはずだ。作業中、服にアブラムシがつかないよう気をつけろ。俺は研究の続きをしに戻る。」
子どもたちはソーダ灰が本当に効くのか疑問だったが、ルーベンを信じていたため、ひとまず言われた通りにした。
『まったく。次から次へと問題が起きるな。』
研究室へ戻ったルーベンは、大きな鍋へ柳の樹皮を細かく刻んで入れた。
そうして鍋が半分ほど埋まると、蒸留水を注ぎ、煮始めた。
『柳の樹皮を蒸留水で煮ればサリシンが溶け出し、加水分解すればサリチル酸になる。このままアスピリンまで作れればいいんだが…………。』
鎮痛薬、解熱薬の代表格であるアスピリン、すなわちアセチルサリチル酸を作るには、まだ達成しなければならない課題が残っていた。
アスピリンは今回得られるサリチル酸を『無水酢酸』へ入れ、『硫酸』を触媒として加熱することで得られる、近代化学の申し子。
方法は知っていたが、今すぐ硫酸を手に入れるのは簡単ではなかった。
『しばらくはサリシンだけを使う方がいいな。サリチル酸は副作用の問題もある。』
もちろん、サリシンだけでもアスピリンの効能である鎮痛、抗炎症、解熱などの効果はあった。
アスピリンに比べれば劣る方ではあったが。
そうして港町へ向かうための準備が、着々と進んでいった。
***
翌日、農園へ出勤した子どもたちは、まずアブラムシを確認するため、ローズヒップが生えている場所へ向かった。
「あれ?! アブラムシが本当にいない!」
「本当だ。」
「ルーベンは天才だ。」
「オウレンセ大聖堂の図書館で本を読んだって言ってたけど、やっぱり何か違うな。」
「伊達にアルバ家から後援を受けてるわけじゃないみたい!」
ルーベンが来ると、子どもたちの大騒ぎはさらに激しくなった。
「ルーベンは、どうしてこれを知ってたの?」
「これもルーベンが研究して見つけたの?」
「ただの生活の知恵とでもいうか?」
「じゃあ、研究じゃないってこと?」
「そうではあるけど、それがどうした?」
「ルーベンの秘密研究じゃないなら、私たちの親にも教えてあげようと思って。」
商工業が発達してはいたが、まだ大多数の人々が農業に従事している時代だった。
アブラムシは、そのような農民たちにとって悪魔のような存在だった。
そんな中、アブラムシを取り除く方法を知ったのだから、驚くのも当然だった。
『しまった。どうせ教えるなら、きちんと説明しておかないとな。下手にソーダ灰を撒きすぎて、作物が枯れでもしたら。』
ソーダ灰に直接触れたアブラムシは、体内の水分を奪われて死んでしまう。
だからといって、ソーダ灰が万能というわけではなかった。
「ほかの人たちに教えてもいいけど、ソーダ灰を撒きすぎると作物が枯れることがある。」
「昨日ソーダ灰を撒いたハーブは、何ともないけど?」
『ああ、この時代の知識水準に合わせて説明するのは簡単じゃないな。』
ルーベンはしばらく考えてから答えた。
「それは、ごく少量しか使わなかったからだ。ソーダ灰は植物にとって薬のようなものだが、使いすぎると毒になる。特に葡萄と豆には、できるだけ使わない方がいい。」
ソーダ灰を多く使えば、土壌がアルカリ化した。
ハーブはもともと鈍感な植物だったため、弱アルカリ性の土壌でもよく育ち、問題はなかった。
しかし、この時代のスペインで多く栽培されていた葡萄と豆は、弱アルカリ性どころか中性土壌になっただけでも枯れてしまった。
「ごく少量って、どれくらい?」
「アブラムシへ直接ソーダ灰をつける程度にしろ。」
もちろん、もう少し使っても問題はなかったが、葡萄の場合、ソーダ灰を乱用すれば実の酸味が強くなり、品質が落ちる可能性があった。
「分かった。ルーベンは本当に何でも知ってるんだね。」
「お前たちも一生懸命」
一生懸命本を読めと言いかけたが、途中で言葉を止めた。
この時代の平民には、文字を読める者がほとんどいなかったからだ。
「一生懸命、何?」
「一生懸命働けば、俺が教えてやるってことだ。」
「一生懸命やるから、たくさん教えて!」
この子どもたちが初心を保ち続けるなら、これからもずっと一緒に働きたいルーベンだった。
そのためには、文字と知識を教えなければならなかった。
『体は一つしかないんだ。それまで俺がやるのは無理だ。本格的に金を稼ぎ始めたら、こいつらを教える先生を雇わないとな。』
多くの金が必要になるだろうが、計画通りに進めば、それも遠い先の話ではなかった。
***
瀝青炭の熱分解を始めて三日目、ルーベンは胸を躍らせながらコールタールの器を取り外した。
「いやあ、重いな! 瀝青炭が46キロだったから、だいたい1.8キロくらいか?」
もちろん、瀝青炭の品質によって収率に差があるため、あくまで大まかな予想値だった。
器の入口を封じ、窯の入口である大きな石の温度を確かめた。
「残るのはコークスだが……まだ数日は冷まさないとな。」
熱分解はほぼ終わっていたが、熱が残っていたため、煉瓦はかなり熱かった。
この状態で煉瓦に衝撃を与えれば壊れる可能性があるため、ひとまずそのままにしておくことにした。
コークスは空気中で冷却する必要があったが、すぐ使うものでもなかったため、急ぐ必要はなかった。
後で取り出した時に状態が悪ければ、適当に木炭の代わりとして使えばよかった。
それでも木炭よりは、はるかに効率がいいはずだからだ。
「後々は銑鉄を大量生産しないとな。」
コークスで銑鉄を大量に作り出すには、まだやらなければならないことがあまりにも多かった。
もちろん、最も重要なのは金を稼ぐことだった。
金さえあれば、残りの大部分は自然と解決できたからだ。
「やることは山積みだが、欲張らずにゆっくり進もう。一度でもしくじって、悪魔や魔女扱いされたら困る。」
アルバ家の後援とアンドリューの助けによって、計画を素早く進めることになったルーベンだった。
焦る心を落ち着かせ、研究室へ向かった。
研究室へ入ったルーベンは、アランビックの横へコールタールの入った器を慎重に置いた。
そして、事故が起こらないよう環境を管理し、本格的な蒸留作業へ取りかかった。
「一度で全部入るな。アンドリューおじさんには、後で必ず恩返ししないと。」
1.8キロのコールタールは、体積にするとおよそ1.6リットルだった。
アンドリューが贈ってくれたアランビックは最新型で、しかも大型だったため、フラスコへ1.6リットルは軽々と入った。
フラスコへコールタールを注ぎ入れたルーベンは、底の下にあらかじめ用意しておいた水入りの水槽を置いた。
そして、フラスコではなく、水槽の方へ熱を加え始めた。
「くう、子どもの頃を思い出すな。」
ルーベンも初めて化学に触れた時、このような単式蒸留器を使ったことがあった。
久しぶりに行うと、当時の記憶が次々と蘇った。
「今日はベンゼンとトルエンまで蒸留してみるか?」
自然と鼻歌がこぼれるルーベンだった。




