013話. 捨てるところがない
アンドリューが贈ってくれたアランビックは最新型で大容量ではあったが、あくまで単式蒸留器だった。
前世の分別蒸留器のように、混合物を同時に分離することは不可能だった。
しかし、ルーベンはコールタールに混ざっている化合物の沸点をすべて知っていた。
面倒で時間はかかるだろうが、望む物質を得られる自信があった。
「早く沸け、早く。」
ぐつぐつ。
「おお、沸いた。ちょっと火をどけないと。」
気化して管を通っていたものが液化し、陶器の中へ落ち始めた。
そうして三時間蒸留した後、ベンゼンがたまった陶器の蓋を閉じ、新しい陶器へ交換した。
「ベンゼンは後で時間ができたら、あと二、三回精製しよう。」
沸点に達していなくても、蒸発という気化現象は起こる。
水が100度でなくても蒸発するのと同じ現象だった。
そのため、純度の高いベンゼンを得るには、さらに数回蒸留する必要があった。
「危ないから、きちんと密封しておかないと。」
ベンゼンはそれ自体で爆発するわけではないが、非常に燃えやすい物質だった。
そのため保管には注意が必要であり、蜜蝋で完全に密封した。
「蜜蝋代も馬鹿にならないな。」
密封作業を終えたルーベンは、あらかじめ印をつけておいた線まで水を満たし、用意していた塩を注いだ。
「今度はトルエンの番だ。水を入れて、塩。」
ルーベンはあまりにも楽しくて、思わず鼻歌を歌いながら作業した。
「早く沸け。トルエンこそ、後で大仕事をしてくれる奴だからな。」
トルエンは天然物質を抽出、精製する溶媒や接着剤、塗料の材料などに使われていたが、何よりも
「TNTの原料ってわけだ。」
ダイナマイトよりは爆発力が劣るものの、比較的安定した物質だった。
「それでも今回は少し楽だな。」
沸点がだいたい同じだったため、火加減を調節する必要はなかった。
水が沸騰して蒸発すれば塩水の濃度が上がるため、途中で水を補充するだけでよかった。
トルエンもまた、三時間かけて蒸留した。
ルーベンはトルエンの入った陶器を密封し、研究室を片づけた。
「ふう、明日が本当の力仕事だな。」
明日蒸留する物質は、キシレン(Xylene)とフェノールだった。
「ああ、夜は寝ないと背が伸びないのに…………。」
同年代の中では大きい方だったが、まだ成長期だったため、もう少し背が伸びてほしいと思っていた。
それでも昼間は、子どもたちが問題を解決してほしいと訪ねてくることが時折あったため、作業は仕方なく夜に進めなければならなかった。
柳の樹皮からサリシンを抽出するのとは違い、コールタールの蒸留は非常に危険だったからだ。
***
ルーベンは出勤してきた子どもたちを集めて言った。
「午前中は研究材料を買いに出かけないといけないんだけど、お前たちだけでできるよな?」
ルーベンの問いに、ピラオンが大きな声で答えた。
「心配するな! 俺がみんなをしっかり見ておくよ。」
「俺がいない時はピラオンが責任者だから、みんな言うことをよく聞くように。」
もともとピラオンは同年代の中でリーダーだったため、子どもたちは全員納得した。
「ミサが終わった後のハーブティー販売も、時間に遅れないように行くんだぞ。」
「心配するなって。安心して行ってこいよ。」
そうして子どもたちを農園へ送り、自分も外出の準備をした。
コールタールの残りを蒸留するための材料を購入しなければならなかったからだ。
ルーベンが訪れたのは、村の市場にある食料品店だった。
「こんにちは、イファルおばさん。」
「ルーベンじゃない。エレナさんが何か買い忘れたのかい?」
二日前にエレナが大量に買い物をしていったため、そう尋ねたのだった。
「そうではなくて。もしかして、古くなって酸敗したオリーブ油はありますか?」
「酸敗したオリーブ油? あるにはあるけど、そんなものは食べられないよ。匂いもひどいし、食べてお腹でも壊したらどうするんだい。」
突然ルーベンが腐ったオリーブ油を欲しがったため、イファルは不思議に思った。
「研究に必要なんです。」
「研究? ああ、そういえば、アルバ家の後援まで受けているお前が、金がなくて傷んだ物を買うはずもないね。それなら2リブラあるけど、どれくらい要るんだい?」
1リブラは、この時代のスペインで使われていた重量単位で、およそ460グラムほどだった。
「全部ください。」
「全部?」
「はい。それと、状態のいいオリーブ油もできるだけたくさん買いたいんですが、余裕はありますか?」
酸敗したオリーブ油ならともかく、普通のオリーブ油を一人で買い占めることはできなかった。
高価ではあったが、オリーブ油はスペインの食卓に欠かせない材料だったからだ。
パンやサラダと一緒に食べるため、それほど大量には必要なかったが、食料品店に置いてある量も少ない可能性があった。
すべて買ってしまえば、村人たちが困るかもしれなかった。
「新鮮な物なら、3リブラくらいは渡せるよ。」
「それも全部買います。研究に必要なので。」
「研究というのは、本当に金がかかるものなんだね。少し待っておいで。」
しばらくして、イファルは倉庫から酸敗したオリーブ油の瓶を二本、正常なオリーブ油の瓶を三本持ってきた。
「色褪せた陶器の瓶が酸敗した物で、こちらが新鮮な物だよ。」
「ありがとうございます。」
「礼なんていいよ。私も金を受け取って売るんだから、たくさん売れて嬉しいさ。とにかく、落とさないよう気をつけて帰るんだよ。」
「はい、また来ます!」
店を出たルーベンは、雑貨店の方へ足を向けた。
『ラエフおじさんが、いつ港町へ行くのか確認しておかないとな。』
港町も同じビーゴ地域にあったため、それほど遠くはなかった。
しかし、道を知らなかったため、一緒に行く人が必要だった。
ついでに荷馬車にも乗せてもらえれば好都合だった。
「おじさん。」
「おう、ルーベンか。どうしたんだ?」
「実は、港町へ行く時についていけないかと思いまして。」
「商売をすると言っていたが、本当に本格的に始めるつもりのようだな。俺は話し相手ができて助かるよ。来週の月曜日に行くが、都合はいいか?」
「都合が悪くても合わせます! ありがとうございます!」
「詳しいことは明日のミサで会った時に話そう。今は妻の使いの途中だからな。」
ラエフとの話を終えて家へ戻ったルーベンを、子どもたちが迎えた。
「ルーベン、研究に必要な物は全部買えた?」
「必要な物は手に入れたよ。」
「良かった! 早くご飯を食べよう。」
昼食を終えると、もともとの眠気に食後の眠気まで重なり、瞼が自然と閉じていった。
「みんな、俺は研究の準備をしないといけないから、本当に急ぎの用事でなければ呼ばないでくれ。」
「分かった! ルーベンも頑張って!」
研究の準備とは聞こえがいいが、ありていに言えば昼寝をするということだった。
子どもたちを送り出したルーベンは研究室へ入り、蜜のように甘い眠りについた。
***
夕食を取りながら、エレナが心配そうな表情で尋ねた。
「昨日、遅くまで起きていたようだけど、無理をしすぎていない?」
ルーベンが研究をしているというので放っておいたものの、心配なエレナだった。
「昼間に少しずつ寝ているので大丈夫です。」
「研究もいいけれど、健康が第一よ。」
つい先日まで、生死の境を彷徨っていた息子だった。
いや、医師から死亡を宣告されたのだから、死んで生き返ったと言う方が正しい表現だろう。
「分かりました。健康を最優先にします。最近は記憶も少しずつ戻ってきている気がしますし、すごく調子がいいです。」
特にエレナを思いやってついた嘘というわけではなかった。
『僕だって病気になって寝込んでいたくはありません。』
サリシンを作り、コールタールを蒸留している理由は、すべて生きるための必死の足掻きだったからだ。
もちろん、エレナがルーベンの本心を知るはずもなかった。
『子どもは一日ごとにぐんぐん育つとはいうけれど、ルーベン、あなたほど早く変わる子もいないでしょうね。まったく、どうしてあんなに父親に似ていくのかしら。』
それでも、息子が生きて自分のそばにいるだけでありがたいエレナだった。
彼女の願いは、息子が健康に成長した姿を見ること。
さらに、祖母と呼ばれるよう孫まで抱かせてくれれば、言うことはなかった。
「ええ、うちの息子を信じるわ。」
子に勝てる親はいないというように、エレナは結局ルーベンに降参を宣言した。
母の愛情に満ちた眼差しに、思わず微笑んだルーベンは、これからの予定を思い出し、報告を始めた。
「それはそうと、来週の月曜日にラエフおじさんについて港町へ行ってきます。」
「港町へ何をしに行くの?」
「ティーハウスを開く建物と、みんなで暮らす家を探しに行きます。必要な家具や備品も注文しないといけませんし。」
息子が港町でティーハウスを開くということが、さらに現実味を帯びて感じられるエレナだった。
行動力は夫を上回っているようだった。
「ラエフさんには話したの?」
「もちろんです。」
「そう、分かったわ。行ってからも、いつも気をつけるのよ。」
「はい、母さん。今日もご馳走さまでした。僕は少し研究をしてから寝るので、母さんは先に休んでください!」
「あまり遅くならないうちに寝るのよ。」
食事を終えたルーベンは、すぐ研究室へ向かった。
「ふう、腹も満たしたことだし。少し仕事を始めるか。」
ルーベンはベンゼンとトルエンを蒸留した時、水と塩水を入れていた容器へ、酸敗したオリーブ油二本をすべて注いだ。
すると、オリーブ油が酸敗したことで生じた金属臭のような匂いが、ルーベンの嗅覚を刺激した。
「うっ、臭い。完全に駄目になってるな。実にいい。」
匂いはひどかったが、確実に酸敗している証拠だったため、ルーベンは満足した。
ルーベンはアランビックのフラスコが酸敗したオリーブ油に浸かるよう設置し、下に火を置いた。
「まずはキシレンから。」
酸敗したオリーブ油を加熱するのは、その煙点を利用するためだった。
気化する沸点とは違い、煙点は煙が出始める温度だった。
この時代のオリーブ油は、ほかの化学処理をせず、冷間圧搾でそのまま搾っていたため、前世のエクストラバージンオリーブ油と同じだった。
「エクストラバージンオリーブ油の煙点が180度くらいで……酸敗したものは140度前後。」
酸敗したオリーブ油は、キシレンを蒸留するのに非常に適した煙点を持っていた。
「あ、煙が出た。」
もちろん、トルエンとは違い、煙が出ればそのたびに熱源を取り除かなければならなかった。
140度ほどで煙が出るだけで、気化するわけではなかったため、温度は上昇し続けるからだ。
かなり面倒な作業にもかかわらず、ルーベンは時間が過ぎるのも忘れていた。
「本当にコールタールには捨てるところがないな。」
キシレンのさまざまな機能の中で、ルーベンが注目したのは香りの持続性を高める機能だった。
この時代にも香水は存在した。
貴族だけが使う、高価な贅沢品として。
しかし、まだ技術が足りず、アルコールに香料を加える程度だったため、香りの持続力は非常に低かった。
キシレンは、それを補ってくれる物質だった。
「o-キシレンだけを別に抽出できれば、もっといいんだが。」
今蒸留しているキシレンには、o、m、p-キシレンが混ざっていた。
沸点がそれぞれ144度、139度、138度と、ほとんど同じだったからだ。
しかし、わざわざ分離せずに使っても、この時代の香水よりはるかに長い持続時間を保証してくれるはずだった。
「もちろん副作用があるかもしれないから、ひとまずグリセリンだけで少し稼いで、こいつらはゆっくり使えばいい。」
化学物質だったため、副作用を無視することはできなかった。
香水の顧客層は貴族だったため、肌に異常でも起きれば困ることになる。
これからの計画を考えながら、酸敗したオリーブ油から煙が出れば熱源を取り除き、冷めれば再び熱を加える作業を繰り返した。
「ふう、三時間以上かかった気がするな。そろそろ疲れてはきたが…………。」
キシレンを蒸留したルーベンは、コルク栓と蜜蝋で慎重に密封した。
そして、ある程度冷めた酸敗オリーブ油を再び瓶へ戻した。
「酸敗したものも全部金になるんだから、きちんと再利用しないとな。」
容器をきれいに洗い、正常なオリーブ油を注いでから、再び蒸留を始めた。
「それじゃあ今度は、ふふふ、フェノールを蒸留する番か!」
その後も、ルーベンの楽しい化学の時間は一晩中続いた。
***
「ぜ……全部できた…………。」
エレナは、浮浪者のような姿で戻ってきた息子を見て驚愕した。
「ルーベン! まあ、まさか徹夜したの?」
「ふふふ……フェノール、クレゾール、ナフタレン、アントラセン。」
「この子ったら、本当にどうするつもりなの!」
ぱしん!
時代を越えて、母親という生き物は息子を叱る時、背中を叩くものだった。
しかし、母の鋭い一撃にもかかわらず、ルーベンの意識は別のところへ向いていた。
『これで準備は終わった。ついに事業を本格的に始められる。だが、その前に…………。』
どさっ!
「まあ!」
そのまま床へうつ伏せに倒れたルーベン。
「まあ、大変! ルーベン、ルーベン!?」
もしやと思い、慌ててルーベンを抱き起こしたエレナ。
病気が再発したのではないかと胸を締めつけられたが。
ぐう―。
鼾をかきながら眠り込んだ息子を見て、ただ溜め息をつくばかりだった。




