011話. 専用武器
瀝青炭から作れるものはいくつもあった。
その中でも代表的なのは、何といってもコークス。
しかし、今回の計画の主役ではなかった。
『今すぐコークスで何かをするのは無理だ。』
コークスといえば、産業革命の象徴。
本格的な製鉄の嚆矢ともいえる代物だが、実際にコークスで鉄鉱石を還元しようとすれば、1700度以上に耐える耐火煉瓦で作られた高炉が必要だった。
この時代には、世界中を探してもコークスの熱気に耐えられる高炉は存在しなかった。
『一応、黒鉛なら3000度以上に耐えられるから、温度の問題はクリアできそうだが。』
しかし、るつぼ工法はそもそもコークスと鉄鉱石を直接還元するための方式ではなかった。
るつぼの材料である黒鉛は物理的強度が低く、大量のコークスと鉄鉱石の重さに耐えられなかったからだ。
そのうえ、1700度以上の高温では黒鉛が酸素と急速に結合し、強度がさらに低下するため、コークスを使って大量の銑鉄の溶湯を取り出すことは不可能だった。
『もちろん、この状態でもアルミナやシリカ、それにドロマイトのような材料で高炉を作り、製鉄を試みることはできるだろうが、人手と設備が足りない。』
だからこそ、ルーベンが瀝青炭から欲しているものは、コークスを作る過程で出るガスを液化したコールタール(Coal Tar)。
正確には、そのコールタールから抽出できる『ベンゼン』と『フェノール』だった。
『ベンゼンの収率中央値が1.5%で、フェノールは0.75%。瀝青炭は余裕を見て200グラムは必要だな。』
ベンゼンは抗生物質の一種であり、最初の合成抗菌薬であるサルファ剤を作る主原料だった。
しかし、サルファ剤を今すぐ作るには、まだ道のりが少し遠かった。
そこで、ルーベンの狙いは、水に混ぜて空気中へ撒くだけで持続的な消毒効果を得られる『フェノール』。
前世では副作用のため、フェノール水溶液を別の物質に置き換えるのが主流になっていたが………………。
『だからといってクロルヘキシジンを作れるわけでもないし、注意して使うならフェノール水溶液ほどのものはない。』
この時代の港町は、まさに病気の温床。
フェノールは、ビーゴで商売をする時にルーベンと従業員たちの命を守ってくれる、とても重要なものだった。
「ところで、量はどれくらい必要なんだ?」
「瀝青炭は5キンタルほど、柳の樹皮は1キンタル必要なのですが、可能でしょうか?」
1キンタルは、この時代のスペインの重量単位で、およそ46キログラムほどだった。
「十分だ。荷馬車に余裕があれば、もう少し送ってやろう。」
「本当にありがとうございます。後で成功して、必ず恩返しします。」
アンドリューは残っていたワインを飲み干し、立ち上がりながら言った。
「もう少し話したいが、疲れたから先に帰るとしよう。」
「アンドリューおじさん。本当にありがとうございます。」
アンドリューはルーベンの頭を撫でながら言った。
「これからもっと大きな成功を収めても、今のように周りの人々を気遣う心を忘れるな。」
ルーベンが村人たちのためにパーティーを開いたことについての話だった。
正直、そのような殊勝な心で開いたパーティーではなかったため、少し胸が痛んだが、屈託なく笑いながら言った。
「必ずそうします。」
「ああ。立派に育ってくれて本当にありがたい。また今度会おう。」
「お気をつけてお帰りください。」
一人残ったルーベンは、店の主人に言った。
「おじさん、ビールと、今作れる料理を二つだけお願いします。」
「エレナさんに持っていくのか?」
「いいえ。アマンじいさんに持っていきます。」
「煉瓦職人の爺さんか?」
「はい。研究に必要な窯をお願いしようと思って。」
「ハーブティーの研究に窯まで必要なのか? とにかく分かった。爺さんの好きなものを用意してやろう。」
瀝青炭は手に入れた。
今度は、その瀝青炭をコークスへ変えてくれるオーブンを作る番だった。
***
ルーベンはビールと料理を持ち、村の外れにある煉瓦工房を訪れた。
「うわ、ちょうど作業中なのかな? 近くまで来ただけなのに蒸し暑い。」
工房の扉をノックしたが反応がなかったため、大声で呼んだ。
「アマンじいさん! いますか?」
しばらくして扉が開き、熱気と共に人のよさそうな白髪の老人が出てきた。
「誰かと思えば、ルーベンじゃないか?」
「おじいさん、こんにちは。」
ルーベンが両手に持っている料理を見て、アマンが尋ねた。
「手に何をそんなに持っているんだ?」
「ビールと料理です。おじいさんに差し上げようと思って。」
「どうしてこんなものを買ってきたんだ?」
「お願いしたいことがあるんです。」
「今やっている作業だけ終わらせてくるから、少し座って待っていなさい。」
ルーベンは椅子に座り、アマンの作業場を見回した。
『煉瓦の種類がものすごく多いな。』
16世紀において、煉瓦職人はかなりの熟練人材だった。
聖堂はもちろん、王や貴族の城と邸宅、都市の家々まで、すべて煉瓦で建てていたため、需要が莫大だったからだ。
都市から遠い田舎では木で建てる場合もあったが、ルーベンの村でさえ家は煉瓦で作られていた。
もちろん、ルーベンの家をはじめとする一部の家を除き、安価な日干し煉瓦を使っていたが。
すると、ルーベンの視線が一つの陶器で止まった。
『あれ? どうしてこれが?』
この時代、陶器はごくありふれていた。
今すぐルーベンの家にも陶器の器がたくさんあった。
しかし、ルーベンが不思議に思った理由は別にあった。
『どう見てもマヨリカ(maiolica)なんだが?』
マヨリカは、酸化鉛と珪酸塩で作った鉛釉(Lead Glaze)を用いて焼いた最高級の陶器だった。
もちろん、この体に憑依してから初めて見るものではなかった。
オウレンセ大聖堂ですでにいくつも見ていたが、こんな田舎町にあるような品ではなかった。
『オウレンセ大聖堂にあるものと比べても遜色のない出来なんだが…………?』
こんなすごい品が、どうして煉瓦製造施設にあるのか気になるルーベンだった。
ルーベンが陶器に目を奪われている間に、アマンが近づいてきて言った。
「あの陶器が気に入ったのか?」
「はい。ものすごく美しいですね。マヨリカですよね?」
「そうだ。父親に似て賢いな。」
「オウレンセ大聖堂で見たことがあるんです。あ、ひとまずこれを召し上がってください。」
アマンはルーベンが持ってきた料理を確認し、笑いながら言った。
「羊肉のシチューにタラの塩漬けか。どうして俺の好きなものばかり持ってきたのか、まったく。」
「酒場の主人が選んでくれました。まだ温かいうちに早く召し上がってください。」
「ああ、ありがとう。いただくとしよう。」
ルーベンはアマンが食事を終えるのを待ってから尋ねた。
「ところで、あのマヨリカはおじいさんが作ったんですか?」
「そうだ。」
「わあ……煉瓦職人でありながら、陶器職人でもあるんですか?」
これは演技ではなく、心からの感嘆だった。
煉瓦職人と陶器職人は、れっきとした別の職業だった。
一つを極めるだけでも富と名誉がついてくる高度な技術を、両方とも身につけているのだから当然の反応だった。
「いや、私はタイル職人なんだ。」
「あっ!」
アマンの答えを聞き、何がどういうことなのかすぐに理解したルーベンだった。
『タイル職人! だから煉瓦と陶器の両方を作れたのか!』
12世紀から16世紀にかけて、スペインのトレドとバレンシアでは、タイルを建築装飾として使用するムデハル(Mudéjar)建築様式が流行していた。
そのため自然と、煉瓦製造と陶器製造の両方を扱うタイル職人が現れた。
つまり、アマン爺さんは時代が求める万能型人材ということだった。
『こんなとんでもない能力者が、どうして田舎の片隅にいるんだ?』
その理由が気になったが、個人的な質問だったため、ぐっとこらえた。
日本でなら単なるお節介と思われる程度だろうが、ここでは他人の個人事情を根掘り葉掘り尋ねるのは大変な無礼だったからだ。
ルーベンが驚いている間に、ビールで口直しをしたアマンが尋ねた。
「それで、何を頼もうとして料理までご馳走してくれたんだ?」
ルーベンはあらかじめ用意した設計図を渡しながら言った。
「窯を作りたいんです。」
アマンは設計図を詳しく調べてから尋ねた。
「これはどう見ても普通の窯ではないな? 形だけ見れば二重窯のようでもあるが。」
それもそのはず、ルーベンが描いた設計図は、瀝青炭をコークスへ変換する時に使うコークスオーブンだった。
「新しい研究に必要な窯です。高温にも耐えなければならないので、鍛冶場の高炉に使われる煉瓦で作らなければならないのですが……可能でしょうか?」
コークスを作る熱分解工程には1000度から1100度の温度が必要なため、必ず鍛冶場の高炉に使われる煉瓦で作らなければならなかった。
「ふむ……ほかは難しくなさそうだが、ここにある丸い管の先へ繋がっている器のことだ。」
「はい。管とできるだけぴったり合って、なるべく煙が漏れないようにしなければなりません。」
アマンはしばらく考えてから答えた。
「作ることはできるが、長く使っていると隙間ができて煙が漏れるだろう。」
「長くというのは、だいたいどれくらいですか?」
「短ければ6か月? 長くても1年が過ぎれば微細な隙間が生じるだろう。その時になれば補修が必要だ。」
「おお! それくらいなら十分です。」
いくらうまく作っても3か月ほどで壊れると思っていたが、予想より耐用年数が長かった。
『この時代は未開だなんて思っていたのは撤回だ。』
彼が考えていた以上に、この時代の職人たちの腕前は優れているようだった。
「ほかに必要なものはあるか?」
ルーベンは手で形を描きながら言った。
「これくらいの大きさで、先端がワイン瓶のようになっている陶器が十個ほど必要です。」
「それは難しくないな。ほかには。」
「最後に、窯と器を繋ぐ管と、すべての器に塩釉をかけてください。」
この時代のヨーロッパは、東洋に比べて釉薬の製造技術が大きく遅れていた。
しかし不思議なことに、塩釉はドイツで始まり、ヨーロッパだけに広まった独特な釉薬だった。
効果も、耐久性を高めて防水性を持たせるなど、非常に優れていた。
「分かった。代金は1エスクードだけでいい。」
「えっ、それは安すぎるんじゃないですか?」
ルーベンが調べた限りでは、これはほとんど材料費だけで作ってくれるような価格だった。
「職人が1エスクードだけ受け取ると言っているのに、客が何を気にする?」
「それはそうですが…………。」
「煉瓦はすでにあるし、管と接続部分だけ作業すればいいから、遅くとも五日以内には作ってやろう。」
「思ったより早いですね。」
「どうせ注文がなくて、一人であれこれ作りながら遊んでいたところだ。それはそうと、パーティーではよく食べさせてもらった。ありがとう。」
どうやら安い価格は、パーティーへの感謝の印らしかった。
***
ルーベンが注文したコークスオーブンはそれほど大きくなかったため、設置はすぐに終わった。
子どもたちに農園の仕事をさせ、ルーベンはオーブンの周囲で土を掘っていた。
「ふう、体がこれだからか、穴掘りも簡単じゃないな。万が一、窯が崩れても火が燃え広がらないよう、周りをきちんと片づけておかないと。」
設置はアマンじいさんと一緒に行い、試運転まで完璧に終えたため、問題はないはずだった。
しかし念のため、コークスオーブンの半径3メートル以内にある葉や草、枝を取り除いていた。
ところがその瞬間、遠くから切迫した声が聞こえてきた。
「ルーベン!」
声の主はピラオンだった。
「どうした? 誰か怪我でもしたのか?」
ピラオンは息を整えてから答えた。
「いや、そうじゃないんだ。御者のおじさんが来たんだけど、お前を探していて、アンドリューさんが送った荷物だと言えば分かるだろうって。」
待ち望んでいたアランビックが到着したのだった。
「おお、ついに来たか! ピラオン、俺は先に行っている。」
ルーベンはピラオンを残し、走っていった。
家の入口には、大きな荷馬車が見えた。
「こんにちは!」
「ああ、お前がルーベンか?」
「はい。アンドリューおじさんが送ってくださったんですよね?」
「そうだ。まずは品物を確認しなさい。」
ルーベンが箱を確認する様子を、子どもたちが物珍しそうに見つめていた。
「はい、確認しました。」
「署名はできるか?」
「もちろんです。」
「まず、これは瀝青炭と柳の樹皮の契約書だ。」
王や貴族は印章(Seal)を使用したが、平民たちは筆記体で署名した。
問題が生じれば筆記体を照合し、真偽を確かめる方式だった。
ルーベンがペンを受け取り、見事な筆記体で名前を書くと、子どもたちは驚いて互いに囁いた。
「わあ、ルーベン、本当に格好いい。」
「うん、大人みたい。」
驚いたのは、署名を受け取った御者も同じだった。
『貴族でもないのに、どうしてこんなに字が上手いんだ?』
御者は契約書を慎重に懐へしまってから、言葉を続けた。
「次はアランビックだ。」
アランビックという言葉に、ルーベンの手へ力が入った。
非常に高価な品だからか、緩衝材を取り除くだけでもかなりの時間がかかった。
神秘的な輝きを放つアランビックを見たルーベンは、思わず呟いた。
『来たか、俺の専用武器。』




