第5話 誰も気づいていないこと
「事故、ですか」
私は銅貨を数え終えて、木箱に落とした。ちゃりん、と音がした。
行商人は塩袋を担ぎ直しながら、待ってましたとばかりに喋りだした。行商人にとって噂は商品だ。塩より軽くて、塩より高く売れる。
「まず先月、宮廷魔術師が一人、杖を暴発させた。腕を持っていかれたそうだ」
「……そうですか」
「それから灯火塔だ。王都の明かりが、三日に一度ちらつく。魔力の供給が安定せんらしい。夜通し明るいのが自慢の都だったのにな」
私は湯を火にかけた。
「極めつけが御前試合よ。王太子殿下が、剣士相手に杖を構えた瞬間、柄からぽっきりだ。試合は中止。あれは呪いだと騒いでる連中もいる」
「呪い」
「宮廷の魔術師どもも原因がわからんそうだ。あんな偉い連中が揃って首をひねっとるんだから、そりゃ呪いにもなる」
*
湯が沸くまでの間に、私はもう答えを持っていた。
聞いた話は三つ。暴発、供給不安定、破断。バラバラに見えるが、前世の癖で並べれば一列になる。同じ設備、同じ経年、同じ工程の欠落。
——調律だ。
祖父の工房は、王家御用達だった。杖を納めるだけの店ではない。年に二回、王宮に上がって、納めた杖を全部点検していた。
杖は経年で歪む。当たり前だ。木は生きている。乾いて縮み、湿って膨らみ、使えば熱を持ち、持ち主の魔力の癖が通り道を少しずつ削っていく。十年も使えば、内部の魔力路は最初の形を留めていない。
歪みを読んで、削らずに整える。これは作るより難しい。作るのは白紙からの仕事だが、調律は他人の書いた線を直す仕事だからだ。しかも一本ごとに歪み方が違う。図面がない。前例が効かない。
祖父はそれを、四十年やっていた。
そして七年前に死んだ。
継げる者はいなかった。母は嫁いで工房を捨て、私は測定値ゼロの令嬢として王都で古語を暗記していた。
「なあ嬢ちゃん、あんた王都にいたなら、何か知らんか」
行商人が覗き込んでくる。
「杖ってのは、そんなにしょっちゅう壊れるもんかね」
*
貴族たちが、と私は思った。
貴族たちが、悪気なく、そう思っていたのだ。
杖は買うもので、整備するものではない、と。
一度買えば一生ものだ、名工の作なら壊れるはずがない、と。だから祖父が死んだあと、後任を探すという発想が誰の頭にも浮かばなかった。空いた席に気づかなかった。そこに席があることを知らなかった。
七年。年二回。単純計算で十四回ぶんの歪みが、王家の杖に溜まっている。
暴発するし、ちらつくし、折れる。当たり前だ。
私は湯を注いだ。茶葉が開いて、湯気が立った。
「嬢ちゃん?」
「——で、私に何の関係が?」
私は言った。
自分でも驚くほど、静かな声だった。
告発するつもりはない。手紙を書くつもりも、王都へ駆けつけるつもりもない。彼らが困っていることを、私は嬉しいとすら思っていない。
ただ、心が動かない。
十六年ぶん詰め込んだ王太子妃教育も、測定球の前で十一回震えた指も、婚約破棄の夜に三百人が向けた視線も、全部あの都に置いてきた。置いてきたものは、燃えても濡れても、私の荷物ではない。
これは復讐ではない。
ただの、無関心だ。
行商人はぽかんとして、それから声を上げて笑った。
「違いない。ここは辺境だ。灯火塔がちらついたって、うちの村は日が暮れたら寝るだけよ」
「そうですね」
私は茶を差し出した。彼は熱い熱いと言いながら飲んで、大八車を引いて帰っていった。
*
その夜、シリルが来た。
いつも通り、何もせず茶を飲んでいた。私はいつも通り、日没で手を止めていた。
火が小さくなったころ、彼が口を開いた。自分からというのは、珍しい。
「王都に戻る気は」
私は少し考えた。考える必要はなかったのに、なぜか考えた。
この人は、いまどんな顔で聞いているのだろう、と思ったからだ。見ようとして、見られなかった。火の陰になっていた。
「ありません」
沈黙が落ちた。
薪が一本、崩れて火の粉が上がった。
「……よかった」
聞き返す間もなく、彼は湯呑みを置いて立ち上がっていた。
戸口で外套を羽織る背中が、いつもより急いでいるように見えたのは、たぶん気のせいではなかった。




