第3話 無愛想な最初の客
金貨三十枚、と言われてから、十日が過ぎた。
私はまず看板を掛け直した。板は割れていたので、裏返して炭で書いた。「グレイシア工房 営業中 日没まで」。最後の四文字が重要である。
それから木を削った。三日に一本の速さで、三本。倉庫の材を甲乙丙に分ける作業も並行して進めた。前世で言えば受入検査だ。分けているうちに気づいたが、丙の棚——つまり使いものにならない材の位置が、祖父の札の並びと完全に一致していた。
「……全部わかってて、置いてたのか」
七年前に死んだ人間と、静かに答え合わせをしているような気分だった。
*
戸が鳴ったのは、その日の午後だった。
三回。等間隔。返事を待つ間が長い。
「はい、開いてます」
入ってきたのは、黒い。
それが第一印象だった。黒衣、黒髪、逆光。背が高すぎて、鴨居に頭をぶつけそうになって、ぶつけなかった。目つきが悪い。悪いというより、感情の置き場所がないという顔だ。
男は無言で工房を見回した。私も無言で見返した。沈黙が三十秒ほど続いた。
「……あの、ご用件は」
男は答えず、壁の棚に歩み寄った。
そこには、この十日で削った三本を立ててある。売り物にする気はない。詰まり方の傾向を比べるための、いわば標本だ。
男は真ん中の一本を取った。
握って、しばらく黙る。目を閉じる。指を柄に沿って動かす。手つきに無駄がなかった。この人は杖を「見る」のではなく「確かめる」ことを知っている、と思った。
一分ほどして、彼は目を開けた。
「——国宝級だ。誰が削った」
低い声だった。感想というより、検査報告の読み上げに近い。
「私ですけど」
「そうか」
それだけだった。彼は棚に向き直り、残り二本も同じように確かめて、それから懐に手を入れた。
「全部買う」
「え」
「倉庫の分も含めて。値は言い値でいい」
「待って待って待ってください」
*
そこから三十分、押し問答が続いた。
「在庫を全部売ったら、私、明日から何を売るんですか」
「作ればいい」
「作るのに三日かかるんです」
「三日待つ」
「そういう問題じゃなくて!」
彼は本気で不思議そうな顔をした。困っている、という感情がかろうじて読み取れる程度の微動だったが、たぶん本人としては相当に困惑していた。
結局、二本だけ売ることで話がついた。彼は金貨の袋を作業台に置いた。中を見て、私は袋を押し返した。
「多すぎます。銀貨二十枚で結構です」
男の手が、止まった。
「なぜ」
「原価と、手間と、私の食い扶持です。それ以上取る理由がありません」
「村の狩人は、一本三十枚と言ったはずだ」
知っている口ぶりだった。あの火柱の話は、この十日で辺境中に流れているらしい。
「言われました。でも、私はその値をつけた覚えがないので」
男はしばらく私を見た。それから、袋から金貨を数えはじめた。二十枚数えて、押し戻してきた。
「これで買う」
「だから多いと」
「安く買えば、次の一本が安くなる」彼は言った。「君が自分の値を知らないうちに、誰かが決める。私はその誰かになりたくない」
私は口を開けたまま、金貨の山を見た。
値付けの話をされたのは、生まれて初めてだった。前世でも、この世界でも。
「……前金として、預かります。二本ぶんの残りは、次に作った杖で」
「好きにしろ」
彼は素直に頷いた。この人は、押し切らない。押し切れる立場にいるのに。
「……名は」
「リリアーナです。リリアーナ・グレイシア——いえ、リリアーナで」
「シリル・ヴァレンティン」
村で聞いた名前だった。この辺境一帯を治める辺境伯。魔獣を素手で殴るとか、笑ったところを誰も見たことがないとか、そういう話ばかりが流れてくる人。通称、氷の辺境伯。
なるほど氷だ、と思った。
*
彼は帰らなかった。
土間の隅に置いてあった椅子——というか木箱に腰かけ、私が作業台に戻るのを黙って見ていた。見られながら削るのは初めてで、最初は手元が狂った。
日が落ちた。私はランプに火を入れた。今日中に握りの重心だけは出しておきたかったからだ。
芯を伸ばそうとしたとき、横から手が伸びて、ランプの芯を絞った。
明かりが半分になる。
「あの」
「君の手は消耗品じゃない。明日でいい」
甘い言葉ではなかった。声に温度がない。事実を読み上げただけ、という調子。倉庫の材を甲乙丙に分けるときの、私の口調に近かった。
だから、余計にまずかった。
前世で、誰も言わなかった言葉だ。
もう帰れ、と言ってくれる人がいなかった。今日はここまでだ、と決めてくれる人がいなかった。だから私は自分で決められなくなって、駅のホームで膝から折れた。
視界がにじんだ。私は慌てて木くずを払うふりをして、袖で目をこすった。
シリル・ヴァレンティンは何も言わなかった。何も聞かなかった。ただ、絞った芯をそれ以上いじらず、湯の沸いた鍋を火から下ろしてくれた。
*
「では」
彼が立ち上がったのは、完全に暗くなってからだった。
見送りに出た戸口で、私は初めて、彼の腰に提げられたものに気づいた。
古い杖だった。
木肌が飴色になるほど使い込まれ、握りの部分だけ手の脂で黒く光っている。作りは素朴——いや、素朴を通り越して、稚拙だ。全体が微妙に歪んでいる。握りが小さい。彼の手には明らかに合っていない。
辺境伯が持つようなものではない。買えばいくらでもいいものがあるはずだ。
なのに。
胸の奥が、ざわりとした。
見たことがある、という感覚ではない。もっと近い。もっと悪い。触ったことがある、という手のひらの記憶。
「それ——」
「またくる」
彼は振り返らずにそう言って、闇の中へ歩いていった。
私は戸口に立ったまま、自分の右手を、意味もなくじっと見ていた。




