第2話 削り出しの朝
工房の扉は、三回体当たりして開いた。
蜘蛛の巣が顔にかかる。埃が舞い上がって、朝日の筋の中でぐるぐる回っている。七年放置された建物というのは、想像していたより静かで、想像していたよりずっと汚い。
私は袖をまくった。
「——現場改善、始めます」
*
まず井戸だった。滑車の縄が腐っていたので、荷物の革帯で代用した。水は澄んでいて、思ったより冷たい。
次に床。箒がなかったので、裏に生えていた枝を束ねて縛った。掃きながら気づいたが、床板の一枚だけ妙に新しい。祖父が晩年に直したのだろう。七年経ってもそこだけ軋まない。
「……仕事、丁寧だな」
昼までに、作業場と土間と寝床の三箇所だけ人間の住める状態にした。残りは諦めた。前世で学んだことがあるとすれば、初日に全部やろうとする奴から潰れるということだ。
食事は村で買ったパンと干し肉。かたい。かたいが、誰にも急かされずに食べる飯というものを、私は生まれて初めて食べた気がした。パンをかじりながら、涙が出そうになって、慌てて水を飲んだ。
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午後、倉庫を開けた。
木材が、天井まで積んである。
祖父が死ぬ前に仕込んだものだろう。棚には札が下がっていて、年と産地と樹種が几帳面な字で書いてある。七年分、丸ごと寝かされた材料。
私は何気なく、一番手前の一本に手を伸ばした。
*
——通った。
指先から入って、腕を抜けて、背中から出ていった。
いや、正確には「出ていけなかった」。木の中ほど、節のすぐ下あたりで、流れが渋滞している。堰き止められて、渦を巻いて、じわりと横へ滲んでいく。
私は木を落とした。がらん、と乾いた音がした。
手が震えている。恐怖ではない。もっとよく知っている感覚。前世で、不良の原因が図面の一点に絞れた瞬間の、あの背筋の冷え方だった。
もう一本。今度は流れが真っ直ぐ通って、抜けた。三本目は入り口から漏れる。四本目は途中で二股に割れる。
見える。
見えるというより、測れる。
数値ではない。だが私の身体を通過した魔力が、どこで詰まり、どこで漏れ、どこで淀んだか、通り道の形がそっくりそのまま残る。人が杖を握るとき、魔力は本人の体内に溜まっているぶんに阻まれて、杖の中身までは感じ取れない。
私は溜まらない。だから通り道だけが、まるごと残る。
「……じいさま」
私は、七年前に死んだ老人の言葉を、七年遅れで理解した。
*
それから三日、私は倉庫にこもって全部の木に触った。
触りながら、帳面をつけた。前世の癖だった。産地、年、節の位置、詰まりの深さ。書いているうちに、当たり前の相関が見えてくる。
乾燥が足りない材は、必ずどこかで滲む。水気が残っているところで魔力が横に逃げる。逆に乾かしすぎた材は脆くて、流れが強すぎたときに内側から裂ける痕がある。
節は避けるものではなく、避け方が決まっている。節の真上を通せば詰まる。だが節の脇を三分ずらして通せば、木目がそこで一度締まって、流れが揃う。
前世の言葉で言えば公差だ。ロット差だ。非破壊検査だ。
職人の勘と呼ばれていたものに、こちら側から名前がついていく感覚があった。
「——なるほどね」
私は木を一本選んだ。八年前の秋伐り、節が二つ、乾き具合が理想的な一本。
*
削るのは、初めてではなかった。
八歳のとき、祖父の工房で一度だけ握らせてもらった小刀の重さを、手が覚えていた。だがそのときの結果を思い出しかけて、私は慌てて記憶に蓋をした。あれは、失敗作だ。裏の薪山に捨てた。
今日のこれは、違う。
削り始めて、すぐにわかった。刃を入れるたび、木の中の通り道が変わる。細くすれば締まり、太くすれば緩む。握りの位置を一分ずらすだけで、手のひらから入る流れの角度が変わる。
私は削っては握り、握っては削った。日が落ちて、ランプの油が尽きて、仕方なく寝た。翌日も同じことをした。その翌日も。
三日目の夕方、最後の一削りを終えて、私は杖を握った。
流れが、頭から爪先まで、一度も引っかからずに抜けた。
抜けた先が、ない。私の身体は空っぽで、魔力は全部通り過ぎていく。だからこの杖が本当はどれだけの力を出すのか、私にはわからない。
「……誰か、撃ってくれる人がいるな」
*
村の狩人はガレンという名の中年男で、私が持ち込んだ杖を胡散臭そうに眺めた。
「嬢ちゃん、あんた本当にあの爺さんの孫か」
「たぶん。撃ってみてもらえます? 空に向かって、いつもの火で」
「壊れても知らんぞ」
ガレンは肩をすくめて、村外れの空き地に立った。杖を構え、短く詠唱する。彼の普段の火の魔法は、松明を灯すのに使う程度のものだと聞いていた。
——空が、明るくなった。
火柱が三十尺ほど立ち上がって、夕暮れの雲を下から赤く照らした。熱風が私の前髪を持ち上げる。烏が一斉に飛び立った。
ガレンは杖を取り落として、そのまま尻もちをついた。
「え」
「……えっ」
私たちはしばらく、燃えかすが落ちてくるのを二人で眺めていた。
「あの、いつもの三割増くらいですか」
「三割!?」ガレンが裏返った声を出した。「わし、いま人生でいちばんでかい火を出したんだが!?」
*
村に戻ると、人が集まっていた。空が光ったのだから当然だ。
ガレンは杖を両手で捧げ持ったまま、まだ座り込んでいる。
「嬢ちゃん」
「はい」
「これ……いくらで売るつもりだ?」
私は指を折って計算した。木は倉庫にあったから原価はかからない。触媒の油は村で買った銅貨数枚ぶん。手間は三日。
「原価と手間賃で、銀貨三枚くらい?」
村中が、静まりかえった。
ガレンが、ゆっくりと顔を上げた。
「馬鹿言え。金貨三十枚の代物だぞ」




