第1話 「魔力ゼロの令嬢など要らぬ」
「——では、慰謝料は結構ですので、貴族籍を返上させていただいても?」
私がそう言った瞬間、大広間から音が消えた。
楽団の弦が途中で止まり、給仕の銀盆が震え、三百人の貴族が同じ顔で私を見ている。シャンデリアの蝋が一滴、床に落ちた音まで聞こえた気がした。
順を追って説明する。三十秒前まで、私はこの国でいちばん惨めな女だった。
*
建国祭の夜会。王太子ジェラルド・ヴィス・アルデリアは、乾杯の音頭の代わりに私の名を呼んだ。
「グレイシア伯爵令嬢リリアーナ。——貴様との婚約を、本日をもって破棄する」
理由は最初から知っていた。三日前の魔力測定で、私の値が今年もゼロだったからだ。六つの年から毎年一度、これで十一回連続。
測定球は、体内に留まった魔力の量を測る道具だ。私の手のひらの上で、それは一度も光ったことがない。係官はもう驚きもしなかった。
「王家の血に、魔力を持たぬ者を混ぜるわけにはいかぬ。国のためだ、わかるな」
わかる。わかりすぎるほどわかる。
十六年間、私はそのために生きてきた。魔力が出ないなら知識で補えと言われて古語と外交儀礼と七か国語を詰め込み、王太子妃教育に一日十時間を捧げ、指が痺れるまでペンを握った。誰にも褒められなかった。当たり前のことをしているだけだ、と言われた。
視界の端が滲む。私は俯いた。
——そのとき、頭の中で、何かがぱちんと鳴った。
*
蛍光灯。
灰色の天井。品質管理課、と書かれたプレート。積み上がった検査記録。「悪いけど今日中に」と言って去っていく背中。月の残業が百時間を超えた朝、駅のホームで膝が折れて、そのまま真っ白な天井を見上げていた記憶。
そうだ。私は一度、死んでいる。
工具メーカーの品質管理課で、公差を測り、ロットを追い、非破壊検査の数値と睨み合って、誰にも「もう帰れ」と言われないまま、燃え尽きた人間だった。
前世の記憶が、十六年分の重さと一緒に、静かに肩に乗った。
そして私は顔を上げた。
*
「——では、慰謝料は結構ですので、貴族籍を返上させていただいても?」
ジェラルド殿下の眉が、ゆっくりと吊り上がる。
「……なんだと」
「王家に不要な血であるなら、伯爵家にもさして必要ではないかと。名誉の回復も、婚約の代償も求めません。ただ、籍を抜いていただければ」
会場のどこかで、扇の落ちる音がした。
殿下は笑った。あの、勝ち誇るときの笑い方だ。
「強がりか。哀れだな。平民に落ちれば、貴様に残るものなど何もないぞ」
はい、と私は頷いた。心の底からの同意だった。
何もない。婚約者も、称号も、社交界の椅子も、私を評価する人間も、明日の予定も、来年の予定も、五年先の義務も、全部ない。
(——これ、定時で帰れるやつでは?)
私は淑女の礼をした。たぶん、この十六年でいちばん綺麗にできた。
「陛下、殿下。長らくのご厚情に感謝申し上げます」
顔を上げないまま退出したので、殿下がどんな表情をしていたかは知らない。知る必要もなかった。
廊下に出た瞬間、私は靴を脱いで小脇に抱え、石畳を裸足で走った。冷たくて、痛くて、笑いが止まらなかった。
*
実家での話し合いは、思っていたより短く済んだ。
父は「一族の恥だ」と言い、母は最後まで顔を見せなかった。手続きの書類は驚くほどあっさり整った。厄介払いに反対する者がいなかったからだ。
翌朝、荷馬車に積めたのは着替えと外套と、書き潰した帳面が数冊。それだけ。
御者が鞭を鳴らす。王都の白い壁が、朝もやの中でゆっくり遠ざかっていく。
膝の上に、鉄の鍵がひとつ。
母方の祖父が遺した、辺境の杖工房の鍵だった。相続人が誰もいなかったので、書類上、私のものになったまま七年放置されている。錆びていて、持つと手のひらに赤い粉がついた。
祖父のことを、私はほとんど覚えていない。ただ一度だけ、五つか六つの頃に工房へ連れていかれた日のことは、なぜか鮮明だった。
木の匂いと、削りかけの杖と、削り屑の山。祖父は棚から一本を取って、私の手に握らせた。
——その瞬間の感覚を、どう説明すればいいだろう。
温い水が、指先から腕を通って、肩を抜けて、背中から出ていくような感じ。留まらない。溜まらない。ただ通り過ぎていく。途中でどこかが細くなっていて、そこだけ流れが渋滞していることまで、はっきりわかった。
「じいさま、ここ、詰まってる」
私がそう言ったとき、祖父は長いこと黙っていた。
それから、皺だらけの手で私の頭を撫でて、こう言ったのだ。
「リリー。お前は魔力が空っぽなんじゃない。通り抜けるんだ」
「とおりぬける?」
「魔力を溜められる奴には、杖の中身が見えん。溜まった自分の魔力が邪魔をするからな。——魔力が通り抜けるお前は、いつか杖の声が聞ける」
意味がわからなくて、私は笑って聞き流した。祖父が死んだのは、私が九つの年だった。
*
荷馬車が丘を越える。
私は鍵を握りしめて、自分の手のひらをじっと見た。ペンだこと、インクの染みと、十六年ぶんの何かが残っている手。
魔力測定値、ゼロ。国が定めた、最底辺の欠陥。
その手のひらが、いま、かすかに疼いている。
「……杖の声、ですか」
聞いてみようじゃないか、と思った。
どうせ私には、もう何の予定もないのだから。




