ボーナスは出るそうですが、調査だけだそうです
社会貢献研究所の応接室は、朝から空調が効きすぎていた。
相馬はソファに沈んだまま、天井の染みを見ていた。動物園の夜からまだ半日も経っていない。
「なんだったんだ、あいつら」
言ったのは相馬だが、答えを持っている者はいなかった。三対三で、こちらの攻撃は一つも当たらなかった。相手は涼しい顔で去っていった。報告書に書いたのは一行だけだ。巡回中に異常あり。それで通ってしまったのが、いちばん引っかかる。
凛がポケットからパチンコ玉を出し、指の腹で鳴らした。
「ジジイに聞けばわかる。あいついっつもこんな場面にぶっこむよな」
「凛。気持ちは分かるけど、博士のことジジイ言い過ぎ……」
ユキが小声で言った。凛は聞いていない。
奥の扉が開いて、白衣がカップ麺を片手に入ってきた。噂のジジイである。
「怪しい気配があったのは事実だが」博士は椅子に腰を下ろした。「狼男や妖怪少女……かどうかは分からんが、そっちの話は想定外ではあったな。心当たりがないわけでもないが」
「なんですかそれは?」
相馬が身を起こす。博士は割り箸を割った。
「憶測で話すわけにもいかぬ。時期が来たら説明する。菓子でも食え」
机の上の箱が押し出されてくる。ユキは蓋を開け、個包装のバウムクーヘンを一つ取り、それからもう一つ取った。ためらいはどこにもなかった。相馬は箱を見て、それから博士を見た。話はまだ何も終わっていないのだが、片方は麺をすすり、片方はバウムクーヘンを開封している。この研究所に緊張感を求めるほうが間違っている。
「怪異的なものと出くわすのは初めてだったけどさ」凛が玉を親指で弾いた。「そっちの仕事って別の管轄じゃなかったの?」
「正規のチームは制約もある。曖昧な案件ならこちらが早いのだろう」
「じゃあこっちは非正規ってこと?」
「いやいや。お前らは特別枠だ。ボーナスも出せる」
「おっ」
凛の背筋が伸びた。相馬も座り直した。
「我々は正義の為に動くのです博士……で、いくら?」
「『我々』とかそんな言葉遣い、したことないよね相馬」
博士は答えず、封筒から紙を抜いて机に置いた。地図と、写真。森林公園の脇に建つ二階建てのアパートで、外壁の塗装は剥げ、階段の下に自転車が三台並んでいる。
「昨夜だ。住人が一人残らずいなくなった。九世帯、十四人。荷物はそのまま、鍵もかかったままだ」
「一夜にして……」
ユキが写真に顔を近づけた。窓はどれも閉まっている。洗濯物が干したままの部屋もあれば、玄関に買い物袋が置かれたままの部屋もある。人が出ていった家には、見えなかった。
「警察は事件と家出の両方で動いておる。お前らは別の線を見てこい」
相馬は紙を受け取った。凛が横から覗き込み、それから顔を上げた。
「ホントに今回は調査だけですよね。ジ・」
「ジ?」
「時間はいつでしょう。博士」
「バカなの?」
ユキが言った。
◇
軽トラックは森林公園の駐車場に置いた。アパートまでは林沿いに二百メートルほどある。道の片側はずっと雑木林で、朝の光が葉の裏まで届いていない。
「一夜にして失踪って、絶対ヤバいやつじゃん」
凛が指の腹でパチンコ玉を鳴らした。
「で、いつものパターンだと大怪物のご登場……と」
「凛さあ。それ言うと来るからやめて」
「フラグって言うんだっけ、こういうの」
「回収されるからやめてって言ってるの」
規制線はもう外されていた。外階段の下に自転車が三台、写真のとおりに並んでいる。前籠にビニール傘が一本。相馬は一階の玄関を順に見て回った。表札は出ている。新聞受けから朝刊がはみ出している。どの扉にも鍵はかかっていて、警察の貼り紙だけが新しかった。
「そもそもここで何を調べるの?」
ユキが階段の手すりに手を置いた。
「細かいところは警察がやるだろうし。まぁここはユキさん案件だよな」
「雑」
「雑でいいんだ。お前が何も感じないなら空振りってことだからな」
凛は自転車の錠を指で弾いていた。
「なんもねえよ。生活の匂いしかしねえ」
相馬は駐輪場の奥まで歩いて、敷地の端のブロック塀を見上げた。塀の向こうはもう公園の林だ。枝が何本も塀を越えて、二階の樋に触れている。管理会社が枝を切っていないだけの話にも、見えた。
ユキは二階へ上がった。廊下は北向きで、日が回ってこない。並んだ扉の前を一つずつ通り過ぎる。二〇二の前には子供の靴が揃えて置いてあった。小さいほうが、外を向いている。
三つ目の扉で、足が止まった。
壁の下端に沿って、細い草が敷居の隙間から出ていた。屋内から、外へ向かって伸びている。ユキはしゃがんで見た。それだけだ。それだけの、はずだった。
「ん。ちょっとまって」
廊下の先に、人が立っていた。
突き当たりの、光の届かないほうだ。背は自分と変わらない。この建物でただ一つ、乱れたところがない。動物園の夜と同じ立ち方のまま、少女はユキを見ていた。
「アヤ?」
声が出てから、また首を振った。
「いや、やはり違う」
少女は答えなかった。半歩下がって、突き当たりの窓の縁に手を掛ける。窓は開いていない。それでも次の一秒には、廊下には誰もいなくなっていた。
ユキはその場所を見ていた。少女が調べに来ただけなのか、こちらを誘ったのかは分からない。ただ、通ったあとのようなものが空気に薄く残っている。下で相馬が何か言っている。凛は自転車から離れていない。二人には何も起きていない。ユキだけが、それをまだ指の先で追えた。
「行こう」
階段を駆け下りてきたユキに、相馬が顔を上げた。
「は?」
「どこによ」
ユキは答えずに、林のほうへ走り出した。相馬と凛は顔を見合わせて、それから走った。




