僕になった覚えはありませんが、同僚が増えました
――時は、彼らと出会う少し前まで戻る。
少女は夜の道を先に立って歩いた。行き先は動物園だという。何をしに行くとは言わない。付いていく理由もない。
ないのに、影の足は動いていた。本人ももう、何も言わないことにしたらしい。
門をくぐる前から、それは分かった。
霧だ。だが水ではない。念である。千年のあいだ一度も舐めたことのない種類で、味のする場所がひとつもない。優しさも純粋さも入っていない。恨みを煮詰めて、煮詰めたものをまた煮詰めてある。念の味を千年より分けてきた舌が断言できる。あれは食い物ではない。産業廃棄物である。
その霧に、顔があった。数えきれない顔が、こちらではない一点だけを向いている。
視線の先で、檻がひとつ壊れていた。
中から出てきたのは小さな獣だ。狐ほどしかない。……と思ったら、走るうちに丈が増した。肩が張り、背が伸び、地を叩く音が重くなる。園灯の下に立ったときには、影の背丈を越えていた。
獣は霧の前に出た。逃げるためではない。回り込むためでもない。
ただ、立った。
霧が押し寄せる。獣は腕を上げて受けた。展示の岩が巻き込まれて砕け、鉄柵が根元からねじれて折れる。獣は一歩も下がらない。下がったら後ろの何かが潰れる、という顔をしている。
後ろには、誰もいないのだが。
「あなた」少女が言った。「あれを裂きなさい」
命じ慣れた声だった。そして影の体は、命じられ慣れていないはずなのに動いた。本人の弁を借りれば、本日二度目の「解せぬ」である。
爪を伸ばし、跳んで、横薙ぎに裂く。
手応えがない。裂けた端から霧は閉じた。もう一度裂いた。同じだ。三度目、顔のひとつが口を開けて――影の名を、呼ぼうとした。
呼べなかった。
呼べる名が、もうどこにもなかったからだ。
「……爪は効かんな」
「爪では駄目よ」少女は驚いていなかった。「数になりなさい」
「……何」
「多数の蝙蝠となって、霧の前でかく乱しなさい」
考えるより先に、体が割れた。
黒い翼が百に分かれ、千に分かれ、夜の全方位から霧を突く。顔が追ってくる。追いきれずに散る。ひとつが二つを追い、二つが四つを追い、霧は自分の形を保てなくなった。獣が低く唸って、その裂け目に肩から突っ込む。
少女が、手をかざした。
それだけだった。
霧は飛び散り、砕け、園灯の光の中で薄くなって消えた。顔はひとつも残らなかった。
……影が千年逃げ続けたものを、片手で、である。
獣が人の姿に戻った。裸の肩から湯気が立っている。男は舌打ちをした。
「……礼は言わねえぞ」
「要らないわ」少女は男を見上げた。「私はリラ。王の名のもとに汝に命じる。僕となり我に仕えよ」
影に言ったのと一字も違わなかった。定型文である。
「断る」
奇遇である。影も、同じ答えだった。
「あれはまた来るわよ」
男の口が止まった。
「何百年逃げたの。何回逃げ切れた」
男は答えなかった。答えないという答えだった。
「私は消せる。あなたは消せない」
風が土の匂いを運んでくる。園のどこかで象が寝返りを打った。この騒ぎの間、獣も鳥も一声も上げていない。賢明である。
「……面倒事はごめんだ」男が言った。「言っとくがな」
「聞いておくわ」
男は言い返す言葉を探して、見つからずに首の後ろを掻いた。既視感のある敗北だった。こうして、僕その二が生まれた。
「おい嬢ちゃん」
「王女と呼びなさい」
「あなた」少女が二人を等分に見て言った。「呼び名は」
「無い。とうに落とした」
「では、怪。……カイね」
好きにしろ――そう言いかけて、影は口を閉じた。
カイ。
……悪くない音だった。千年ぶりの新品である。
こうして影は、カイになった。
ちなみに獣の男は「童子のようだから、ドウジ」と命名された。本人は「安直すぎるだろ」と抗議していたが、名無し歴数百年の身に、ネーミングセンスを語る資格はない。二人は黙って拝命した。




