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腕はもう戻りませんが、上等です

風が変わった。

 外へ吹いていた風が、上へ吸われ始めた。柱の周りの空気が回った。回りは空へ伝わって、円盤の縁の緑が濃くなった。

 緑が、浮いた。

 区域の葉が枝ごと千切れて昇った。庭の緑が剥がれて昇った。蔓が電線を離れて昇った。昇ったものは空で輪になり、輪は太くなって、渦になった。

 渦は、円盤の下で竜巻になった。

 竜巻の裾が広がった。裾の触れた家の屋根が緑に変わった。壁が変わった。道が変わった。変わりながら、建物の角が崩れた。崩れた欠片も、緑のまま昇っていった。

 裾は、封鎖線を越えた。

 線の外の街へ、緑が広がり始めた。

 線の外の通りに、人がいた。

「凛! 右の路地、まだ残ってる!」

「聞こえてる!」

 地面が割れて甲羅が並んだ。甲羅は路地の口から大通りまで、壁になって続いた。壁の内側を、人が走った。

「カイ! 二階!」

 蝙蝠が散った。窓から老人が抱え出された。屋根の上を黒い翼が低く運んだ。壁の内側に、下ろした。

 ドウジが竜巻の側に立った。裾から飛んだ瓦礫を胸で受けた。受けて、逸らした。逸れた先に、人はいなかった。

「相馬! 橋!」

「やってる!」

 相馬が歩道橋の脚に触れた。腕が光った。脚が曲がって、橋ごと低くなった。階段が斜路になった。車椅子が、下りた。

 緑の稲妻が走った。

 柱の背後からだった。白い光の芯を緑が包んで、大通りへ落ちた。落ちる先で、リラが指を立てた。稲妻が空中で潰れた。散った緑が、雨になって落ちた。

「次、来るわよ」

「分かってる!」

 バスが、残っていた。

 裾の進む先の停留所に、乗ったままのバスが一台。運転手が扉を叩いていた。開かなくなっていた。

 相馬が走った。走りながらガードレールに触れた。レールが起きて、裾との間に壁になった。腕の光が強くなった。バスに着いた。車体に、両手を突いた。

 光が、白くなった。

 バスの形が解けた。車体が開いて、床が下がり、乗降口が三つに増えた。人が流れ出た。最後の一人が出たところで、相馬の腕から光が抜けた。

 抜けたきり、戻らなかった。

 相馬が袖をめくった。手首から肘まで、葉脈のような跡が焼きついていた。緑ではなかった。焦げた色だった。指は動いた。握れた。

「これ、もう戻んねえやつだ」

 相馬は次の車に触れた。車は変わった。変わり方が、遅かった。屋根が肩になるまで、前の倍かかった。

 飛行機を丸ごと変えた腕は、もうどこにもなかった。

「……上等だ」

 相馬は、走った。

 竜巻が太くなった。

 裾の緑は三つ目の通りに入っていた。甲羅の壁が押されて軋んだ。稲妻の間隔が詰まった。リラが二つ潰して、三つ目が甲羅に落ちた。甲羅の一枚が、割れた。

 ユキが空を見た。

 口が動いた。声は小さくて、風に消えた。

 空は緑の渦のままだった。渦の向こうに、青は見えなかった。

 ユキは両手を開いた。膜が出た。膜は広がって、割れた甲羅の口を塞いだ。塞いだ膜の内側を、子どもを抱えた女が走り抜けた。

 カイが一度、柱へ向かった。

 黒い翼が低く滑って、枝で編まれた形に爪を立てた。爪は届く手前で弾かれた。音はなかった。弾かれた分だけ空へ流されて、カイは体勢を戻した。戻して、柱には向かわなかった。屋根の上の取り残しを、拾いに散った。

 リラが、足を止めた。

 大通りの真ん中だった。稲妻の落ちない一拍の間に、山の方を向いた。街の屋根の連なりの先に、稜線が霞んでいた。

「今よ。フラン」

 それだけ言った。

 風が、遠くから来た。

 竜巻の風ではなかった。山の方から街を渡ってきた風だった。乾いて、土の匂いがした。

 稜線の上に、色が差した。

 土の色だった。

 土の色が、金の色に変わった。

 金は稜線の一点から膨らんだ。膨らみの中心が持ち上がった。首だった。蛇の首の形が伸びて、伸びながら顎が張り、角が出て、龍の頭になった。頭の後ろから胴が紐のように続いた。胴は、山を離れた。

 龍が、昇った。

 金の胴が空へ立ち、立ちながら回った。回りは速くなった。街の上の緑の渦と、山の上の金の柱。二つが、同じ空に立った。

「……なにあれ」

「知らね」

 甲羅の内側で、誰かが空を撮っていた。世界の危機であっても、人は撮る。

 リラの髪が、浮いた。

 リラから光が立った。細い光だった。白に近い色で、まっすぐ昇り、高いところで曲がって、山の方へ流れ、金の胴に触れて、触れたところから龍の回転に呑まれていった。

 注ぎながら、リラは思い出しかけていた。

 用水路で、足が止まった理由。

 足場の下へ、考えるより先に膝が折れた理由。

 鏡は、映すだけのはずだった。

 映すだけのものが、いま、選んで、注いでいる。

 街の音が遠くなった。

 柱と、リラ。

 枝で編まれた形と、立ったままの形が、同じ姿勢で二つの回転を支えていた。

 龍の中心から、逆向きの渦が生まれた。

 金の渦は龍の胴を軸に回り、緑の渦と向かい合った。二つの回転の間の空気が鳴り始めた。鳴りは高くなり、高くなり、耳の届く音を、越えた。

 音が、消えた。

 緑の渦の回りが鈍った。金の渦の回りも鈍った。二つは同じだけ遅くなり、同じだけ細くなり、互いの縁が、触れた。

 触れたところから、両方が解けた。

 緑は葉に戻って落ち始めた。金は光の粒になって散った。竜巻の裾が持ち上がり、円盤の縁の光が消えた。空の輪郭そのものが薄れて、見えなくなった。龍の頭が稜線の向こうへ沈んだ。金の色が薄れて、山は、山の色に戻った。

 葉が、降った。

 街中に、雨のように降った。降る音だけが、しばらく続いた。

 柱が、解けた。

 枝がほどけて、中から少年の形が戻った。少年は立っていられなかった。片膝を、突いた。

 リラの光も消えた。リラが片膝を突いた。ユキが駆け寄って、手前で止まった。

 ドウジが山の方を見た。稜線には、もう何もなかった。

 葉が降りやんだ。少年は片膝のまま、動かなかった。


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