懐かしい場所だそうですが、覚えていません
朝、博士が地図を机に広げていた。
封鎖区域の線が、赤い鉛筆で引き直されていた。古い線の外に、新しい線。二本の線の間は、指二本分あった。
「一晩でこれだ」
「一晩?」
「観測班からもう一つ。区域の中の振動が、揃い始めておる」
「揃うと、どうなるんです」
博士は鉛筆を置いた。置いた音が机に残った。
「分からん。だが、揃える側には、揃える理由があるはずだ」
リラが地図の上に手を伸ばした。新しい線の内側、給水所の印の上で指を止めた。
「ここね」
「書いてないぞ、そんなこと」
「書いてないわ」
根拠なき断言、本日も平常運転である。ただし今日は、誰も軽口を続けなかった。
「一つ、言っておくわ」
リラが地図から顔を上げた。
「山の円盤は、土地の下の筋から力を汲む。フランが、ずっと汲み続けている」
「汲んで、どうすんだよ」
「形にするのよ。……引き金は、私」
相馬が上着を取った。袖に腕を通したとき、手首の上が薄く光った。緑だった。光は袖の中に隠れた。博士がそれを見ていた。何も、言わなかった。
◇
封鎖線の柵は破れたままになっていた。直す者がいなくなって久しい、破れ方だった。
中は、緑だった。
道路の舗装を緑が覆い、建物の壁を這い上がっていた。電線に蔓が巻きついて、間隔を揃えて垂れていた。人の形をしたものが、庭先に立っていた。三人。動かなかった。顔は、道の方を向いていた。
風はなかった。それでも、葉が揺れていた。
一枚だけではなかった。区域中の葉が、同じ拍で揺れていた。寄って、離れた。寄って、離れた。
「揃ってやがる」
ドウジが言った。カイが空へ上がった。カラスが屋根の高さを回って、先へ流れた。
◇
テントの白が、残っていた。
布は破れて骨組みに絡んでいた。長机が倒れて、脚が空を向いていた。掲示板は立ったままだった。張り紙は色が抜けて、字は読めなくなっていた。
貯水タンクが二基、台の上に並んでいた。
片方のタンクの上に、少年が腰かけていた。
「やあ」
足を、ぶらぶらさせていた。
「早かったね。もう少しかかると思ってた」
六人が扇に広がった。相馬が正面に立った。ドウジが右へ。カイが左の屋根に降りた。凛が斜め後ろで指を組んだ。地面の下で、何かが太く動いた。
「懐かしいでしょ、この辺り。……ああ、きみたちは覚えてないんだった」
少年は笑った。タンクを踵で軽く蹴った。空の音がした。
◇
ユキが一歩前に出た。
掌を上に向けて、両手を開いた。息を、長く吐いた。
縞が出た。
地面の緑の上を、細かい縞が端から端まで走った。葉の一枚一枚に沿って走った。少年の袖の内側から首の縁まで、同じ縞が浮いた。縞は少年の頭の上へ抜けて、空へ昇っていった。
区域中の縞が、空の一点へ集まっていった。
集まった先で、線になった。線は弧を描いた。弧は閉じて、輪郭になった。
街の上に、もう一つの円盤があった。
縁だけが縞で描かれて、中は空の色のままだった。大きさは街の一区画を覆っていた。ずっとそこに、あった形だった。
「……いる。あそこ」
ユキが言った。六人の顔が上を向いた。
少年がタンクの上で拍手をしかけて、やめた。足の揺れが、止まっていた。
◇
カイが屋根を蹴った。
蝙蝠が散って少年を囲んだ。ドウジが台の下に入って、支柱を掴んだ。凛の怪獣が地面を割って出た。甲羅が給水所の外周を囲った。相馬が倒れた長机に触れた。机が起きて、壁になって前へ出た。
少年が腕を振った。枝が伸びた。机の壁に刺さって止まった。刺さった枝を、リラが潰した。
「はいはい」
少年がタンクから飛び降りた。着地は軽かった。下がりながら、喋った。
「順番にやるんだね。相変わらず丁寧でいいと思う」
下がった先に、もう一基のタンクがあった。
タンクの側面が、裂けていた。裂け目の中は水ではなかった。緑の繭のようなものが詰まっていた。繭は低く唸っていた。区域の葉と同じ拍で、表面が寄って、離れていた。
◇
少年が繭を背にして立った。
空を見た。円盤の輪郭は動かなかった。降りてこなかった。光も、出さなかった。
少年は空を見るのをやめた。
「……薄情だなあ」
六人の輪が狭まった。カイの蝙蝠が頭上を回った。リラが正面から歩いた。歩幅は、変わらなかった。
「これさ、まだ使う日じゃないんだよ。知ってた? 全部が静かに済んでから、最後に鳴らすやつなんだ」
少年が繭に片手を当てた。
「仕方ないねぇ、平和的に染めて上げたかったのに」
「やめときな」
相馬が言った。少年は相馬を見た。しばらく、見た。
「僕は人間だったからね。……我慢が、下手なんだ」
◇
少年の腕が、繭に沈んだ。
肘まで入った。肩まで入った。繭の唸りが高くなった。表面の縞が拍を速めた。区域中の葉が同じ速さになった。庭先の三人が、一斉に空を向いた。
少年の体の輪郭が緩んだ。服の形が残って、中身が枝に解けていった。解けた枝は繭に流れ込んだ。顔が、最後に残った。
「じゃ、始めようか」
顔も、緑に呑まれた。
繭が、裂けた。
◇
光が立った。
緑の光だった。給水所の台から空へ、まっすぐに伸びた。太さは貯水タンクほどあった。光は空の輪郭に届いて、届いたところで円盤の縁が緑に点った。縁の光は、輪郭を一周した。
風が外へ吹いた。テントの布が骨組みごと倒れた。掲示板が倒れた。張り紙が飛んだ。
六人は地に足を残していた。相馬の腕が袖の中で光っていた。光は、強くなっていた。
柱の根元に、少年の形が立っていた。
枝で編まれた形だった。動かなかった。もう、こちらを見ていなかった。
区域中の葉が、音を立てて一斉に裏返った。




