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懐かしい場所だそうですが、覚えていません

朝、博士が地図を机に広げていた。

 封鎖区域の線が、赤い鉛筆で引き直されていた。古い線の外に、新しい線。二本の線の間は、指二本分あった。

「一晩でこれだ」

「一晩?」

「観測班からもう一つ。区域の中の振動が、揃い始めておる」

「揃うと、どうなるんです」

 博士は鉛筆を置いた。置いた音が机に残った。

「分からん。だが、揃える側には、揃える理由があるはずだ」

 リラが地図の上に手を伸ばした。新しい線の内側、給水所の印の上で指を止めた。

「ここね」

「書いてないぞ、そんなこと」

「書いてないわ」

 根拠なき断言、本日も平常運転である。ただし今日は、誰も軽口を続けなかった。

「一つ、言っておくわ」

 リラが地図から顔を上げた。

「山の円盤は、土地の下の筋から力を汲む。フランが、ずっと汲み続けている」

「汲んで、どうすんだよ」

「形にするのよ。……引き金は、私」

 相馬が上着を取った。袖に腕を通したとき、手首の上が薄く光った。緑だった。光は袖の中に隠れた。博士がそれを見ていた。何も、言わなかった。

 封鎖線の柵は破れたままになっていた。直す者がいなくなって久しい、破れ方だった。

 中は、緑だった。

 道路の舗装を緑が覆い、建物の壁を這い上がっていた。電線に蔓が巻きついて、間隔を揃えて垂れていた。人の形をしたものが、庭先に立っていた。三人。動かなかった。顔は、道の方を向いていた。

 風はなかった。それでも、葉が揺れていた。

 一枚だけではなかった。区域中の葉が、同じ拍で揺れていた。寄って、離れた。寄って、離れた。

「揃ってやがる」

 ドウジが言った。カイが空へ上がった。カラスが屋根の高さを回って、先へ流れた。

 テントの白が、残っていた。

 布は破れて骨組みに絡んでいた。長机が倒れて、脚が空を向いていた。掲示板は立ったままだった。張り紙は色が抜けて、字は読めなくなっていた。

 貯水タンクが二基、台の上に並んでいた。

 片方のタンクの上に、少年が腰かけていた。

「やあ」

 足を、ぶらぶらさせていた。

「早かったね。もう少しかかると思ってた」

 六人が扇に広がった。相馬が正面に立った。ドウジが右へ。カイが左の屋根に降りた。凛が斜め後ろで指を組んだ。地面の下で、何かが太く動いた。

「懐かしいでしょ、この辺り。……ああ、きみたちは覚えてないんだった」

 少年は笑った。タンクを踵で軽く蹴った。空の音がした。

 ユキが一歩前に出た。

 掌を上に向けて、両手を開いた。息を、長く吐いた。

 縞が出た。

 地面の緑の上を、細かい縞が端から端まで走った。葉の一枚一枚に沿って走った。少年の袖の内側から首の縁まで、同じ縞が浮いた。縞は少年の頭の上へ抜けて、空へ昇っていった。

 区域中の縞が、空の一点へ集まっていった。

 集まった先で、線になった。線は弧を描いた。弧は閉じて、輪郭になった。

 街の上に、もう一つの円盤があった。

 縁だけが縞で描かれて、中は空の色のままだった。大きさは街の一区画を覆っていた。ずっとそこに、あった形だった。

「……いる。あそこ」

 ユキが言った。六人の顔が上を向いた。

 少年がタンクの上で拍手をしかけて、やめた。足の揺れが、止まっていた。

 カイが屋根を蹴った。

 蝙蝠が散って少年を囲んだ。ドウジが台の下に入って、支柱を掴んだ。凛の怪獣が地面を割って出た。甲羅が給水所の外周を囲った。相馬が倒れた長机に触れた。机が起きて、壁になって前へ出た。

 少年が腕を振った。枝が伸びた。机の壁に刺さって止まった。刺さった枝を、リラが潰した。

「はいはい」

 少年がタンクから飛び降りた。着地は軽かった。下がりながら、喋った。

「順番にやるんだね。相変わらず丁寧でいいと思う」

 下がった先に、もう一基のタンクがあった。

 タンクの側面が、裂けていた。裂け目の中は水ではなかった。緑の繭のようなものが詰まっていた。繭は低く唸っていた。区域の葉と同じ拍で、表面が寄って、離れていた。

 少年が繭を背にして立った。

 空を見た。円盤の輪郭は動かなかった。降りてこなかった。光も、出さなかった。

 少年は空を見るのをやめた。

「……薄情だなあ」

 六人の輪が狭まった。カイの蝙蝠が頭上を回った。リラが正面から歩いた。歩幅は、変わらなかった。

「これさ、まだ使う日じゃないんだよ。知ってた? 全部が静かに済んでから、最後に鳴らすやつなんだ」

 少年が繭に片手を当てた。

「仕方ないねぇ、平和的に染めて上げたかったのに」

「やめときな」

 相馬が言った。少年は相馬を見た。しばらく、見た。

「僕は人間だったからね。……我慢が、下手なんだ」

 少年の腕が、繭に沈んだ。

 肘まで入った。肩まで入った。繭の唸りが高くなった。表面の縞が拍を速めた。区域中の葉が同じ速さになった。庭先の三人が、一斉に空を向いた。

 少年の体の輪郭が緩んだ。服の形が残って、中身が枝に解けていった。解けた枝は繭に流れ込んだ。顔が、最後に残った。

「じゃ、始めようか」

 顔も、緑に呑まれた。

 繭が、裂けた。

 光が立った。

 緑の光だった。給水所の台から空へ、まっすぐに伸びた。太さは貯水タンクほどあった。光は空の輪郭に届いて、届いたところで円盤の縁が緑に点った。縁の光は、輪郭を一周した。

 風が外へ吹いた。テントの布が骨組みごと倒れた。掲示板が倒れた。張り紙が飛んだ。

 六人は地に足を残していた。相馬の腕が袖の中で光っていた。光は、強くなっていた。

 柱の根元に、少年の形が立っていた。

 枝で編まれた形だった。動かなかった。もう、こちらを見ていなかった。

 区域中の葉が、音を立てて一斉に裏返った。


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