務めだそうですが、誰も訊いていません
朝の九時に、鐘は鳴らなかった。
広場は空いていた。石の上を鳥が歩いていた。窓口はもう開いていて、昨日の係の男が座っていた。凛が綴じられた紙を出した。男は判子の頁を確かめた。
「本日は堂内のみの拝観に……」
男が顔を上げた。リラを見た。立ち上がった。小屋の奥へ引っ込んで、しばらく戻らなかった。
戻ってきたとき、後ろに老人がいた。灰色の服の上に、色の抜けた肩掛け。老人はリラの前まで来て、止まった。頭は下げなかった。
「……こちらへ」
老人は聖堂の正面へは行かなかった。壁沿いに回って、小さな戸の前で鍵を出した。鍵は輪に十いくつ付いていて、老人は見ずに一本を選んだ。
若い係が一人、灯りを持って付いてきた。
◇
戸の内側は、堂の脇廊だった。
天井が高かった。石の柱が並んで、上の方は暗がりに消えていた。窓は細く、色硝子から朝の光が斜めに落ちていた。光の帯の中で、埃が動いていた。
壁際に、棚が続いていた。
綴じた帳面が並んでいた。背の色が古い順に褪せて、奥のものは字も読めなくなっていた。棚は柱の間を三つ跨いで、まだ続いていた。同じ厚さの帳面。同じ綴じ方。
ドウジが棚の前で歩を緩めた。緩めただけで、止まらなかった。
床の石が、中央に向かって僅かに窪んでいた。長い年月、同じ道筋を歩かれた形だった。老人は、その窪みの上を歩いた。
◇
祭壇の裏に、階段があった。
下りると空気が変わった。冷たく、乾いていた。石の段は真ん中がすり減って、若い係の灯りが壁に六人の影を作った。影は段を折れるたびに向きを変えた。
音がした。
低い音だった。続いていた。機械の音ではなかった。息よりも遅い間隔で、太く、床から上がってきた。
階段が、終わった。
広い部屋だった。天井は低く、柱が太かった。部屋の中央に、それはあった。
石の台座が段になって重なり、一番上に、鐘があった。塔の鐘より大きかった。地の中の鐘は吊られておらず、台の上に伏せて置かれていた。表面に細かい筋が走って、筋は台座を伝い、床を這って、壁の中へ消えていた。
低い音は、その鐘から出ていた。
鳴ってはいなかった。鳴らないまま、震えていた。
◇
鐘の伏せられた縁の下に、人がいた。
座っていた。膝を揃えて、手を膝に置いて、頭を少し下げていた。坂の壁の窪みの像と、同じ姿勢だった。ただし、石ではなかった。肩掛けの布は色を保っていて、胸は動いていなかった。動いていないのに、崩れてもいなかった。鐘の縁が、その頭のすぐ上にあった。
カイが一歩前に出た。口を開けかけて、閉じた。
「……霧の味だ」
老人が台座の手前で止まった。
「三百年、こうしておられる」
「この人が、鐘を?」
「鐘が街を保ち、この方が鐘を保っておられる」
ドウジが鐘を見上げていた。
「……ここは、静かだな」
それだけ言った。カイがドウジを見た。何も言わなかった。
ユキが台座の下に立った。座った人を見た。それから、老人を見た。
「訊いたんですか」
「は」
「この人に。こうなる前に、訊いたんですか」
老人の手が、肩掛けの端を握った。
「名が挙がった方を、鐘の日に送る。それが務めです」
「訊いたんですか」
「……記録には、送った日付だけがございます」
若い係の灯りが揺れた。灯りの輪が、座った人の膝の上で揺れて、戻った。
◇
台座の陰から、白いものが出てきた。
人形だった。子どもほどの背丈で、燕尾の服を着ていた。塗りの剥げた顔に、描かれた目。人形は床を歩いて、台座の前まで来た。座った人の、正面だった。
「うちの箱のやつ」
凛が言った。相馬が半歩出た。
「おい、フラ……」
人形が、膝を折った。床に片膝を突いて、座った人へ頭を下げた。下げたまま、しばらく動かなかった。
ユキが人形を見ていた。
「……じゃあ、フランは」
人形が頭を上げた。描かれた目が、ユキの方を向いた。
「――いいえ」
声は人形の胸の奥から出た。低く、乾いて、丁寧だった。
「私は、私に訊きました」
それきりだった。人形は立ち上がり、服の膝を手で払った。座った人へもう一度浅く頭を下げて、台座の陰へ歩いて戻った。足音は、石の上で小さかった。
鐘の低い音だけが、続いていた。
◇
帰りの階段は、往きより長かった。足音だけが段を上がっていった。
上の堂に出ると、光の帯の角度が変わっていた。帳面の棚の前を、来たときと逆に通った。ドウジは今度は、歩を緩めなかった。
戸の外で老人が鍵を掛けた。掛け終わって、リラの方を向いた。
「……あなた様は」
「帰るわ」
リラは広場の方へ歩き出していた。老人は鍵の輪を持ったまま、立っていた。
若い係が最後に戸を閉めた。閉める前に、一度だけ堂の中を振り返った。灯りはもう消してあった。棚の並びが、暗がりの中に続いていた。
若い係は戸を閉めた。閉めた手が、把手の上に、しばらく残った。
◇
船は昼のうちに港を出た。
木箱の蓋は嵌まっていた。誰も開けなかった。舫いを解いたのは昨日の老人ではなく、若い漁師だった。料金の箱に、凛が紙幣を足した。
「多めに入れた」
「いくら」
「気持ち」
海は往きより静かだった。霧は出なかった。夜通し走って、朝、東の空の下に見慣れた陸が出た。
港から園までは歩いた。
夕方の園に人はいなかった。門は開いていた。園路は組み替わったままの道で、敷石の継ぎ目の線はもう土の色に馴染み始めていた。売店の庇の下を通った。池の方から、水の匂いがした。
中央の広場で、リラの足が一度止まった。
観覧車は止まっていた。ゴンドラは高いところで並んで、夕日を受けていた。風はなかった。どこかで金具が一度、小さく鳴った。
リラは歩き出した。
裏手の管理区画に灯がついていた。窓の中で博士が湯呑みを盆に並べていた。湯呑みは、六つあった。
「腹減った」
凛が言った。戸が開いた。




