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務めだそうですが、誰も訊いていません

朝の九時に、鐘は鳴らなかった。

 広場は空いていた。石の上を鳥が歩いていた。窓口はもう開いていて、昨日の係の男が座っていた。凛が綴じられた紙を出した。男は判子の頁を確かめた。

「本日は堂内のみの拝観に……」

 男が顔を上げた。リラを見た。立ち上がった。小屋の奥へ引っ込んで、しばらく戻らなかった。

 戻ってきたとき、後ろに老人がいた。灰色の服の上に、色の抜けた肩掛け。老人はリラの前まで来て、止まった。頭は下げなかった。

「……こちらへ」

 老人は聖堂の正面へは行かなかった。壁沿いに回って、小さな戸の前で鍵を出した。鍵は輪に十いくつ付いていて、老人は見ずに一本を選んだ。

 若い係が一人、灯りを持って付いてきた。

 戸の内側は、堂の脇廊だった。

 天井が高かった。石の柱が並んで、上の方は暗がりに消えていた。窓は細く、色硝子から朝の光が斜めに落ちていた。光の帯の中で、埃が動いていた。

 壁際に、棚が続いていた。

 綴じた帳面が並んでいた。背の色が古い順に褪せて、奥のものは字も読めなくなっていた。棚は柱の間を三つ跨いで、まだ続いていた。同じ厚さの帳面。同じ綴じ方。

 ドウジが棚の前で歩を緩めた。緩めただけで、止まらなかった。

 床の石が、中央に向かって僅かに窪んでいた。長い年月、同じ道筋を歩かれた形だった。老人は、その窪みの上を歩いた。

 祭壇の裏に、階段があった。

 下りると空気が変わった。冷たく、乾いていた。石の段は真ん中がすり減って、若い係の灯りが壁に六人の影を作った。影は段を折れるたびに向きを変えた。

 音がした。

 低い音だった。続いていた。機械の音ではなかった。息よりも遅い間隔で、太く、床から上がってきた。

 階段が、終わった。

 広い部屋だった。天井は低く、柱が太かった。部屋の中央に、それはあった。

 石の台座が段になって重なり、一番上に、鐘があった。塔の鐘より大きかった。地の中の鐘は吊られておらず、台の上に伏せて置かれていた。表面に細かい筋が走って、筋は台座を伝い、床を這って、壁の中へ消えていた。

 低い音は、その鐘から出ていた。

 鳴ってはいなかった。鳴らないまま、震えていた。

 鐘の伏せられた縁の下に、人がいた。

 座っていた。膝を揃えて、手を膝に置いて、頭を少し下げていた。坂の壁の窪みの像と、同じ姿勢だった。ただし、石ではなかった。肩掛けの布は色を保っていて、胸は動いていなかった。動いていないのに、崩れてもいなかった。鐘の縁が、その頭のすぐ上にあった。

 カイが一歩前に出た。口を開けかけて、閉じた。

「……霧の味だ」

 老人が台座の手前で止まった。

「三百年、こうしておられる」

「この人が、鐘を?」

「鐘が街を保ち、この方が鐘を保っておられる」

 ドウジが鐘を見上げていた。

「……ここは、静かだな」

 それだけ言った。カイがドウジを見た。何も言わなかった。

 ユキが台座の下に立った。座った人を見た。それから、老人を見た。

「訊いたんですか」

「は」

「この人に。こうなる前に、訊いたんですか」

 老人の手が、肩掛けの端を握った。

「名が挙がった方を、鐘の日に送る。それが務めです」

「訊いたんですか」

「……記録には、送った日付だけがございます」

 若い係の灯りが揺れた。灯りの輪が、座った人の膝の上で揺れて、戻った。

 台座の陰から、白いものが出てきた。

 人形だった。子どもほどの背丈で、燕尾の服を着ていた。塗りの剥げた顔に、描かれた目。人形は床を歩いて、台座の前まで来た。座った人の、正面だった。

「うちの箱のやつ」

 凛が言った。相馬が半歩出た。

「おい、フラ……」

 人形が、膝を折った。床に片膝を突いて、座った人へ頭を下げた。下げたまま、しばらく動かなかった。

 ユキが人形を見ていた。

「……じゃあ、フランは」

 人形が頭を上げた。描かれた目が、ユキの方を向いた。

「――いいえ」

 声は人形の胸の奥から出た。低く、乾いて、丁寧だった。

「私は、私に訊きました」

 それきりだった。人形は立ち上がり、服の膝を手で払った。座った人へもう一度浅く頭を下げて、台座の陰へ歩いて戻った。足音は、石の上で小さかった。

 鐘の低い音だけが、続いていた。

 帰りの階段は、往きより長かった。足音だけが段を上がっていった。

 上の堂に出ると、光の帯の角度が変わっていた。帳面の棚の前を、来たときと逆に通った。ドウジは今度は、歩を緩めなかった。

 戸の外で老人が鍵を掛けた。掛け終わって、リラの方を向いた。

「……あなた様は」

「帰るわ」

 リラは広場の方へ歩き出していた。老人は鍵の輪を持ったまま、立っていた。

 若い係が最後に戸を閉めた。閉める前に、一度だけ堂の中を振り返った。灯りはもう消してあった。棚の並びが、暗がりの中に続いていた。

 若い係は戸を閉めた。閉めた手が、把手の上に、しばらく残った。

 船は昼のうちに港を出た。

 木箱の蓋は嵌まっていた。誰も開けなかった。舫いを解いたのは昨日の老人ではなく、若い漁師だった。料金の箱に、凛が紙幣を足した。

「多めに入れた」

「いくら」

「気持ち」

 海は往きより静かだった。霧は出なかった。夜通し走って、朝、東の空の下に見慣れた陸が出た。

 港から園までは歩いた。

 夕方の園に人はいなかった。門は開いていた。園路は組み替わったままの道で、敷石の継ぎ目の線はもう土の色に馴染み始めていた。売店の庇の下を通った。池の方から、水の匂いがした。

 中央の広場で、リラの足が一度止まった。

 観覧車は止まっていた。ゴンドラは高いところで並んで、夕日を受けていた。風はなかった。どこかで金具が一度、小さく鳴った。

 リラは歩き出した。

 裏手の管理区画に灯がついていた。窓の中で博士が湯呑みを盆に並べていた。湯呑みは、六つあった。

「腹減った」

 凛が言った。戸が開いた。


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