調査船ではありませんが、調査もできます
机の上に紙の束があった。縁が焦げていた。朝の光が窓から入って、束の角に当たっていた。
凛が一番下から畳んだ紙を抜いた。四つに折られたままだった。机の端と端を空けて、開いた。
海の線が出た。線は左の縁から右の縁まで続いていた。ところどころに小さな書き込み。読める字ではなかった。
博士が眼鏡を上げた。紙の上に屈んだ。長かった。
「読めんのですか」
「読めん」
「守り手の家系でしょ」
「家系に海の係はおらん」
分業制の弊害である。
凛が紙の左半分を指で押さえた。線の途切れた先に陸の形があった。陸は、紙の縁で切れていた。
リラが机の反対側に立っていた。紙を見ていた。それから、窓の方を見た。窓の外に園の屋根が並んでいた。並びは、前と違っていた。
「西ね」
「は?」
「西へ行くわ」
相馬が湯呑みを置いた。
「書いてあんのか、それ」
「書いてないわ」
「じゃあなんで分かんだよ」
「分からないわよ。こっちよ、というだけ」
「根拠は」
「ないわ」
根拠のない断言に千年物と数百年物が黙って従う光景を、この研究所は何度も見てきた。もう誰も驚かない。
博士が眼鏡を戻した。菓子の箱を机の端から寄せた。蓋を開けて、凛の前へ滑らせた。
「西の海の向こうの、鐘の栓を見てこい。うちの栓に何が要るのか、向こうは三百年先を行っとる。船は組織で出す。特別枠の任務だ。ボーナスも出る」
「行きます」
「早えよ」
◇
港は小さかった。桟橋が二本。片方は途中で板が抜けていた。
船は桟橋の先に着いていた。白い塗装が剥げて、下から灰色が出ていた。舷側に、字を消した跡。上から別の字が書かれ、その字も消されていた。名前のロンダリングである。
「これぇ?」
「これだ」
「調査船とか言ってませんでした?」
「調査もできる船だ」
「何でもできる船じゃないですかそれ」
ドウジが先に乗った。甲板が沈んだ。船が桟橋に寄って、また離れた。ドウジは足を開いて立った。
荷物が積まれた。水と食料の箱。工具の箱。最後に木の箱が一つ、台車で運ばれてきた。角に金具の打たれた、古い箱だった。
「なにこれ」
「洋館から届いておった。持って行けと」
「誰が」
「書いてなかった」
凛が箱の側面を叩いた。詰まった音がした。相馬が下から持ち上げた。袖が落ちて、肘の上まで下がった。腕が薄く光っていた。緑だった。相馬は箱を甲板に下ろした。袖を、戻した。
ユキが桟橋の端に立っていた。海を見ていた。水は港の中で平らだった。外に出るところで、色が変わっていた。
◇
もやいが外された。船が桟橋を離れた。
エンジンが低く回った。港の口を抜けると、船首が持ち上がった。落ちた。飛沫が舷側を叩いた。
リラは船首にいた。手すりに手を置いていなかった。船が揺れて、リラの髪だけが揺れた。物理法則の適用に個人差がある。
凛が海図を開いた。風が紙を煽った。ユキが端を押さえた。
「線、二本あるんだけど」
海の線は途中で分かれていた。一本は南へ下がり、一本は西へまっすぐ延びていた。
「リラさーん。どっち」
リラが振り返らずに、片手を挙げた。指は西を向いていた。
「まっすぐね」
凛が紙を畳んだ。舵の脇の物入れに差した。
陽が高くなった。海の色が濃くなった。船の跡が白く延びて、遠くで消えた。陸は、もう見えなかった。
◇
ドウジが船尾に座っていた。糸を垂らしていた。竿はなかった。指に糸を巻いて、動かさなかった。
昼までに掛かったのは、長靴が片方だった。
「食えん」
「そりゃそうでしょ」
凛が端末を構えた。
「記念すべき初の釣果でーす。狼男さん、一言」
「録るな」
凛が端末を仕舞って、甲板に玉を転がした。船が揺れるたびに、玉が戻ってきた。
「お前、そういえば丸いもんばっかりだな」
相馬が舵の脇から言った。
「玉に、電球に、ボールに、ホイールキャップ」
「……言われてみれば」
凛が玉を止めた。しばらく見ていた。
「転がるからいいんだよ」
「理屈になってない」
木の箱はマストの根元に置かれていた。凛が通りがかりに、蓋を指で叩いた。
中から、こつ、と返ってきた。
「……今の、返事?」
「フランよ」
リラが船首から言った。「連れて行けと、自分で決めたの」
凛は箱から一歩離れた。それきり、誰も蓋を開けなかった。開けない勇気も、船旅には要る。
カイはマストの上にいた。カラスの形だった。ときどき飛び立って、船の上を大きく回った。回って、戻った。
ユキが掌を口の前に当てて息を吹いた。膜が出た。凛が横から指を一つ弾いた。膜は丸くなって、羽が生えて、鳥になった。鳥は帆の高さまで上がって、カイの横に並んで飛んだ。カイが少し外へ逸れた。鳥がついていった。カイがもう少し逸れた。
「嫌がってません?」
「仲良く見えるけど」
夕方、雲が低くなった。風が湿った。ドウジが糸を巻き取った。長靴は、海へ返した。
◇
夜のうちに、霧が出た。
朝になっても白かった。船首から船尾が霞んだ。エンジンの音だけが同じ調子で続いた。音は霧に吸われて、遠くまで行かなかった。
羅針盤の針が揺れていた。振れ幅が広くなって、戻らなくなった。
「壊れた?」
「壊れてはおらんはずだ」
カイが甲板に降りた。人の形に戻った。手すりに手を掛けて、霧に顔を出した。口を薄く開けた。閉じた。
「……古いな」
「なにが」
「この霧、味がする」
「やめてくださいよそういうの」
ドウジが船尾で立ち上がった。
霧の奥を見ていた。
「……おい。いま、呼んだか」
「誰も呼んでねえよ」
凛が言った。ドウジは答えなかった。霧の白の中に、薄いものがあった。顔の並びに見えた。見えた気がしただけだった。波が一度、舷側を叩いた。白は白に戻った。
ドウジは座り直した。それきり、海を見なかった。
カイは手すりから離れなかった。霧の奥を見ていた。白いだけだった。
リラが船首に出た。立って、少し首を傾げた。それから、舵の方へ顎を向けた。
「そのまま」
舵は動かされなかった。船はまっすぐ進んだ。
◇
霧の中で、音がした。
金属の音だった。間を置いて、また鳴った。波のたびに、鳴った。
ドウジが立った。カイが手すりに乗った。リラが音の方を向いていた。ユキが凛の袖を掴んだ。
霧が薄れて、形が出た。
赤いブイだった。上に小さな鐘が付いていた。ブイは波で傾いて、戻るたびに鐘を鳴らした。塗装は剥げて、鐘は緑青を吹いていた。
「ブイだよ」
相馬が舵の脇から言った。
「航路の印。田舎の海にあんの」
千年物と数百年物と王女が、ブイに全力で身構えていた。海に不慣れな怪物たちである。ドウジが座り直した。カイが手すりから降りた。リラは音の方を向いたままだった。ブイは船の横を過ぎて、霧の中へ戻っていった。鐘の音が後ろで小さくなった。しばらく聞こえて、消えた。
誰の顔も、霧の水滴で濡れていた。
◇
夕方、霧が上がった。
西の空が低く赤かった。その赤の下に、線があった。陸だった。
線の上に、細いものが立っていた。塔だった。一本。先が尖っていた。距離があって、色は影の色しかなかった。
風が変わった。陸の方から吹いた。
音が、乗っていた。
鐘だった。今度は、波の調子ではなかった。同じ間隔で、重く、続けて鳴っていた。音は水面を渡って、船まで平らに届いた。
「……いまの、鐘?」
ユキが言った。相馬が目の上に手をかざした。
「教会かなんかだろ」
リラは船首に立っていた。動かなかった。カイがマストの上で翼を畳んだ。ドウジが船尾で立ち上がって、陸を見た。三人とも、音の続く間、そのままだった。
今度は、誰も「ブイだよ」とは言わなかった。
鐘が止んだ。
陸影が近くなっていた。塔の下に屋根の並びが見え始めていた。灯は、どこにも点いていなかった。
「着くわよ」
リラが言った。船はまっすぐ進んだ。




