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調査船ではありませんが、調査もできます

机の上に紙の束があった。縁が焦げていた。朝の光が窓から入って、束の角に当たっていた。

 凛が一番下から畳んだ紙を抜いた。四つに折られたままだった。机の端と端を空けて、開いた。

 海の線が出た。線は左の縁から右の縁まで続いていた。ところどころに小さな書き込み。読める字ではなかった。

 博士が眼鏡を上げた。紙の上に屈んだ。長かった。

「読めんのですか」

「読めん」

「守り手の家系でしょ」

「家系に海の係はおらん」

 分業制の弊害である。

 凛が紙の左半分を指で押さえた。線の途切れた先に陸の形があった。陸は、紙の縁で切れていた。

 リラが机の反対側に立っていた。紙を見ていた。それから、窓の方を見た。窓の外に園の屋根が並んでいた。並びは、前と違っていた。

「西ね」

「は?」

「西へ行くわ」

 相馬が湯呑みを置いた。

「書いてあんのか、それ」

「書いてないわ」

「じゃあなんで分かんだよ」

「分からないわよ。こっちよ、というだけ」

「根拠は」

「ないわ」

 根拠のない断言に千年物と数百年物が黙って従う光景を、この研究所は何度も見てきた。もう誰も驚かない。

 博士が眼鏡を戻した。菓子の箱を机の端から寄せた。蓋を開けて、凛の前へ滑らせた。

「西の海の向こうの、鐘の栓を見てこい。うちの栓に何が要るのか、向こうは三百年先を行っとる。船は組織で出す。特別枠の任務だ。ボーナスも出る」

「行きます」

「早えよ」

 港は小さかった。桟橋が二本。片方は途中で板が抜けていた。

 船は桟橋の先に着いていた。白い塗装が剥げて、下から灰色が出ていた。舷側に、字を消した跡。上から別の字が書かれ、その字も消されていた。名前のロンダリングである。

「これぇ?」

「これだ」

「調査船とか言ってませんでした?」

「調査もできる船だ」

「何でもできる船じゃないですかそれ」

 ドウジが先に乗った。甲板が沈んだ。船が桟橋に寄って、また離れた。ドウジは足を開いて立った。

 荷物が積まれた。水と食料の箱。工具の箱。最後に木の箱が一つ、台車で運ばれてきた。角に金具の打たれた、古い箱だった。

「なにこれ」

「洋館から届いておった。持って行けと」

「誰が」

「書いてなかった」

 凛が箱の側面を叩いた。詰まった音がした。相馬が下から持ち上げた。袖が落ちて、肘の上まで下がった。腕が薄く光っていた。緑だった。相馬は箱を甲板に下ろした。袖を、戻した。

 ユキが桟橋の端に立っていた。海を見ていた。水は港の中で平らだった。外に出るところで、色が変わっていた。

 もやいが外された。船が桟橋を離れた。

 エンジンが低く回った。港の口を抜けると、船首が持ち上がった。落ちた。飛沫が舷側を叩いた。

 リラは船首にいた。手すりに手を置いていなかった。船が揺れて、リラの髪だけが揺れた。物理法則の適用に個人差がある。

 凛が海図を開いた。風が紙を煽った。ユキが端を押さえた。

「線、二本あるんだけど」

 海の線は途中で分かれていた。一本は南へ下がり、一本は西へまっすぐ延びていた。

「リラさーん。どっち」

 リラが振り返らずに、片手を挙げた。指は西を向いていた。

「まっすぐね」

 凛が紙を畳んだ。舵の脇の物入れに差した。

 陽が高くなった。海の色が濃くなった。船の跡が白く延びて、遠くで消えた。陸は、もう見えなかった。

 ドウジが船尾に座っていた。糸を垂らしていた。竿はなかった。指に糸を巻いて、動かさなかった。

 昼までに掛かったのは、長靴が片方だった。

「食えん」

「そりゃそうでしょ」

 凛が端末を構えた。

「記念すべき初の釣果でーす。狼男さん、一言」

「録るな」

 凛が端末を仕舞って、甲板に玉を転がした。船が揺れるたびに、玉が戻ってきた。

「お前、そういえば丸いもんばっかりだな」

 相馬が舵の脇から言った。

「玉に、電球に、ボールに、ホイールキャップ」

「……言われてみれば」

 凛が玉を止めた。しばらく見ていた。

「転がるからいいんだよ」

「理屈になってない」

 木の箱はマストの根元に置かれていた。凛が通りがかりに、蓋を指で叩いた。

 中から、こつ、と返ってきた。

「……今の、返事?」

「フランよ」

 リラが船首から言った。「連れて行けと、自分で決めたの」

 凛は箱から一歩離れた。それきり、誰も蓋を開けなかった。開けない勇気も、船旅には要る。

 カイはマストの上にいた。カラスの形だった。ときどき飛び立って、船の上を大きく回った。回って、戻った。

 ユキが掌を口の前に当てて息を吹いた。膜が出た。凛が横から指を一つ弾いた。膜は丸くなって、羽が生えて、鳥になった。鳥は帆の高さまで上がって、カイの横に並んで飛んだ。カイが少し外へ逸れた。鳥がついていった。カイがもう少し逸れた。

「嫌がってません?」

「仲良く見えるけど」

 夕方、雲が低くなった。風が湿った。ドウジが糸を巻き取った。長靴は、海へ返した。

 夜のうちに、霧が出た。

 朝になっても白かった。船首から船尾が霞んだ。エンジンの音だけが同じ調子で続いた。音は霧に吸われて、遠くまで行かなかった。

 羅針盤の針が揺れていた。振れ幅が広くなって、戻らなくなった。

「壊れた?」

「壊れてはおらんはずだ」

 カイが甲板に降りた。人の形に戻った。手すりに手を掛けて、霧に顔を出した。口を薄く開けた。閉じた。

「……古いな」

「なにが」

「この霧、味がする」

「やめてくださいよそういうの」

 ドウジが船尾で立ち上がった。

 霧の奥を見ていた。

「……おい。いま、呼んだか」

「誰も呼んでねえよ」

 凛が言った。ドウジは答えなかった。霧の白の中に、薄いものがあった。顔の並びに見えた。見えた気がしただけだった。波が一度、舷側を叩いた。白は白に戻った。

 ドウジは座り直した。それきり、海を見なかった。

 カイは手すりから離れなかった。霧の奥を見ていた。白いだけだった。

 リラが船首に出た。立って、少し首を傾げた。それから、舵の方へ顎を向けた。

「そのまま」

 舵は動かされなかった。船はまっすぐ進んだ。

 霧の中で、音がした。

 金属の音だった。間を置いて、また鳴った。波のたびに、鳴った。

 ドウジが立った。カイが手すりに乗った。リラが音の方を向いていた。ユキが凛の袖を掴んだ。

 霧が薄れて、形が出た。

 赤いブイだった。上に小さな鐘が付いていた。ブイは波で傾いて、戻るたびに鐘を鳴らした。塗装は剥げて、鐘は緑青を吹いていた。

「ブイだよ」

 相馬が舵の脇から言った。

「航路の印。田舎の海にあんの」

 千年物と数百年物と王女が、ブイに全力で身構えていた。海に不慣れな怪物たちである。ドウジが座り直した。カイが手すりから降りた。リラは音の方を向いたままだった。ブイは船の横を過ぎて、霧の中へ戻っていった。鐘の音が後ろで小さくなった。しばらく聞こえて、消えた。

 誰の顔も、霧の水滴で濡れていた。

 夕方、霧が上がった。

 西の空が低く赤かった。その赤の下に、線があった。陸だった。

 線の上に、細いものが立っていた。塔だった。一本。先が尖っていた。距離があって、色は影の色しかなかった。

 風が変わった。陸の方から吹いた。

 音が、乗っていた。

 鐘だった。今度は、波の調子ではなかった。同じ間隔で、重く、続けて鳴っていた。音は水面を渡って、船まで平らに届いた。

「……いまの、鐘?」

 ユキが言った。相馬が目の上に手をかざした。

「教会かなんかだろ」

 リラは船首に立っていた。動かなかった。カイがマストの上で翼を畳んだ。ドウジが船尾で立ち上がって、陸を見た。三人とも、音の続く間、そのままだった。

 今度は、誰も「ブイだよ」とは言わなかった。

 鐘が止んだ。

 陸影が近くなっていた。塔の下に屋根の並びが見え始めていた。灯は、どこにも点いていなかった。

「着くわよ」

 リラが言った。船はまっすぐ進んだ。


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