避難は進みますが、逆向きの列があります
園の食堂は昼前から開いていた。長机を二つ繋げてある。椅子の数が合わなかった。相馬が事務所から一脚持ってきた。
ドウジの前には、丼が三つ並んでいた。二つは空だった。
「それ、何杯目だ」
「四」
「四って言った時点で五だろ」
凛が箸を置いた。手帳を開く手つきをした。
「体格で割れば普通なんだよ。背の高さと肩幅を入れれば、うちの平均より少し上ってだけ」
「じゃあ俺は」
相馬が丼を持ち上げた。五つ目だった。
凛が手帳を閉じた。
「……理屈にならないんだけど」
「勝ったな」
「何にだよ」
ユキが天井を見た。
「その勝負、まだ続くの」
「そういやお前、ほんとに変身しなくなったな」
凛が言った。ユキは、自分の掌を見た。
「……借りる形が、いらなくなったみたい」
カイは椅子に浅く座っていた。前の皿には手をつけていない。箸も割っていなかった。リラは汁の椀を持っていた。二口飲んで、置いた。それきりだった。
相馬が湯呑みを置いた。
「北の区画、朝に見てきた」
「どうだった」
「もう、戻せない」
凛が短く息を吐いた。
「じゃあ、人だけだね」
「動かせるうちに動かす。それだけだ」
ドウジが四杯目を空にした。飯粒が一つ、机に落ちた。ドウジは指で拾って、食べた。
ユキが箸を止めた。
「今の、見なかったことにする」
「うまいぞ」
「そういう話じゃない」
相馬が笑った。凛も笑った。ドウジは五杯目に手を伸ばした。
◇
道は二つ手前の交差点で封鎖されていた。六人は車を降りて歩いた。舗装の割れ目から緑が上がっている。塀を越えて、家の壁を伝っていた。二階の窓まで届いている家が、三軒あった。
風はあった。葉は動いていた。音は、それだけだった。
相馬が足を止めた。電線を見上げた。何も、止まっていなかった。屋根にも、いなかった。
「鳥がいない」
凛が空を見た。すぐに目を戻した。誰も、続けなかった。
縁の手前に長机が出ていた。市の腕章をつけた人間が四人。バスが二台停まっていて、一台は扉を開けていた。列は歩道に沿って伸びていた。荷物はどれも小さかった。犬を抱えた老人がいた。子どもが二人、しゃがんで足元を見ていた。係員が名簿を持っていた。運転手が扉の脇に立って煙草の箱を出し、それから、箱を戻した。
誘導の声が前の方で上がった。列が、少し進んだ。
ドウジが縁へ歩いていった。カイが右の路地に折れた。相馬は列の後ろについた。凛が反対側の歩道へ渡った。ユキが掌を上に向けた。リラは列の先頭の方へ歩いた。
打ち合わせは、なかった。なかったのに、六人は六箇所に散った。
ユキの指の先に、点が浮いた。いくつも浮いた。塀の上にも、屋根の上にもあった。
バスの扉が閉まった。
◇
最初に動いたのは、塀の緑だった。表面が波打ち、継ぎ目から採取体が押し出た。三体出た。すぐに四体目が続いた。
ドウジが正面に入った。一体目を肩で受けた。足が半歩下がって、止まった。そのまま押し返す。二体目が横から来た。ドウジが腕を回して地面に落とし、上から膝を入れた。
相馬が工事用の柵を引きずってきた。列との間に二枚並べ、足を踏んで固定する。三体目が柵にぶつかった。越えられずに横へ流れた。流れた先に、凛がいた。
凛が玉を弾いた。落ちた先から蛇が伸び、伸びた先が輪になった。採取体は輪の中で足を止めた。凛は見届けずに、次を見た。
ユキが掌を上げていた。塀の上に点が浮いた。屋根の上にも浮いた。数が増えた。路地の奥に、一つだけ低く浮いた。
カイが路地へ入った。奥で音が二つ鳴った。カイが子どもを抱えて出てきた。列の後ろへ渡した。渡してすぐ、路地へ戻った。
リラが輪の前に立った。指を伸ばした。点に触れた。沈んだ。緑が色を失って崩れた。リラは、次の輪へ歩いた。
列は進んでいた。二台目のバスが扉を開けた。
塀が二か所で破れた。柵の端が押された。ドウジは正面から動けない。カイが端に入った。押していた個体を横から倒した。相馬が柵を一枚継ぎ足して、踏んで固定した。
ユキの点が、列の後ろに浮いた。凛が振り向いた。線が先に届いた。輪が閉じた。ドウジの正面が薄くなった。相馬が柵を前に出して塞いだ。柵の脚が浮いた。ユキが片手を下ろして押さえた。空いた手のままで、点を上げ続けた。
リラが列の後ろまで来た。指を落とした。沈んだ。
最後の一人がバスに乗った。扉が閉まった。バスが縁沿いに動き出した。列のいた場所には、荷物の紐が一本、落ちていた。
緑は静かになった。ドウジが息をしていた。相馬が柵の足を踏み直した。
塀の向こうが、また波打った。
ユキの掌の上に点が浮いた。数は、前より多かった。
◇
三体が同時に来た。ドウジが一体を捕まえた。もう一体が壁を登った。三体目が路地へ抜けた。カイが追った。
壁を登った個体は、二階の窓枠にかかった。ユキが工事の足場に上がった。二段目まで上がって、掌を向ける。点が浮いた。個体が窓枠を蹴った。足場の支柱に当たった。金具が外れた。板が傾いた。
ユキの足が滑った。体が、外へ出た。
リラの膝が、先に折れた。足が地を蹴った。上体は遅れて回った。二歩で足場の下に入った。リラの右手が上がった。ユキの手が下りてきた。
指が、噛み合った。
受け方が、様式のように綺麗だった。
二人は転がって止まった。ユキが先に起きた。リラは片膝をついたままだった。噛み合った手は、まだ離れていなかった。リラの目は、自分の指のところにあった。
「……今、私は」
リラが口を閉じた。手を離した。
「なんでもないわ」
リラが立った。歩き出した。歩き出すまでに、一拍あった。
相馬が見ていた。凛が見ていた。ユキも見ていた。誰も、何も言わなかった。
塀の継ぎ目が押し出た。ドウジが捕まえていた個体を投げた。投げた先で二体が倒れた。相馬が柵を引きずって間に置き、足で踏んだ。凛が玉を弾いた。落ちた先から蛇が伸びて、輪になった。
ユキが立ち上がった。掌を上げた。点が浮いた。塀の上にも、路地の口にも浮いた。
リラが輪の前まで歩いた。指を落とした。沈んだ。次の輪へ歩いた。
◇
緑が引いたあと、縁は静かになった。列は半分になっていた。三台目のバスが来て停まった。荷物を持った人が乗り込んでいた。
歩道の人の流れは、二つになっていた。
片方は、バスへ向かっていた。
もう片方は、縁へ向かっていた。
数は多くなかった。六人か七人だった。間隔はばらばらだった。先頭は自転車を押した男だった。次は買い物かごを提げた老人だった。急いでいる者はいなかった。振り返る者も、いなかった。
係員が先頭の男に声をかけた。男が立ち止まった。係員が何か言った。男が首を振った。係員はもう一度言った。それから、体を横にずらした。男が自転車を押して通った。係員は、手を出さなかった。次に老人が来た。係員は同じことをした。老人も通った。係員は、腕章の位置を直した。
凛が立ち止まって、それを見ていた。ユキが掌を下ろした。
相馬は柵の脚を踏み直しているところだった。顔を上げた。
逆向きの流れの後ろの方に、見た顔があった。
定食屋の夫だった。前掛けはしていなかった。半袖だった。腕の緑は肘の上まで来ていた。指の付け根にも回っていた。歩き方は、いつもと同じだった。
相馬が柵から手を離した。
「おやじさん」
夫が振り返った。普通に、振り返った。相馬を見て、笑った。
「あ、どうも」
「……どこ行くんですか」
「困ってないんです。これが」
夫は腕を軽く上げて見せた。それから前を向いた。歩き出した。
少し後ろから、女が来た。定食屋の妻だった。買い物袋を提げていた。袋は、膨らんでいなかった。妻は相馬の前まで来て足を止めた。会釈をした。
「あの人がいるので」
妻はもう一度会釈をした。それから、夫の背中の方へ歩いた。
相馬の手が上がった。肘の高さで止まった。指が開いた。
手は、下りた。
相馬は柵の脚に足を戻した。
凛は見ていた。ユキも見ていた。二人とも、動かなかった。係員は、次の一人に声をかけていた。
夫が縁のところで足を止めた。妻が追いついた。二人は並んだ。緑の間に、入っていった。
歩道の端で係員が長机の脚を畳んでいた。三台目のバスの扉が閉まった。ドウジが柵を一枚持ち上げて肩に載せた。カイが路地から出てきた。ユキが掌を上げた。
点は、浮かなかった。
◇
車が縁を離れた。相馬が運転していた。凛が助手席にいた。ユキは後ろに座っていた。
封鎖の柵は途中まで残っていた。相馬は徐行した。柵が切れたところで速度を戻した。後ろに積んだ柵が段差で鳴った。相馬は速度を落とさなかった。窓は開けたままだった。風が入っていた。
凛は手帳を出さなかった。膝の上で手を組んでいた。窓の外を見ていた。信号で車が止まった。歩道を自転車が二台通った。二台とも、買い物の袋を提げていた。
ユキは自分の手を見ていた。膝に置いたままだった。指は動かなかった。ずっと、見ていた。
相馬が口を開いた。息が出た。それだけだった。口を閉じた。ハンドルを持ち直した。
凛のポケットで音が鳴った。玉が一度鳴った。凛はポケットに手を入れなかった。音は続かなかった。
信号が青になった。車が動いた。
商店街の手前まで来たところで、遠くから音が来た。
鐘だった。低かった。前より、大きかった。ハンドルに当たった相馬の指が、一度動いた。
「……鳴ってんな」
凛は窓の外を見たままだった。ユキは手を見たままだった。
鐘は三つ鳴って、止んだ。車は走り続けた。相馬が窓を閉めた。エンジンの音だけになった。
◇
車を置いてから、三人は商店街を通った。夕方の搬出が終わったところだった。
八百屋は店を閉めるところだった。前の水は乾いていた。パン屋の籠は歩道に出ていなかった。魚屋の隣のシャッターは上がっていた。中に台が並んでいた。台の上には、何もなかった。角の花屋は閉まっていた。その二軒手前に、幟が立っていた。白い幟だった。風で少し傾いていた。
定食屋は、開いていた。
暖簾が出ていた。店の前に自転車が一台停まっていた。カウンターの中に、人がいた。
知らない顔だった。
布巾でカウンターを拭いていた。拭き終わって、布巾を絞った。
テレビが点いていた。バラエティだった。笑い声が、していた。
三人は通り過ぎた。誰も、何も言わなかった。
アーケードの端の街路樹で、葉が一枚だけ、風のない方へ裏返った。




