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避難は進みますが、逆向きの列があります

園の食堂は昼前から開いていた。長机を二つ繋げてある。椅子の数が合わなかった。相馬が事務所から一脚持ってきた。

 ドウジの前には、丼が三つ並んでいた。二つは空だった。

「それ、何杯目だ」

「四」

「四って言った時点で五だろ」

 凛が箸を置いた。手帳を開く手つきをした。

「体格で割れば普通なんだよ。背の高さと肩幅を入れれば、うちの平均より少し上ってだけ」

「じゃあ俺は」

 相馬が丼を持ち上げた。五つ目だった。

 凛が手帳を閉じた。

「……理屈にならないんだけど」

「勝ったな」

「何にだよ」

 ユキが天井を見た。

「その勝負、まだ続くの」

「そういやお前、ほんとに変身しなくなったな」

 凛が言った。ユキは、自分の掌を見た。

「……借りる形が、いらなくなったみたい」

 カイは椅子に浅く座っていた。前の皿には手をつけていない。箸も割っていなかった。リラは汁の椀を持っていた。二口飲んで、置いた。それきりだった。

 相馬が湯呑みを置いた。

「北の区画、朝に見てきた」

「どうだった」

「もう、戻せない」

 凛が短く息を吐いた。

「じゃあ、人だけだね」

「動かせるうちに動かす。それだけだ」

 ドウジが四杯目を空にした。飯粒が一つ、机に落ちた。ドウジは指で拾って、食べた。

 ユキが箸を止めた。

「今の、見なかったことにする」

「うまいぞ」

「そういう話じゃない」

 相馬が笑った。凛も笑った。ドウジは五杯目に手を伸ばした。

 道は二つ手前の交差点で封鎖されていた。六人は車を降りて歩いた。舗装の割れ目から緑が上がっている。塀を越えて、家の壁を伝っていた。二階の窓まで届いている家が、三軒あった。

 風はあった。葉は動いていた。音は、それだけだった。

 相馬が足を止めた。電線を見上げた。何も、止まっていなかった。屋根にも、いなかった。

「鳥がいない」

 凛が空を見た。すぐに目を戻した。誰も、続けなかった。

 縁の手前に長机が出ていた。市の腕章をつけた人間が四人。バスが二台停まっていて、一台は扉を開けていた。列は歩道に沿って伸びていた。荷物はどれも小さかった。犬を抱えた老人がいた。子どもが二人、しゃがんで足元を見ていた。係員が名簿を持っていた。運転手が扉の脇に立って煙草の箱を出し、それから、箱を戻した。

 誘導の声が前の方で上がった。列が、少し進んだ。

 ドウジが縁へ歩いていった。カイが右の路地に折れた。相馬は列の後ろについた。凛が反対側の歩道へ渡った。ユキが掌を上に向けた。リラは列の先頭の方へ歩いた。

 打ち合わせは、なかった。なかったのに、六人は六箇所に散った。

 ユキの指の先に、点が浮いた。いくつも浮いた。塀の上にも、屋根の上にもあった。

 バスの扉が閉まった。

 最初に動いたのは、塀の緑だった。表面が波打ち、継ぎ目から採取体が押し出た。三体出た。すぐに四体目が続いた。

 ドウジが正面に入った。一体目を肩で受けた。足が半歩下がって、止まった。そのまま押し返す。二体目が横から来た。ドウジが腕を回して地面に落とし、上から膝を入れた。

 相馬が工事用の柵を引きずってきた。列との間に二枚並べ、足を踏んで固定する。三体目が柵にぶつかった。越えられずに横へ流れた。流れた先に、凛がいた。

 凛が玉を弾いた。落ちた先から蛇が伸び、伸びた先が輪になった。採取体は輪の中で足を止めた。凛は見届けずに、次を見た。

 ユキが掌を上げていた。塀の上に点が浮いた。屋根の上にも浮いた。数が増えた。路地の奥に、一つだけ低く浮いた。

 カイが路地へ入った。奥で音が二つ鳴った。カイが子どもを抱えて出てきた。列の後ろへ渡した。渡してすぐ、路地へ戻った。

 リラが輪の前に立った。指を伸ばした。点に触れた。沈んだ。緑が色を失って崩れた。リラは、次の輪へ歩いた。

 列は進んでいた。二台目のバスが扉を開けた。

 塀が二か所で破れた。柵の端が押された。ドウジは正面から動けない。カイが端に入った。押していた個体を横から倒した。相馬が柵を一枚継ぎ足して、踏んで固定した。

 ユキの点が、列の後ろに浮いた。凛が振り向いた。線が先に届いた。輪が閉じた。ドウジの正面が薄くなった。相馬が柵を前に出して塞いだ。柵の脚が浮いた。ユキが片手を下ろして押さえた。空いた手のままで、点を上げ続けた。

 リラが列の後ろまで来た。指を落とした。沈んだ。

 最後の一人がバスに乗った。扉が閉まった。バスが縁沿いに動き出した。列のいた場所には、荷物の紐が一本、落ちていた。

 緑は静かになった。ドウジが息をしていた。相馬が柵の足を踏み直した。

 塀の向こうが、また波打った。

 ユキの掌の上に点が浮いた。数は、前より多かった。

 三体が同時に来た。ドウジが一体を捕まえた。もう一体が壁を登った。三体目が路地へ抜けた。カイが追った。

 壁を登った個体は、二階の窓枠にかかった。ユキが工事の足場に上がった。二段目まで上がって、掌を向ける。点が浮いた。個体が窓枠を蹴った。足場の支柱に当たった。金具が外れた。板が傾いた。

 ユキの足が滑った。体が、外へ出た。

 リラの膝が、先に折れた。足が地を蹴った。上体は遅れて回った。二歩で足場の下に入った。リラの右手が上がった。ユキの手が下りてきた。

 指が、噛み合った。

 受け方が、様式のように綺麗だった。

 二人は転がって止まった。ユキが先に起きた。リラは片膝をついたままだった。噛み合った手は、まだ離れていなかった。リラの目は、自分の指のところにあった。

「……今、私は」

 リラが口を閉じた。手を離した。

「なんでもないわ」

 リラが立った。歩き出した。歩き出すまでに、一拍あった。

 相馬が見ていた。凛が見ていた。ユキも見ていた。誰も、何も言わなかった。

 塀の継ぎ目が押し出た。ドウジが捕まえていた個体を投げた。投げた先で二体が倒れた。相馬が柵を引きずって間に置き、足で踏んだ。凛が玉を弾いた。落ちた先から蛇が伸びて、輪になった。

 ユキが立ち上がった。掌を上げた。点が浮いた。塀の上にも、路地の口にも浮いた。

 リラが輪の前まで歩いた。指を落とした。沈んだ。次の輪へ歩いた。

 緑が引いたあと、縁は静かになった。列は半分になっていた。三台目のバスが来て停まった。荷物を持った人が乗り込んでいた。

 歩道の人の流れは、二つになっていた。

 片方は、バスへ向かっていた。

 もう片方は、縁へ向かっていた。

 数は多くなかった。六人か七人だった。間隔はばらばらだった。先頭は自転車を押した男だった。次は買い物かごを提げた老人だった。急いでいる者はいなかった。振り返る者も、いなかった。

 係員が先頭の男に声をかけた。男が立ち止まった。係員が何か言った。男が首を振った。係員はもう一度言った。それから、体を横にずらした。男が自転車を押して通った。係員は、手を出さなかった。次に老人が来た。係員は同じことをした。老人も通った。係員は、腕章の位置を直した。

 凛が立ち止まって、それを見ていた。ユキが掌を下ろした。

 相馬は柵の脚を踏み直しているところだった。顔を上げた。

 逆向きの流れの後ろの方に、見た顔があった。

 定食屋の夫だった。前掛けはしていなかった。半袖だった。腕の緑は肘の上まで来ていた。指の付け根にも回っていた。歩き方は、いつもと同じだった。

 相馬が柵から手を離した。

「おやじさん」

 夫が振り返った。普通に、振り返った。相馬を見て、笑った。

「あ、どうも」

「……どこ行くんですか」

「困ってないんです。これが」

 夫は腕を軽く上げて見せた。それから前を向いた。歩き出した。

 少し後ろから、女が来た。定食屋の妻だった。買い物袋を提げていた。袋は、膨らんでいなかった。妻は相馬の前まで来て足を止めた。会釈をした。

「あの人がいるので」

 妻はもう一度会釈をした。それから、夫の背中の方へ歩いた。

 相馬の手が上がった。肘の高さで止まった。指が開いた。

 手は、下りた。

 相馬は柵の脚に足を戻した。

 凛は見ていた。ユキも見ていた。二人とも、動かなかった。係員は、次の一人に声をかけていた。

 夫が縁のところで足を止めた。妻が追いついた。二人は並んだ。緑の間に、入っていった。

 歩道の端で係員が長机の脚を畳んでいた。三台目のバスの扉が閉まった。ドウジが柵を一枚持ち上げて肩に載せた。カイが路地から出てきた。ユキが掌を上げた。

 点は、浮かなかった。

 車が縁を離れた。相馬が運転していた。凛が助手席にいた。ユキは後ろに座っていた。

 封鎖の柵は途中まで残っていた。相馬は徐行した。柵が切れたところで速度を戻した。後ろに積んだ柵が段差で鳴った。相馬は速度を落とさなかった。窓は開けたままだった。風が入っていた。

 凛は手帳を出さなかった。膝の上で手を組んでいた。窓の外を見ていた。信号で車が止まった。歩道を自転車が二台通った。二台とも、買い物の袋を提げていた。

 ユキは自分の手を見ていた。膝に置いたままだった。指は動かなかった。ずっと、見ていた。

 相馬が口を開いた。息が出た。それだけだった。口を閉じた。ハンドルを持ち直した。

 凛のポケットで音が鳴った。玉が一度鳴った。凛はポケットに手を入れなかった。音は続かなかった。

 信号が青になった。車が動いた。

 商店街の手前まで来たところで、遠くから音が来た。

 鐘だった。低かった。前より、大きかった。ハンドルに当たった相馬の指が、一度動いた。

「……鳴ってんな」

 凛は窓の外を見たままだった。ユキは手を見たままだった。

 鐘は三つ鳴って、止んだ。車は走り続けた。相馬が窓を閉めた。エンジンの音だけになった。

 車を置いてから、三人は商店街を通った。夕方の搬出が終わったところだった。

 八百屋は店を閉めるところだった。前の水は乾いていた。パン屋の籠は歩道に出ていなかった。魚屋の隣のシャッターは上がっていた。中に台が並んでいた。台の上には、何もなかった。角の花屋は閉まっていた。その二軒手前に、幟が立っていた。白い幟だった。風で少し傾いていた。

 定食屋は、開いていた。

 暖簾が出ていた。店の前に自転車が一台停まっていた。カウンターの中に、人がいた。

 知らない顔だった。

 布巾でカウンターを拭いていた。拭き終わって、布巾を絞った。

 テレビが点いていた。バラエティだった。笑い声が、していた。

 三人は通り過ぎた。誰も、何も言わなかった。

 アーケードの端の街路樹で、葉が一枚だけ、風のない方へ裏返った。


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