救いたいのですが、順番があります
定食屋は昼の山を越えていた。暖簾は出たままで、客は窓際に二組残っていた。テレビは棚の上で点いている。特売の品名が読み上げられ、次に週末の天気が出た。誰も画面を見なかった。
「来たか」
夫が前掛けで手を拭きながら出てきた。顔の色はよかった。声も張っていた。相馬は帳面を出して日付を確かめた。月の二度目だった。
「先に飯だろ」
「後です」
「冷めるぞ」
「冷めません」
夫は厨房へ声を掛けた。妻の返事が返ってきた。姿は、出てこなかった。鍋の音が続いていた。
三人は奥の座敷に上がった。夫が袖をまくって腕を出す。緑は肘の下に薄く残っていた。ユキがその前に座った。
ユキは掌をかざした。点が浮いた。数は前と変わらなかった。ユキは一つずつ押さえていった。
終わるまでが、前より少し長かった。
夫は腕を下ろした。相馬は帳面に日付を書いた。凛は座布団を端へ寄せた。
膳が三つ出てきた。飯は三つとも山になっていた。
「多いです」
「そんなことない」
「見て言ってます」
「若いんだから食え」
凛が自分の分から一箸ぶんを相馬の椀に移した。相馬が同じだけユキに回した。ユキが黙って夫の膳に戻した。夫は笑って戻し返した。凛が二人の椀を交換した。相馬の椀だけが、また山になった。飯の永久機関である。
テレビは天気を繰り返していた。
相馬の端末が鳴った。博士からだった。相馬は箸を置いて画面を見た。
「公園だ。池のとこに、子どもが一人いるってよ」
凛が立った。ユキは残りを二口で片付けた。夫が包みを持たせようとした。凛が財布を出した。夫は受け取らなかった。
三人は暖簾を潜って出た。
◇
公園は平日の昼で、人がいなかった。門を入ってすぐに池があった。水面に光が散っている。風が来るたびに、散り方が変わった。桜はとうに終わって葉だけになっていた。ブランコは二つとも止まっていた。滑り台の金属が白く光っている。鯉が水草の際を、ゆっくり回っていた。
三人は砂利の道を通って、池の方へ歩いた。
「自転車で来りゃよかったな」
「二人乗りは無しでしょ」
「三人乗ればいいだろ」
「もっと無しでしょ」
ユキはポケットの小銭を探して、小さな木彫りのものを一度、奥へ押し戻した。自販機は入口の脇にあった。三人はそのまま通り過ぎた。
ベンチは池のこちら側に一つあった。子どもが端に座っていた。小学校の低学年くらいだった。足が、地面に届いていなかった。半袖から出た腕に、緑が薄く散っていた。子どもは水の方を見ていた。手は膝の上に置いたままだった。
母親は少し離れた木の下に立っていた。こちらに気づいて会釈をした。相馬が会釈を返した。母親は、その場から動かなかった。
門の方から三人が来た。リラが先を歩いていた。ドウジとカイは、池の外側へ回っていった。
「遅いわ」
「歩いて来たんだよ」
リラはベンチの正面まで来て足を止めた。子どもがこちらを見た。ユキがベンチの前にしゃがんだ。
◇
ユキは膝をついたまま、動かなかった。子どもの腕を見ていた。緑は肘から手首の手前まで散っていた。ユキの手は、膝の上にあった。
「……救えるなら、救いたい」
「順番があるわ」
リラは水面の方を見ていた。ユキは膝の上で指を組んだ。それから、解いた。相馬と凛はベンチの後ろに立っていた。
リラが、ベンチの前にしゃがんだ。
「大丈夫よ。痛くないからね」
「動かないで。目は閉じていて」
子どもが目を閉じた。ユキが掌をかざした。
点が腕に浮いた。定食屋の倍はあった。ユキは浮かせた点をそのまま置いた。リラが指を一本立てた。浮いていた点が下へ沈んだ。沈み切るまでに、間があった。ユキは次を浮かせた。リラがそれを沈めた。浮くのと沈むのが重なった。ユキの掌が肘から手首へ進み、リラの指が後ろから追った。点は、出るそばから沈んでいった。それでも腕の緑は残っていた。ユキは出し続けた。リラは沈め続けた。
池で水の音がした。鯉が向きを変えた音だった。子どもは目を閉じたままだった。
ユキの掌が手首まで来た。そこから先の点は、浮くのが遅かった。ユキは掌を戻して、同じところをもう一度なぞった。点が浮いた。リラの指がそれを沈めた。沈むのに、前の倍かかった。ユキの額に汗が出ていた。リラの指は、下ろされなかった。
ユキの手が、動きかけた。
「――待つのよ」
ユキの手が止まった。
沈みかけていた点が、下まで落ちた。ユキがまた掌を進めた。リラの指がついてきた。手首の先の点が、一つずつ消えていった。最後の一つが沈むまでに、一番長くかかった。
腕の緑が薄くなった。輪郭が崩れて、色が抜けていった。
ユキが掌を下ろした。息を一つ吐いた。リラが立ち上がって、指を下ろした。
子どもが目を開けて、自分の腕を見た。それから、水の方を見た。
◇
木の下で、足音がした。母親が歩いてきた。
母親は、微笑んでいた。歩き方はゆっくりだった。両腕を前に出していた。
袖の先から指まで、緑だった。指は、一本ずつ緑だった。
「よかったね」
母親は、子どもの方へ歩いた。
全員が、一瞬遅れた。リラの指は上がらなかった。ユキは膝をついたままだった。
相馬が先に動いた。母親の前に肩から入った。凛が横に回って腕を取った。二人で押さえた。
母親は、抵抗しなかった。押さえられたまま立っていた。相馬の腕の中で、微笑んでいた。
「その子、寒がりなんです」
相馬の腕に力が入った。母親は足を動かさなかった。凛は腕を取ったままだった。母親はもう一度子どもの方を見て、首を少し傾けた。微笑みは、変わらなかった。
子どもがベンチから降りた。
「おかあさん」
ユキが子どもの前に手を出した。子どもはその手を避けて、一歩出た。
「おかあさん」
母親が微笑んだ。
「おかあさん」
三度目で、声が裂けた。子どもは前に出ようとして、砂利で足を滑らせた。それでも呼んだ。四度目は、言葉にならなかった。ユキが子どもを抱えた。子どもはユキの腕の中で足を蹴った。声は止まらなかった。母親は子どもの方を見て、微笑んでいた。
門の外に車が止まった。青い上着の二人が降りてきた。一人が相馬に何か言った。相馬が頷いて、手を離した。場所を空けた。凛が腕から手を離した。二人が母親を挟んで歩かせた。母親は、歩いた。もう一人が来て、子どもの手を引いた。ユキが腕を解いた。子どもは連れられて、門の方へ歩いた。扉が閉まった。車は出ていった。
池で、水の音がした。
凛がベンチの座面を手で払った。相馬は帳面を出して日付を書いた。ユキは砂利の上に座り込んでいた。ドウジとカイが外周から戻ってきた。リラは池の方を向いていた。風が来て、水面の光が散り方を変えた。滑り台の金属は、まだ白く光っていた。
相馬が帳面を閉じた。
「腹減ったな」
「食べたばっかりでしょ」
「二口しか食ってねえ」
「二口はユキでしょ」
「じゃあ俺は一口だ」
「減ってるじゃない」
◇
撤収は相馬と凛がやっていた。ベンチの周りの砂利を均していた。ドウジが荷物をまとめ、カイは門の方を見ていた。
ユキは池のふちに座った。石は乾いていた。袋を出して口を開けた。麩を一つ取って、水に落とした。麩は浮いたまま、流れなかった。風が来て、少しだけ動いた。ユキはもう一つ落とした。二つは離れていった。水面の光が、その間で揺れた。
麩は、形を崩さずに浮いていた。
鯉は、来なかった。
ユキは三つ目を落とした。水草の際で影が動いた。鯉が向きを変えた。ゆっくり寄ってきた。鯉は、一匹だけだった。背が水の下で光った。麩の下まで来て、口を出した。一つ目が消えた。二つ目も消えた。三つ目は少し流れていた。鯉は、それも追った。
リラは、その場から動かなかった。
ユキは袋の口を閉じた。それから開け直して、一つ落とした。
「王女って、暗いところばっかりいるよね」
「暗がりが好きな訳じゃない。勘違いには慣れてるけど」
鯉が麩を追って向きを変えた。麩は口の先で沈んだ。
「……」
ユキの口は開いたままだった。次が、出てこなかった。
「……うん」
ユキはポケットの上に手を置いた。布の上から、押さえた。
リラが歩き出した。ユキは袋を畳んで立ち上がった。水面の光は、まだ散っていた。
◇
園の事務所は、電気が一つだけ点いていた。相馬は椅子を後ろ向きにして座っていた。自販機の缶を二つ持っていた。ユキが入ってきた。相馬が一つ投げた。ユキは受け損ねて、拾った。
「風呂沸いてんぞ」
「凛は」
「先に入った。じゃんけんで勝った」
「持ち越しは」
「足した。それでも負けた」
「足しても負けるんだ」
「次はもっと足す」
ユキが笑った。缶の口を開けた。相馬も開けた。窓は開けたままだった。外で虫が鳴いていた。事務所の時計の音が続いていた。
相馬は、缶を両手で持っていた。
「……似てんのは、分かるけどな」
ユキは缶の口のところを見ていた。指で縁をなぞっていた。
「重ねたいのは分かるけど、やめとけ」
相馬の声は静かだった。怒ってはいなかった。言い方は、いつもより柔らかかった。
「……うん」
相馬は缶を飲み干した。立ち上がって、椅子を元の向きに戻した。缶をゴミ箱に落とした。音が一つ鳴った。
「電気消しとけよ」
相馬は事務所を出ていった。振り返らなかった。廊下の板が三度鳴った。それから、遠くで戸が閉まった。
◇
朝礼は事務所の前だった。先月の客足の数字が読まれた。前の月より二百人少なかった。土日は変わっていなかった。落ちたのは、平日の午前だった。夏休みまでの目標が出た。掃除の当番が読まれた。売店の欠品が三つ挙がった。凛が手帳に書いた。相馬が返事をした。ユキは欠伸をしていた。
解散のあと、三人は買い出しに出た。商店街は朝の搬入が終わったところだった。八百屋が店の前に水を撒いていた。パン屋は籠を歩道まで出していた。魚屋の隣の店は、シャッターが下りていた。角の花屋は開いていた。バケツの水が朝日で光っていた。
「今日の当番は俺じゃないからな」
「昨日もそう言ってた」
「昨日も俺じゃなかった」
「アイスは三箱でしょ」
「四箱だ」
「三箱って書いたよ」
「四箱って言った」
「言ってない」
「じゃあ四箱買って三箱で書いとけ」
「意味わかんない」




