往診に来ましたが、まず食わされます
開園前の広場で、朝礼が始まった。集まったのは三人だけだった。
「昨日の客は四組」
相馬が帳面を読み上げた。
「増えたね。先週は三組だったし」
ユキが言った。
「皮肉かよ」
凛が欠伸を噛み殺した。相馬は帳面を閉じた。
「掃除の分担は昨日と同じ」
誰も返事をしなかった。返事のいらない分担だった。朝の光がもぎり台の屋根に当たっている。池の面が白く光っている。射的の屋台は雨戸を閉めたままだ。凛が箒を取りに歩き出した。
――そう。彼らの本業は、この寂れた遊園地の運営である。世界を救える三人の平常運転が、これだ。
事務所の電話が鳴った。相馬が受話器を取った。博士だった。
「商店街の定食屋は分かるか」
「ええ」
「例の皮膚症の相談だ。顔なじみだから、って指名だ」
「症状は」
「行けば分かる」
「毎回それですね」
「行けば分かる」
相馬は帳面の端に住所を書き付けた。
「森林公園のほうは正規のチームが回収を済ませた。そっちはもう考えなくていい」
「分かりました」
通話が切れた。相馬は受話器を戻して、二人を見た。
「仕事だ。定食屋に行く」
「往診かよ。俺たち何屋だ」
凛が上着を取った。
「道路管理」
「もう自分で言ってる……」
ユキが呟いた。三人は駐車場の軽トラへ歩いた。エンジンは二度目でかかった。門は開けたままにしておいた。どうせ午前の客は来ない。
◇
商店街のアーケードは、半分がシャッターを下ろしていた。定食屋の前にだけ、暖簾が出ていた。
昼前の店に客はいなかった。棚の上のテレビがニュースを流している。原因不明の植物性皮膚症の報告が、三つの県に広がっている。専門家は感染の可能性は低いと述べた。アナウンサーは次の話題に移った。
「おう、来なすった」
店主が厨房から顔を出した。厨房の奥で妻が会釈をする。鍋の湯気の向こうで、前掛けを直している。
「博士から聞きました。腕だそうですね」
「まず食ってからだ」
相馬が言い終える前に、丼が三つ並んだ。頼んでいない。飯はどれも、縁より上に盛られていた。
「多いですって」
「育ち盛りだろ」
「誰がですか」
凛はもう食っていた。ユキが箸を割った。店主は卓の脇に立って腕まくりをする。前腕に、葉脈のような模様が浮いていた。緑がかっている。手首から肘へ、枝分かれして伸びていた。
「かゆくもないんですよ、これが」
「いつからですか」
「十日くらい前かね。あとは腹が減って仕方ない。夜になると、店ん中が草の匂いでな」
ユキが箸を置いて、模様に目を近づけた。テレビでは天気予報が始まっていた。
引き戸が、開いた。
大男が身を屈めて入ってきた。鴨居に頭を擦った。続いて、少女が入ってきた。リラだった。
三人の箸が、止まった。大男は店を見回して舌打ちをした。
「先に来てやがったか」
「そっちも仕事?」
凛が訊いた。答えはなかった。大男は隣の卓の椅子を引いた。椅子が軋む。座ると膝が卓の裏に当たって、湯呑みが跳ねた。リラは向かいに腰を下ろした。何も言わない。
「お連れさんかい」
店主が首を傾げた。
「違います」
相馬と大男の声が、重なった。息ぴったりである。
店主は構わず丼を二つ増やした。大男の前の盛りだけ、さらに高かった。大男は睨んでから、食い始めた。
「あんた、名前は」
相馬が訊いた。
「……ドウジだ」
それきりだった。ユキは店主の腕とリラの顔を、順に見た。リラは店主の腕を一瞥して、窓の外へ目を移した。
「先に言っときますが、勘定は払いますからね」
「うちは診てもらう側だろ」
「それとこれとは別です」
店主は聞こえないふりで厨房へ戻った。ユキが箸を置いた。
「終わったら、腕をちゃんと見せてくださいね」
「食ってからでいいのかい」
「食べてからでいいです」
ドウジの丼は、もう空だった。早い。
◇
昼の営業まで間があった。店主が表の暖簾を仕舞ってきた。卓を一つ壁へ寄せて、場所を作る。店主が椅子に座り、ドウジは壁際で腕を組んだ。相馬と凛は卓の向こうに残った。凛は椅子を後ろに傾けて見ている。
「腕を貸してくださいね」
「痛いのかい」
「痛くないです。たぶん」
「たぶんて」
「保険は利かないぜ」
凛が言った。
「うちのツケでいいかい」
「勘定の話はさっき終わりました」
相馬が言った。
ユキが店主の前に膝をついた。両手を、模様の上にかざす。
店の換気扇が回る音だけが、していた。
掌の下で、葉脈の緑が濃くなった。濃くなった筋が、肘の内側の一点へ集まっていく。点は豆粒ほどの大きさだった。光るというより、透けて見えた。ドウジは、動かなかった。
「見えました。ここです」
「動かないで」
リラが立って、横から手を差し出した。掌を上へ向けた、受けの構え。指が、均等に開いている。
ユキの目が、その手に留まった。
――何、今の。
点が浮き上がりかけて、止まった。ユキは目を戻した。
リラの指がわずかに沈む。点がそれに従って沈んだ。筋の緑が一段薄くなり、それきり薄くならなかった。リラが手を引いた。
「浅いところで済んだわね。深くまで根が行っていたら、引き上げられなかった」
店主が腕を曲げて伸ばした。模様は残っている。色だけが、落ち着いていた。
「痺れも何もないな」
店主は立ち上がって厨房の柱に掴まり、二度屈伸をした。
「膝は元からだな」
誰も笑わなかったが、店主は満足そうだった。
「消えたわけじゃないです。進まなくなっただけ。また様子を見に来ます」
ユキが言った。店主は腕をもう一度撫でて、袖を下ろした。それから、頭を下げた。
「……先生、ありがとうございます」
「先生ではないわ」
◇
テレビは通販の枕を映していた。厨房の戸が開いた。妻が盆に湯呑みを載せて出てきて、卓へ順に置いていった。
置く手の袖口から、緑が覗いた。
筋は手の甲を渡って、指の節まで届いていた。夫の腕より、色が濃かった。
湯呑みはリラとドウジの前にも置かれた。二人とも、手をつけなかった。ユキが立った。
「奥さんも見せてください。今なら」
「いいんですよ、私は」
妻は微笑んで、盆を胸に当てた。
「お茶が冷めますから」
「進んでます。ご主人より」
「困ってないんです。これが」
湯呑みから湯気が立っていた。誰も、手を伸ばさなかった。
「もう人間じゃねえ」
ドウジが壁から離れた。一歩踏み出した。相馬の腕が、胸の前に横から入った。
「客商売の店で暴れんな」
「どけ」
「どかない。座れ」
「見えてねえのか」
「見えてる」
表で、ガラス戸が鳴った。
街路樹の枝が、戸へ伸びていた。葉が一斉に裏を返している。枝の先が桟を叩いた。
ドウジが先に出た。枝を素手で受ける。受けた枝が腕に巻きついた。相馬が続いた。緑に光る腕で幹を掴む。枝の巻きが緩んだ。ドウジが腕から巻きを引き抜いて撓め、相馬が撓んだ枝をまとめて幹へ戻した。枝は戻った形のまま、動かなくなった。葉の裏が、表に返る。通りには誰もいなかった。
初共同作業である。息は合っていた。二人とも、絶対に認めないだろうが。
二人は店へ戻った。妻は、夫の隣に立っていた。
「この人と、店やっていくだけです。何も、変わりませんから」
夫は妻を見て、何も言わなかった。ユキは口を開きかけて、閉じた。凛のポケットで玉が鳴った。リラは戸口の外へ目を向けていた。
「月に二度は寄ります。ご主人の経過も見たいので」
相馬が夫に言った。夫が頷いた。妻は頭を下げた。
「お代は要りませんからね」
「取ってください」
妻は笑って、答えなかった。相馬は湯呑みの下に札を挟んだ。五人は表へ出た。相馬が最後に出て、戸口で振り返った。
「また来るわ」
引き戸が、閉まった。
◇
リラは商店街の角で、反対へ折れていった。挨拶はなかった。誰も呼び止めなかった。
軽トラの荷台に、ドウジが乗った。座ると車体が沈んだ。
「犬みてぇだな」
凛が窓から首を出して言った。
「狼だ」
「乗ってる時点で負けだろ」
相馬が言った。ドウジは答えずに、荷台の縁へ肘を置いた。軽トラが走り出す。商店街を抜けて、川沿いの道へ出た。信号で止まるたびに、車体が前へ沈んだ。積載量三百五十キロの軽トラに数百年物の狼男。過積載の疑いがある。
車内は静かだった。ユキは助手席の窓の外を見ていた。川面が光っては、切れた。
凛が、ぽつりと言った。
「……あいつの冷たさ。装ってるな」
「なんだよ急に」
「いや。なんでもない」
相馬はギアを変えた。道は園へ続く坂に入った。ユキは窓の外を見たままだった。荷台で気配が動いた。ミラーの中で、ドウジが寝返りを打っていた。
「着くまで寝るなよ。降ろせねえぞ」
誰も返事を期待していなかった。坂の上に、園の門が見えてきた。開けたままの、門だった。
◇
――夜。カイは街を高いところから見ていた。
人の念は、夜も流れている。眠りの浅い家で温くなり、起きている窓の下で濃くなる。カイはその流れから優しさだけを選り分けて舐め取る。一口で足りる。残りは捨てる。千年続けてきた、行儀のいい食い方である。
今夜は、流れに薄い場所が、一つあった。
商店街の一角。灯りは並びのどことも変わらない。人の影も動いている。だが、念だけが薄かった。舐めても味の乗らない薄さだった。優しさが無いわけではない。量が、足りない。一口ぶんに、届かない。
カイはそこを離れて、屋根の上を渡った。どこの流れも、普段どおりに温かかった。薄いのは、あの一角だけだった。
腹が減るということを、カイは久しく忘れていた。
今夜は、その手触りだけが、戻りかけていた。
街の灯りは、変わらず並んでいた。
◇
数日後の昼だった。三人は商店街へ昼飯を買いに出てきていた。
アーケードのシャッターは相変わらず半分閉まっている。八百屋の軒に新米の札が下がっていた。金物屋の前で犬が寝ていた。角の空き地に、石焼き芋の屋台は出ていなかった。焼けた石の匂いも、しなかった。
定食屋は暖簾を出していた。店先で夫がホースの水を撒いている。撒いた水が舗道の色を変えていった。相馬が片手を上げた。夫が頭を下げて、また水を撒いた。
「昼は何にする」
「蕎麦」
「お前は毎日蕎麦だな」
「毎日は食ってない。一日置きだ」
「昨日も食べてたじゃない」
「だから今日の分だ」
凛がパン屋の前で足を緩めて、また歩いた。相馬が袋を提げ直した。
「食ったら園に戻るぞ。午後の客が来る」
「来ないでしょ」
「四組来るかもしれねえだろ」




