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往診に来ましたが、まず食わされます

開園前の広場で、朝礼が始まった。集まったのは三人だけだった。

「昨日の客は四組」

 相馬が帳面を読み上げた。

「増えたね。先週は三組だったし」

 ユキが言った。

「皮肉かよ」

 凛が欠伸を噛み殺した。相馬は帳面を閉じた。

「掃除の分担は昨日と同じ」

 誰も返事をしなかった。返事のいらない分担だった。朝の光がもぎり台の屋根に当たっている。池の面が白く光っている。射的の屋台は雨戸を閉めたままだ。凛が箒を取りに歩き出した。

 ――そう。彼らの本業は、この寂れた遊園地の運営である。世界を救える三人の平常運転が、これだ。

 事務所の電話が鳴った。相馬が受話器を取った。博士だった。

「商店街の定食屋は分かるか」

「ええ」

「例の皮膚症の相談だ。顔なじみだから、って指名だ」

「症状は」

「行けば分かる」

「毎回それですね」

「行けば分かる」

 相馬は帳面の端に住所を書き付けた。

「森林公園のほうは正規のチームが回収を済ませた。そっちはもう考えなくていい」

「分かりました」

 通話が切れた。相馬は受話器を戻して、二人を見た。

「仕事だ。定食屋に行く」

「往診かよ。俺たち何屋だ」

 凛が上着を取った。

「道路管理」

「もう自分で言ってる……」

 ユキが呟いた。三人は駐車場の軽トラへ歩いた。エンジンは二度目でかかった。門は開けたままにしておいた。どうせ午前の客は来ない。

 商店街のアーケードは、半分がシャッターを下ろしていた。定食屋の前にだけ、暖簾が出ていた。

 昼前の店に客はいなかった。棚の上のテレビがニュースを流している。原因不明の植物性皮膚症の報告が、三つの県に広がっている。専門家は感染の可能性は低いと述べた。アナウンサーは次の話題に移った。

「おう、来なすった」

 店主が厨房から顔を出した。厨房の奥で妻が会釈をする。鍋の湯気の向こうで、前掛けを直している。

「博士から聞きました。腕だそうですね」

「まず食ってからだ」

 相馬が言い終える前に、丼が三つ並んだ。頼んでいない。飯はどれも、縁より上に盛られていた。

「多いですって」

「育ち盛りだろ」

「誰がですか」

 凛はもう食っていた。ユキが箸を割った。店主は卓の脇に立って腕まくりをする。前腕に、葉脈のような模様が浮いていた。緑がかっている。手首から肘へ、枝分かれして伸びていた。

「かゆくもないんですよ、これが」

「いつからですか」

「十日くらい前かね。あとは腹が減って仕方ない。夜になると、店ん中が草の匂いでな」

 ユキが箸を置いて、模様に目を近づけた。テレビでは天気予報が始まっていた。

 引き戸が、開いた。

 大男が身を屈めて入ってきた。鴨居に頭を擦った。続いて、少女が入ってきた。リラだった。

 三人の箸が、止まった。大男は店を見回して舌打ちをした。

「先に来てやがったか」

「そっちも仕事?」

 凛が訊いた。答えはなかった。大男は隣の卓の椅子を引いた。椅子が軋む。座ると膝が卓の裏に当たって、湯呑みが跳ねた。リラは向かいに腰を下ろした。何も言わない。

「お連れさんかい」

 店主が首を傾げた。

「違います」

 相馬と大男の声が、重なった。息ぴったりである。

 店主は構わず丼を二つ増やした。大男の前の盛りだけ、さらに高かった。大男は睨んでから、食い始めた。

「あんた、名前は」

 相馬が訊いた。

「……ドウジだ」

 それきりだった。ユキは店主の腕とリラの顔を、順に見た。リラは店主の腕を一瞥して、窓の外へ目を移した。

「先に言っときますが、勘定は払いますからね」

「うちは診てもらう側だろ」

「それとこれとは別です」

 店主は聞こえないふりで厨房へ戻った。ユキが箸を置いた。

「終わったら、腕をちゃんと見せてくださいね」

「食ってからでいいのかい」

「食べてからでいいです」

 ドウジの丼は、もう空だった。早い。

 昼の営業まで間があった。店主が表の暖簾を仕舞ってきた。卓を一つ壁へ寄せて、場所を作る。店主が椅子に座り、ドウジは壁際で腕を組んだ。相馬と凛は卓の向こうに残った。凛は椅子を後ろに傾けて見ている。

「腕を貸してくださいね」

「痛いのかい」

「痛くないです。たぶん」

「たぶんて」

「保険は利かないぜ」

 凛が言った。

「うちのツケでいいかい」

「勘定の話はさっき終わりました」

 相馬が言った。

 ユキが店主の前に膝をついた。両手を、模様の上にかざす。

 店の換気扇が回る音だけが、していた。

 掌の下で、葉脈の緑が濃くなった。濃くなった筋が、肘の内側の一点へ集まっていく。点は豆粒ほどの大きさだった。光るというより、透けて見えた。ドウジは、動かなかった。

「見えました。ここです」

「動かないで」

 リラが立って、横から手を差し出した。掌を上へ向けた、受けの構え。指が、均等に開いている。

 ユキの目が、その手に留まった。

 ――何、今の。

 点が浮き上がりかけて、止まった。ユキは目を戻した。

 リラの指がわずかに沈む。点がそれに従って沈んだ。筋の緑が一段薄くなり、それきり薄くならなかった。リラが手を引いた。

「浅いところで済んだわね。深くまで根が行っていたら、引き上げられなかった」

 店主が腕を曲げて伸ばした。模様は残っている。色だけが、落ち着いていた。

「痺れも何もないな」

 店主は立ち上がって厨房の柱に掴まり、二度屈伸をした。

「膝は元からだな」

 誰も笑わなかったが、店主は満足そうだった。

「消えたわけじゃないです。進まなくなっただけ。また様子を見に来ます」

 ユキが言った。店主は腕をもう一度撫でて、袖を下ろした。それから、頭を下げた。

「……先生、ありがとうございます」

「先生ではないわ」

 テレビは通販の枕を映していた。厨房の戸が開いた。妻が盆に湯呑みを載せて出てきて、卓へ順に置いていった。

 置く手の袖口から、緑が覗いた。

 筋は手の甲を渡って、指の節まで届いていた。夫の腕より、色が濃かった。

 湯呑みはリラとドウジの前にも置かれた。二人とも、手をつけなかった。ユキが立った。

「奥さんも見せてください。今なら」

「いいんですよ、私は」

 妻は微笑んで、盆を胸に当てた。

「お茶が冷めますから」

「進んでます。ご主人より」

「困ってないんです。これが」

 湯呑みから湯気が立っていた。誰も、手を伸ばさなかった。

「もう人間じゃねえ」

 ドウジが壁から離れた。一歩踏み出した。相馬の腕が、胸の前に横から入った。

「客商売の店で暴れんな」

「どけ」

「どかない。座れ」

「見えてねえのか」

「見えてる」

 表で、ガラス戸が鳴った。

 街路樹の枝が、戸へ伸びていた。葉が一斉に裏を返している。枝の先が桟を叩いた。

 ドウジが先に出た。枝を素手で受ける。受けた枝が腕に巻きついた。相馬が続いた。緑に光る腕で幹を掴む。枝の巻きが緩んだ。ドウジが腕から巻きを引き抜いて撓め、相馬が撓んだ枝をまとめて幹へ戻した。枝は戻った形のまま、動かなくなった。葉の裏が、表に返る。通りには誰もいなかった。

 初共同作業である。息は合っていた。二人とも、絶対に認めないだろうが。

 二人は店へ戻った。妻は、夫の隣に立っていた。

「この人と、店やっていくだけです。何も、変わりませんから」

 夫は妻を見て、何も言わなかった。ユキは口を開きかけて、閉じた。凛のポケットで玉が鳴った。リラは戸口の外へ目を向けていた。

「月に二度は寄ります。ご主人の経過も見たいので」

 相馬が夫に言った。夫が頷いた。妻は頭を下げた。

「お代は要りませんからね」

「取ってください」

 妻は笑って、答えなかった。相馬は湯呑みの下に札を挟んだ。五人は表へ出た。相馬が最後に出て、戸口で振り返った。

「また来るわ」

 引き戸が、閉まった。

 リラは商店街の角で、反対へ折れていった。挨拶はなかった。誰も呼び止めなかった。

 軽トラの荷台に、ドウジが乗った。座ると車体が沈んだ。

「犬みてぇだな」

 凛が窓から首を出して言った。

「狼だ」

「乗ってる時点で負けだろ」

 相馬が言った。ドウジは答えずに、荷台の縁へ肘を置いた。軽トラが走り出す。商店街を抜けて、川沿いの道へ出た。信号で止まるたびに、車体が前へ沈んだ。積載量三百五十キロの軽トラに数百年物の狼男。過積載の疑いがある。

 車内は静かだった。ユキは助手席の窓の外を見ていた。川面が光っては、切れた。

 凛が、ぽつりと言った。

「……あいつの冷たさ。装ってるな」

「なんだよ急に」

「いや。なんでもない」

 相馬はギアを変えた。道は園へ続く坂に入った。ユキは窓の外を見たままだった。荷台で気配が動いた。ミラーの中で、ドウジが寝返りを打っていた。

「着くまで寝るなよ。降ろせねえぞ」

 誰も返事を期待していなかった。坂の上に、園の門が見えてきた。開けたままの、門だった。

 ――夜。カイは街を高いところから見ていた。

 人の念は、夜も流れている。眠りの浅い家で温くなり、起きている窓の下で濃くなる。カイはその流れから優しさだけを選り分けて舐め取る。一口で足りる。残りは捨てる。千年続けてきた、行儀のいい食い方である。

 今夜は、流れに薄い場所が、一つあった。

 商店街の一角。灯りは並びのどことも変わらない。人の影も動いている。だが、念だけが薄かった。舐めても味の乗らない薄さだった。優しさが無いわけではない。量が、足りない。一口ぶんに、届かない。

 カイはそこを離れて、屋根の上を渡った。どこの流れも、普段どおりに温かかった。薄いのは、あの一角だけだった。

 腹が減るということを、カイは久しく忘れていた。

 今夜は、その手触りだけが、戻りかけていた。

 街の灯りは、変わらず並んでいた。

 数日後の昼だった。三人は商店街へ昼飯を買いに出てきていた。

 アーケードのシャッターは相変わらず半分閉まっている。八百屋の軒に新米の札が下がっていた。金物屋の前で犬が寝ていた。角の空き地に、石焼き芋の屋台は出ていなかった。焼けた石の匂いも、しなかった。

 定食屋は暖簾を出していた。店先で夫がホースの水を撒いている。撒いた水が舗道の色を変えていった。相馬が片手を上げた。夫が頭を下げて、また水を撒いた。

「昼は何にする」

「蕎麦」

「お前は毎日蕎麦だな」

「毎日は食ってない。一日置きだ」

「昨日も食べてたじゃない」

「だから今日の分だ」

 凛がパン屋の前で足を緩めて、また歩いた。相馬が袋を提げ直した。

「食ったら園に戻るぞ。午後の客が来る」

「来ないでしょ」

「四組来るかもしれねえだろ」


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