第2話 キュウと名付けた朝
夜が明けても、腕の中の重さは消えてくれない。
名を失くした狐に、名をやる話です。台所と、ぬるい味噌汁と、やたら偉そうな付喪神つきで。
小狐は、朝になっても千吉の袖を離さなかった。
家まで連れて帰る途中も、玄関で長靴を脱ぐときも、濡れたタオルで体を拭いてやるときも、ずっと噛んでいる。昨夜、水の底であれだけ暴れた獣が、朝の光の中では、こんなに小さい。
「お前な。人の服を保存食か何かだと思ってるだろ」
「ちがう。これは捕獲じゃ」
「捕獲されてんの、たぶんお前のほうだぞ」
小狐はむっとした顔をした。鼻先だけがまだ湿っている。耳の先に泥がついていたので指で取ってやると、びくっと大げさに震えた。
「触るな、人間」
「はいはい。偉い偉い」
「雑に扱うでない! われは九尾ぞ。いずれ天地を揺らす大妖になる身じゃ」
「今はタオルにくるまった饅頭みたいだけどな」
小狐は本気で怒ったらしく、千吉の親指を噛んだ。同時に、尾の先で青い火がぱちんと弾ける。火は台所の流しへ飛び、昨夜から置きっぱなしの鍋をひとりでに鳴らした。
「おい、火ぃ出すな!」
「出しておらぬ! 勝手に出た!」
小狐のほうが驚いて、千吉の袖の奥へ潜り込む。
痛くはない。歯が小さすぎて、むしろ変な気持ちになる。噛む力の弱さが、この生き物の来し方を、勝手に語っている気がした。
台所は冷えていた。千吉はコンロで湯を沸かし、昨日の味噌汁を温め直す。具はワカメだけになっている。小狐は椀の湯気を警戒し、それから顔を突っ込んで、ワカメを一本くわえて引っ張った。
「熱っ」
「猫舌かよ」
「狐じゃ」
千吉は台所の隅に座り込み、祖父の仏壇へ目をやった。古い写真の祖父が、しかめっ面でこっちを見ている。生きていたころと、同じ顔だ。
「じっちゃん。拾った」
小狐が胸を張る。
「拾われてなどおらぬ。釣られてやったのじゃ」
「負け惜しみが立派だな」
仏壇の湯呑みの水を替え、線香を一本立てた。煙が細く上がる。
その煙が、途中で曲がった。
千吉は眉をひそめた。線香の煙が、床の間に置いた竿袋のほうへ、まっすぐ糸を引くように吸い寄せられている。
黒漆の竿が、かすかに鳴った。
ちりん。
鈴の音みたいだった。
「……今の、竿か?」
小狐が耳を伏せる。
「来る」
「何が」
「怒っておる」
黒漆の竿が、勝手に袋から滑り出た。
千吉は立ち上がろうとして、ちゃぶ台に膝をぶつけた。
「いって」
その間抜けな声の直後、部屋の空気が水底みたいに冷たくなった。
竿の影が、畳の上で伸びる。影は、女の形になった。
長い黒髪。白い着物。目元に朱を差した、ぞっとするほど綺麗な女だった。足はない。畳から少し浮いている。
「千吉」
女が言った。声は静かなのに、芯に棘があった。
「夜釣りに出るなら、仕掛けの確認を怠るなと、あれほど言われていたはずだ」
千吉は口を開けたまま固まった。
「……どちらさん」
「正宗」
「竿が喋った」
「喋らせたのはお前だ。あの池の底に沈んでいた九尾の幼獣を釣り上げたせいで、封がゆるんだ」
小狐が千吉の背中に隠れる。
「われは幼獣ではない」
「幼獣だ。尾が一本だろう」
「これから増える!」
千吉は二人を交互に見た。頭が追いつかない。祖父の竿に女の付喪神が宿っていて、昨夜釣った狐は九尾の幼獣で、しかも二人は当然のように喧嘩をしている。
「待て。情報が多い。朝飯前に出す量じゃねぇ」
「では飯を食え。食ったら出る」
「どこへ」
「池だ」
その言葉で、千吉の眠気が少し飛んだ。
昨夜、狐火が消えたあとの池。あれで終わったとは、正直、思えなかった。腕の中の重さが消えたあとも、まだ何かが水の底で身じろぎしているようで、朝まで寝つけなかった。じっちゃんが言っていた。溜まりすぎたものは、いつか助けに来た手ごと引きずり込む、と。
正宗は畳の上をすべるように近づき、竿を持つ千吉の手を見た。掌の古い豆や、爪の形を、確かめるみたいに。
「手が、あの人に似てきた」
あの人、が誰を指すのか、聞くまでもなかった。千吉は何も言えず、握りの竹節を親指でなぞる。
小狐が、また千吉の袖を噛んだ。今度は、さっきより弱い力だった。
「行きたくない」
声が小さい。さっきまでの偉そうな調子が抜けている。
千吉は小狐の頭を見た。濡れていた毛は乾いて、ふわふわになっている。強がりばかりで、まだ一匹では眠るのも怖いのだろう。
「名前」
「ん?」
「お前、名前は」
小狐は黙った。目だけが揺れた。
「……忘れた」
その一言が、思ったより重かった。
忘れた、じゃない。忘れさせられたんだ。誰にも呼ばれないうちに、名前の形が、水に溶けて崩れていったんだ。
正宗が、静かに口を挟んだ。
「狐の尾は、歳では増えぬ。呼ばれて、祀られて、覚えられて、その数だけ増える。名を呼ぶ声が絶えれば、尾も止まる。名も、錆びる」
小狐は、耳を寝かせた。
「……昔は、あった。小さな祠と、供えものと、われを呼ぶ声が」
それきり、口をつぐむ。いつからそれが絶えたのか、本人ももう思い出せないらしい。だから池の底にいた。呼ばれなくなった名前を抱えて、水に沈んで。
千吉は、少しの間、黙っていた。腕の中の小さな体は、まだかすかに震えている。
小狐が鼻先を千吉の袖へ押しつけた。
「……きゅ」
もう一度、困ったように鳴く。
「きゅう」
千吉は目を瞬いた。
「今の、お前の鳴き声か」
「鳴いておらぬ!」
小狐は慌てて耳を伏せた。だが、また袖の陰から、かすかな声がする。
「……きゅう」
「じゃあ、キュウ」
「安直じゃ!」
「九尾だからじゃない。今、お前がそう鳴いた」
「もっと威厳ある名がよい!」
「じゃあ、九尾大明神金毛天狐丸」
「キュウでよい」
早かった。
千吉は笑ってしまった。笑うと、胸の奥の固いものが少しだけほどけた。
「これから毎日、呼んでやる。キュウ、飯だ。キュウ、行くぞ。キュウ、寝ろ。うるさいくらい呼ぶ」
キュウは何か言い返そうとして、やめた。袖を噛む力が、ほんの少しだけ強くなる。噛みつく代わりに、そうしているのだと、千吉にはわかった。
正宗はその様子を見て、表情を変えずに言った。
「名を与えたなら、責任が生まれる」
「わかってるよ」
「本当にか」
千吉は仏壇の写真を見た。祖父の目が、まだ試しているように見えた。電話に出なかった孫を、それでも竿ごと遺していった、あの目だ。
「たぶん、まだわかってねぇ。でも、逃げる気はない」
正宗はわずかに目を細めた。
「ならば支度をしろ。池の底には、まだ泣いているものがある」
キュウが千吉の袖を強く噛んだ。
千吉はため息をつき、竿を手に取る。障子の向こうで、朝日が白く滲んでいた。
平凡な一日が始まるはずだった。けれど千吉の手には祖父の妖竿があり、足元には偉そうな小狐がいて、目の前には竿の女が浮いている。
「……じっちゃん」
千吉はぽつりと言った。
「俺の人生、急に釣れすぎだろ」
そのとき、玄関の戸が、乱暴に叩かれた。
「千吉くん、生きてる?」
澪の声だった。
千吉は、キュウと正宗を交互に見た。宙に浮いた女と、喋る狐。どう見ても、言い訳のきかない絵面だ。
「……今、一番来てほしくないやつが来た」
キュウが袖を噛んだまま聞く。
「誰じゃ」
「俺が嘘つくと、だいたい見抜く幼なじみ」
戸の向こうで、鍵の回る音がした。合鍵だ。持たせた覚えはない。昔から、澪はこういうときだけ手が早い。
「開ける前に言っとくけど」
千吉は慌てて言った。
「今、うちにいるのは全部、本物だからな」
「なら、救急箱いる?」
戸の向こうの澪は、少しもためらわなかった。
「キュウ」は、本人が自分で鳴いて決めた名です。もっと威厳が欲しかったようですが、こればかりは仕方ない。
名を呼ぶというのは、呼び続けると約束すること。千吉はまだ、その重さを半分も背負っていません。
次回は清流へ。澄んだ水のくせに、くすくすと笑う沢の話です。




