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妖竿正宗と幻異の池 ~忘れられた名を、岸へ釣り帰す~  作者: 源三郎
第一部 千吉の怪異釣行

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3/3

第3話 清流の皿と子どもの声

 さらさら鳴るはずの沢が、くすくすと笑っている。

 頭に皿をのせた、怒れる河童の話です。――立て札いわく、『皿を見たら逃げろ』。

 池へ戻るつもりだった。だが軽トラが県道へ出たところで、竿袋の奥から鈴が鳴った。


「池ではない。上流だ」


 後部座席で座るふりをしている正宗が、窓の外を見たまま言う。


「あの池へ流れ込む沢がある。水の声が、濁っている」


 助手席には澪が座っていた。膝の上には、タオルにくるまったキュウ。竿袋は二人の間に立てかけてある。


 澪は今朝、玄関で三分ほど固まっていた。それから「説明は後でいい」とだけ言って、勝手に助手席へ乗り込んだ。逃がしてくれる相手ではない。スマホには、キュウが千吉の袖を睨む写真が一枚。消さなかったのが、澪らしかった。


「その狐みたいなのが九尾で、後ろの女の人が竿で、千吉くんは昨日の夜、それを釣った。合ってる?」


「理解、早いな」


「理解はしてない。聞いた順に並べただけ」


 キュウが澪の膝で胸を張る。


「われは狐みたいなのではない。九尾じゃ」


「尾、一本だよ」


「これから増える」


 澪は少しだけ笑って、指先でキュウの耳の後ろを掻いた。キュウは嫌がるふりをして、逃げなかった。


「千吉くんの周り、昔から変なもの釣れるよね」


「昔は長靴とか空き缶くらいだった」


「あと、私の仕掛けも絡めた」


「あれは流れが悪い」


「腕」


 短く言われて、千吉は黙った。山道に入ると、電波が一本消えた。


 古い橋のそばに着く。地図には清流と書いてある。実際、水は澄んでいた。底の石まで見える。だが、音がおかしい。普通の沢なら、さらさら、ざあざあと鳴る。ここは、くすくす笑っていた。子どもが川底で息を殺して、笑いをこらえているような、湿った声だ。


 橋のたもとに、古い看板が立っている。『川遊び禁止』。その下に、誰かが油性ペンで書き足していた。


『皿を見たら逃げろ』


「皿?」


 千吉が読んだ瞬間、水面から石が飛んできた。


「うおっ」


 石は頬をかすめ、軽トラのドアに当たってへこんだ。


「今の修理代、出るのか!」


 川の真ん中で、水が盛り上がる。ぬらりとした緑の腕。頭の皿。嘴みたいな口。河童だった。


 ただ、昔話で聞くような愉快なものではない。目は赤く濁り、肩に藻が絡み、背中の甲羅には釣り針が何本も刺さっている。


「人間、来るな。ここは、おれの川だ」


 千吉は竿袋を肩にかけた。


「俺は車をへこまされた側なんだけどな」


 キュウが千吉の足首にしがみつく。


「あれ、怒っておる」


「見りゃわかる」


 河童がまた石を投げた。身をひねって避ける。石が背後の杉にめり込む。


「殺意強すぎだろ!」


「釣れ」正宗が静かに言った。


「会話で何とかならねぇのか」


「会話をするために、釣る」


 無茶を言う。だが、千吉にはわかってきていた。怪異の声は、耳ではなく糸で聞くものらしい。


 千吉は仕掛けを作った。針は小さめ。餌はつけない。代わりに、川岸に落ちていた青いビー玉を糸に結んだ。それを見て、河童の目がわずかに動く。


「……それ」


「欲しいのか」


「いらない」


 嘘だ。祖父の言葉を思い出す。欲しがってる魚ほど、まっすぐ食わねぇ。疑って、回って、最後にちょんと触る。


 ビー玉を流れに乗せた。河童は睨んでいる。しかし視線は、青い玉から離れない。千吉はわざと流しすぎた。ビー玉が河童の手前を通り過ぎ、岩の裏へ隠れかける。


 河童の指が、ぴくりと動く。欲しければ今だ。だが河童はまだ動かない。人間の仕掛けだとわかっている。わかっていて、それでも目が追ってしまう。


「戻しすぎ」


 澪が小声で言った。


「警戒してる。もう半分だけ、流して」


 千吉は言い返さず、指先を緩めた。ビー玉がまた少し下る。河童の目が追う。澪は普通の釣りしか知らない。でも、ウキを見る目は昔から千吉より細かかった。


「ほら。取るなら今だぞ、皿太郎」


「その名で呼ぶな!」


 怒鳴った瞬間、河童の集中が乱れた。青い玉が岩陰へ流れる。その一拍。水が跳ねて、河童の指が、ビー玉をつかんだ。


 千吉は合わせた。竿がしなる。


「掛かった!」


「離せ、人間!」


「そっちが掴んだんだろ!」


 川の流れが、急に重くなった。河童は水の中を走る。千吉も岸を走った。石で足を取られ、何度も転びかける。冷たい水しぶきが顔に当たる。掌が痛い。それでも糸は切らない。


 糸から、声が来た。


 ――遊びたかった。ただ、それだけだった。


 昔、この川には子どもが来ていた。夏になると騒いで、笑って、河童に石を投げ、河童も水をかけ返した。危ないからと大人に怒られても、また来た。けれど、ある年から誰も来なくなった。看板が立ち、柵ができ、川は静かになった。石を投げても、返す声はない。水をかけても、笑う相手はいない。誰も来ない川で、河童は次の夏を待ち続けた。待つうちに水は冷え、腹の底の何かが、ゆっくり尖っていった。


「……お前」千吉は息を切らしながら言った。「遊び相手が、欲しかっただけか」


 河童の動きが止まる。


「ちがう」声が震えていた。「人間なんか、嫌いだ」


 千吉は竿を寝かせ、糸を少し緩めた。逃げられるかもしれない。でも、締め上げたままでは声が届かない。


「俺も、嫌いなやつはいる。でもな。嫌いなやつのために、何年も川で待たねぇよ」


 河童の皿から、水が一滴こぼれた。涙みたいだった。その一滴が甲羅を伝い、刺さった針の一本へ触れる。


 千吉の糸が、びん、と鳴った。


 河童の記憶ではないものが、腕へ流れ込んでくる。夜の沢。泥に膝をつく、大きな背中。聞き慣れた咳。暗闇で携帯電話の画面だけが白く光っている。


『千吉。出ろ。頼むから、今だけは――』


 祖父の声だった。


「じっちゃん?」


 指が固まり、竿先が下がる。河童が反射的に身をひねった。糸が掌を焼き、危うく抜けかける。


「千吉くん!」


 澪の声で我に返った。見えたものは、もう消えている。ただ、祖父の声の切れ端だけが、耳の奥に残った。


 正宗を見る。女は、こちらを見なかった。


 そのとき、上流で低い音がした。ごろ、ごろ。石が転がる音。


「まずい。増水だ」


 山の空が、いつの間にか真っ黒になっている。濁った水が、上流から壁のように押し寄せてくる。河童は川の真ん中で固まっていた。


「キュウ、車に戻れ!」


「いやじゃ!」


「いいから走れ!」


 千吉は糸を握り直した。釣り上げるためじゃない。今度は、引き戻すためだ。

 石を投げ、水をかけ、また来る。遊びは、返してくれる相手がいて初めて遊びになります。誰も来なくなった川の夏は、どれだけ長かったか。

 糸の先に、祖父の声が混じりはじめました。千吉が本当に向き合う相手は、まだ水の底にいます。

 次回、増水した沢で――今度は引き上げるためではなく、引き戻すために竿を握ります。

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