第1話 夜の溜め池と狐火の尾
餌をつけない針に、狐火が掛かる夜がある。
これは魚ではなく、誰にも呼ばれなくなった名前を釣る話です。第一話は、祖父の遺した竿と、夜の溜め池から。
――どうか、糸の先を見ていてやってください。
餌のない針に、狐火が掛かった。
夜の池から跳ねた小さな狐は、泣きべそをかきながら俺の袖へ噛みついた。
じっちゃんは、魚ではなく心を釣る竿を、俺に遺して死んだ。最後の電話に、俺が出られなかった――その夜に。
そのころの俺は、まだ知らなかった。この竿が手繰り寄せるものの果てに、名前ごと何もかもを吞み込む水が待っていることを。――それはまだ、五十年も先の話だ。
※
風はないのに、水面だけが動いていた。
夜の溜め池は、墨をぶちまけたみたいに黒い。その黒がぬるり、ぬるりと、息でもするように上下している。風で立つ波じゃない。下から、何かが押し上げているような、生き物じみた揺れだった。
千吉は土手の草を踏み、池の縁へ下りた。長靴の底がぬかるみに沈む。ずぶ、と嫌な音がして、右のかかとに冷たい水が入ってきた。
「……相変わらず、気味わりぃな」
口ではそう言った。帰るつもりは、はなからない。
昼間、千吉は釣具屋の倉庫でバイトをしていた。段ボールを運び、伝票を貼り、客に「これ、釣れますか」と聞かれて、「釣れる時は釣れます」としか答えられない。店長には鼻で笑われた。もっと売る気を出せ、と。
レジ横で聞いていた水森澪が、呆れた顔をしていた。
澪は釣具屋の娘で、千吉より一つ下の幼なじみだ。子どものころから一緒に川へ行き、フナやハヤを釣った。千吉が大物にばかり目を向ける横で、澪はいつも小さなウキの揺れを見ている、そういう子だった。
「千吉くん、売るの下手すぎ」
「正直に言っただけだろ」
「正直と雑は、別」
昔からそうだ。千吉が勢いで竿を立てると、澪が横から「まだ早い」と止める。腹が立つのに、だいたい当たっている。
帰り際、澪はスマホを覗き込んだまま、こっちを見ずに言った。
「夜、どっか行くでしょ。ひとりで無茶しないでよ」
図星だったから、返事をしなかった。
――水辺には、忘れられたものが沈む。
じっちゃんは、酔うといつもそう言った。人に呼ばれなくなった神さま。祀られなくなった獣。待っている相手が、もう帰ってこない亡者。行き場をなくした未練が、流れの淀んだところへ、少しずつ溜まっていく。そして溜まりすぎたものは、いつか、助けに来た手ごと引きずり込む。
『千吉。魚を釣るんじゃねえぞ。水の底に沈んでる、声を釣れ』
子どものころは、ただの変な昔話だと思っていた。
祖父が死んでから、意味が変わった。夜になると、耳の奥で細い糸が鳴る。誰かが、遠くで泣いている。今夜もそうだ。さっきから、ずっと。
祖父が生きていたころは、逃げ場があった。学校で嫌なことがあっても、作業場へ行けば竹の匂いがした。小刀で削られる竹の薄皮。漆の甘い匂い。つけっぱなしのラジオの野球中継。あの雑多な音の中にいれば、どんな夜も、朝までは持った。
けれど最後の夜、千吉はその作業場にいなかった。
友達と町へ出て、くだらない動画を撮って、祖父からの電話を一度だけ無視した。あとでかけ直せばいい。着信は一回きりで、それきり鳴らなかった。
かけ直す相手は、朝にはもういなかった。
だから今も、夜に水の声がすると無視できない。呼ばれている気がするのだ。今度こそ出ろ、と。
池の向こう、朽ちた桟橋のあたりで、ぽつりと青白い火がともった。
「出迎えかよ。愛想いいじゃねぇか」
わざと軽く言って、背中の竹の竿袋を下ろす。
妖竿正宗。去年死んだ祖父が遺した、一本の和竿だ。
黒漆の竿は、月もない夜の中で、なぜか赤く脈打って見えた。握りの竹節に触れると、祖父の手の硬さを思い出す。分厚くて、爪の間にいつも土か漆が入っていた手。その手に、何度も頭を小突かれた。痛かったのに、今はそれが恋しい。
喉の奥が、急に詰まった。
「……じっちゃん。借りるぞ」
返事はない。あるわけがない。
千吉は道糸を伸ばし、餌のない針を結んだ。結び目を指先で湿らせる。唾を少しつける仕草まで、祖父の真似だった。真似ることしか、もう残っていない。
ウキを水面へ落とす。
ぽつん。
小さな輪が広がって、虫の声が、いっせいに止んだ。
千吉は膝を落とし、竿尻を腹に当てた。右手の指を糸に添える。
最初に来たのは、引きではなかった。
寒さだ。真冬の水に手首まで突っ込んだような冷たさが、糸を伝って這い上がってくる。その冷たさの奥に、爪で胸の内側を引っかかれるような感触があった。
「……来るな」
水の底で、声がした。
ひどく小さい。けれど震えを隠そうとして、わざと尖らせたような声だった。
「われに、触るな」
その直後、糸の向こうで青い火がぱちんと弾けた。見えたのは一瞬だけだ。水草の陰に、耳のようなものが沈み込む。
(……子ども、か)
言葉の意味とは別に、感情が流れ込んできた。
寂しい。腹が減った。怖い。誰か、こっちを見てくれ。ぐちゃぐちゃに混ざった感情が、ひとかたまりになって腕へ絡みついてくる。
「おい」
千吉は水面に言った。
「泣いてるなら泣いてるって言え。黙って引っ張んな。こっちも、怖ぇんだよ」
ウキが、すうっと沈んだ。
合わせなかった。
祖父なら、ここで一拍待つ。泣いているやつは、すぐには針を飲まない。触って、逃げて、また戻る。信じたいのに信じられない。そういうアタリだ。
ウキが半分だけ浮き戻る。
水の底で、小狐がこちらを試していた。餌のない針を噛むふりをして、糸の先の千吉の気配を嗅いでいる。怖いくせに、逃げる支度だけはしている。
「……疑り深いな。まあ、そりゃそうか」
千吉は竿先をほんの少し下げた。逃げ道を残す。それでも糸だけは、切らさない。
次の瞬間――水面が、内側から爆ぜた。
黒い水が天へ噴き上がる。数メートルの水柱だ。夜より暗いその柱の芯に、火が灯った。一つ、二つ、三つ。数える間もなく増える。青白い狐火が、何本もの尾の形になって、夜空へ跳ね上がった。
池全体が、燃えているように見えた。黒い水面に、逆さの炎が何十も映り込む。世界が、上も下も火になった。
「うおっ……!」
竿が、一気に弓なりへ絞り込まれた。穂先が水面を叩く。糸鳴りが夜気を裂き、リールが悲鳴を上げて逆転する。
引きずられる。
長靴の底が泥をえぐり、二本の溝を刻みながら、千吉の体が池へ寄っていく。踏ん張った膝が、笑う。腕の腱が、限界を訴える。
強い。魚の引きじゃない。池そのものを丸ごと抱えて、暴れている。
「上等だ、このやろ……!」
力で止めたら、折れる。祖父の怒鳴り声が、耳の奥で弾けた。溜めろ。竿に仕事をさせろ。手前は糸を信じろ。
千吉は逆に、前へ踏み込んだ。逃げるのではなく、懐へ入る。竿を胴に食い込ませ、全身を弓にして、狐火の暴走を受け止めた。
黒漆が、赤く灼けるように光る。竿のしなりが、暴れる火の力を吸い、貯め、ためた分だけ、じわりと押し返した。
狐火の尾が、一本、また一本と力を失っていく。夜空を焦がしていた炎が、ゆっくり池へ引き戻される。
いける。
「――来い!」
千吉は、渾身であおった。
水面が、真っ二つに割れた。
白い飛沫を散らして、宙へ跳ね上がったのは――両手に乗るくらいの、小さな狐だった。
濡れた金色の毛。大きすぎる耳。涙でぐしゃぐしゃの目。尾は一本しかないのに、その背後で狐火だけが、まだ何本もの尾みたいに揺れている。
「……ちっさ」
思わず言うと、小狐は空中で足をばたつかせた。
「ちっさくない! われは九尾ぞ!」
声がした。高くて、震えていて、やたら偉そうだった。
千吉は呆気に取られた。その隙に、小狐が針を外そうと暴れる。
「待て待て、落ちる!」
竿を倒し、糸を緩め、泥の上へ転がるように小狐を受け止めた。
腕の中に収まった小狐は、びしょ濡れで、軽くて、骨まで冷えていた。心臓だけが、羽虫みたいに速く鳴っている。この重さには、覚えがあった。祖父の仏壇に供える、炊きたての飯の茶碗。あれくらいの、頼りない熱さだ。
「……お前、池の底で何してた」
小狐は答えなかった。ただ、千吉の袖に噛みついた。
甘噛みだった。いや、本人は本気かもしれない。痛くはない。
「離せって。服が伸びる」
「さむい」
それだけ言って、小狐は千吉の腕の中で丸くなった。
池の狐火が、ふっと消えた。
残ったのは、泥だらけの長靴と、祖父の竿と、やけに温かい小さな命。
千吉は空を見上げた。
「じっちゃん」
声がかすれた。
「これ、魚じゃねぇぞ」
もちろん返事はない。――と、思った。
腕の中で震える小さな命の、そのさらに奥。竿袋のほうから、ちりん、と鈴に似た音が一つ鳴った。妖竿正宗の穂先が、しまいかけた手の中で、まだほんの少し脈を打っている。今夜はまだ半分だと言うように。
池の底で、何かが、ゆっくり寝返りを打つ気配がした。今夜釣ったのは、この小さな一匹だ。けれど水の底には、まだ、名前を無くしたものが、幾つも沈んでいる。そう告げられた気がした。
ポケットの中で、スマホが一度だけ鳴った。澪からだ。見なくても、文面は想像がついた。
――ひとりで行ったら怒る。帰ったら返事して。
千吉は腕の中の小狐を見て、少しだけ笑った。
ひとりでは、なくなってしまった。よくも悪くも、たぶん、これからずっと。
祖父の電話には、間に合わなかった。
けれど今夜、水の底で泣いていたものには手が届いた。
――その手が、いつか届かない相手に出会うことを、このときの千吉は、まだ知らない。
はじめまして、あるいはお久しぶりです。
偉そうで怖がりで泣き虫な、あの手のひらサイズの九尾。キュウはこれから、嫌というほど暴れます。
夜更けに水の音がしたら、少しだけ耳を澄ませてみてください。……釣られない程度に。
次回は池の上流へ。今度は、子どもの声を追います。




