八話 邪馬台国の女王卑弥呼
西暦二百三十八年、那岐が狭野や子供たちと日向で暮らし始めてから、二年の月日が流れていた。竹と浦は十歳、椎根津彦は九歳、狭野、日臣、大久米は八歳になっている。
その頃、宇佐の宮では、月読が主祭殿の三階へ上がり、日巫女のもとを訪れていた。大陸の情勢に、大きな変化が起きたためである。
かつて大陸を支配していた大漢は長い混乱の末に衰退し、群雄が各地に割拠する時代を迎えた。やがて漢は滅び、魏・呉・蜀の三国が争う三国時代へと移り変わっていた。その中でも中原を押さえる魏は強大な勢力を誇り、日巫女も以前から朝貢の機会をうかがっていた。
しかし、大倭壱国から魏へ直接使者を送るには、大きな障害が存在していた。遼東を支配する公孫氏である。
公孫氏は表向きこそ魏に臣従していたものの、その支配地では半ば独立した勢力として振る舞っており、魏への交通路を押さえていた。そのため、韓をはじめとする東方諸国が魏と直接往来することは容易ではなく、大倭壱国から魏へ朝貢する道も事実上閉ざされていたのである。
さらに前年、公孫氏の主である公孫淵は燕王を称し、魏から完全に離反していた。
ところが、その燕が魏軍によって滅ぼされた。
公孫氏の支配が崩れたことで、これまで遼東によって遮られていた東方から魏へ通じる道が、ようやく開かれようとしていた。
月読は主祭殿の三階へ上がると、日巫女の前に進み出た。
「姉上、魏の司馬懿が率いる軍が燕を落とし、公孫氏が滅亡しました」
「さすが司馬懿、といったところでしょうか」
日巫女は静かに答えた。
日巫女は長年にわたり、大陸の情勢を絶えず調べ続けていた。海を隔てた遠い国の出来事であっても、大陸の動きは交易や鉄器、さらには倭国の国々の力関係にまで影響を及ぼす。そのため、決して無視することはできなかった。
月読も大陸から入ってきた情報を整理しながら続けた。
「蜀漢の諸葛亮と渡り合っただけのことはありますな」
「ええ。これで魏の力は、さらに増すでしょう」
「はい。帯方郡も魏の支配下に入りました。ようやく魏へ通じる道が開いたことになります」
その言葉を聞き、日巫女の目がわずかに細くなった。
「この日を待っておりました。速やかに朝貢を送る手配をしましょう」
月読も迷うことなく頷いた。
「狙うは倭王の称号と、魏の後ろ盾を得ること。これが成功した時の効果は計り知れません」
「使節長は難升米に任せましょう。それと……父上にもお願いしましょう」
「父上を?」
月読が少し意外そうな顔を見せる。
「ええ。父上なら帯方郡にも何度か行ったことがあります。大陸の言葉も分かりますから、通訳としても貴重でしょう。それに相手が魏ともなれば、普通の使者だけを送るより、父上が同行してくださった方が安心できます」
「確かに。父上以上の適任者はおりますまい」
日巫女は静かに頷いた。
公孫氏の滅亡によって、長く閉ざされていた魏への道がようやく開いた。この機会を逃すつもりはなかった。
大倭壱国としていち早く魏へ朝貢し、その権威を倭国内での勢力拡大に利用する。そのため日巫女は、父である伊邪那岐を使節の一員として大陸へ向かわせることを決めた。
日巫女は、半世紀ほど前のことを思い出していた。まだ十代の少年で、大年と名乗っていた頃の邇芸速日は、大漢の行く末についてこう語っていた。
「飢饉が終わっても腐敗は残ります。腐敗を正す力もまた失われております。ゆえに大漢はいずれ群雄が立ち、国は割れましょう」
その予見は現実となった。大漢は衰退の末に滅び、今や魏・呉・蜀が天下を争っている。
そして、かつて大年と名乗っていた少年も、今では邇芸速日として東の国々を束ねる存在となっていた。戦ではいまだ敗北を知らず、政治においても領国を見事に発展させている。
現在の倭国は、宇佐の宮を本拠とする日巫女の大倭壱国連合と、纒向の宮を中心に邇芸速日がまとめる三輪山の東国連合。その二つの大勢力が並び立つ情勢となっていた。
日向の地で、伊邪那岐は狭野や仲間たちと共に暮らしていた。田仕事や治水作業、木簡を使った文字の読み書きなど、日々の暮らしそのものを学びの場として過ごしている。
狭野は決して優秀な子ではなかった。物覚えが特別に早いわけでもなく、武芸に秀でているわけでもない。それでも教えられたことには興味を持ち、様々なことを少しずつ学んでいた。そして何より、人を身分や生まれで分け隔てしない寛容な心を育んでいた。
武芸については那岐自身が積極的に教えることはなかったものの、竹や浦、日臣、大久米たちが頻繁に鍛錬を行っていたため、狭野もそのたびに駆り出され、否応なく鍛えられていた。
そんなある日、宇佐から一人の使者が那岐のもとを訪れた。用件は、大陸の大国・魏への朝貢に同行してほしいというものだった。
那岐はこれまで帯方郡へは何度か足を運んだことがあった。しかし、そのさらに先にある魏の都・洛陽には一度も行ったことがない。
「わかりました。宇佐へ向かいます」
那岐は依頼を承諾し、使者にそう伝えた。そして使者を見送ったあと、那岐は一人で考えた。朝貢の使節として向かうのであれば、今度こそ都まで行くことができる。
洛陽。
それは那岐にとって、いつか大陸の大都を自分の目で見てみたいという、遥か昔から胸の奥に残り続けていた夢でもあった。
その話を聞いた狭野は、たちまち目を輝かせた。
「大陸? 行ってみたい!」
狭野はこれまで日向の地からほとんど出たことがない。海の向こうに広がる大陸など、話や木簡の中でしか知らない世界だった。
「私も那岐様と一緒に行きたい!」
期待に満ちた顔でそう訴える狭野を見て、那岐は少し考えた。
大陸へ渡る機会など、そう何度も訪れるものではない。狭野にとっても、自分たちの暮らす倭の外にどれほど広い世界があるのかを知る、またとない学びになるだろう。
「そうだね。せっかくの機会だし、狭野も一緒に行こうか」
「本当!?」
狭野の顔が一気に明るくなる。
こうして那岐は、狭野を連れて宇佐へ向かうことにした。
その直後、竹がすっと手を挙げた。
「私も行きます。那岐様の護衛ですから、お供させていただきます」
「うん、私も那岐様の護衛だもん。絶対についていきますわ!」
浦まで勢いよく続いた。
那岐は二人を見つめたまま、しばし呆然とした。護衛を理由にしているが、どう考えても大陸へ行きたいだけにしか見えない。
すると、今度は日臣まで姿勢を正した。
「私も若様の近習として、お供させていただきます」
「そうですね。私も若様を主と決めております。お供します」
椎根津彦も当然のように続き、大久米に至っては何も言わず、ただ黙って手を挙げて同行の意思を示した。
結局、全員が行く気だった。
那岐には嫌な予感しかなかった。大陸を見ることは、子供たちにとって得難い経験になるだろう。だから連れていくこと自体は悪くない。だが、何をしでかすか分からない癖の強い子供たちを、遥か大陸までまとめて連れていかなければならないのである。
今から心配で仕方がなかった。
そんな那岐の心配など知る由もなく、子供たちは大陸への朝貢という大役を、まるで遠方への旅行か何かと履き違えているかのように大はしゃぎしていた。
「ところで、大陸ってどのくらい大きいの?」
狭野が興味津々といった様子で尋ねると、日臣は少し考えてから首を傾げた。
「さあ……倭国の倍くらい……でしょうか?」
「そんなものではないと思いますよ」
椎根津彦がすぐに口を挟んだ。
「大陸は倭国どころではないほど大きいそうです。どこまで続いているのか分からないくらい広くて、国も数えきれないほどあるとか」
「そういえば、魏の他にも呉や蜀という国があるのでしょう? それに南にも北にも西にも、大きな国があるって聞いたことがあるわ」
竹の言葉に、浦も頷いた。
「月読ひい爺様がおっしゃってたね」
「その魏だけでも、倭国の何倍も大きな国のようです」
椎根津彦が続けると、日臣は別のところに興味を持ったようだった。
「兵もつえーのかな?」
「文化が違いますから、装備や武器の形も倭とは違うみたいです。私も実際に見てみたいですね」
「すごーい、楽しみだね」
狭野はまだ見ぬ大陸を想像しながら目を輝かせた。日臣も興奮を隠そうともせず、身を乗り出す。
「巨大な城門とか城壁っていうのもあるんだろ? この前、木簡で読んだぞ。どんだけでけぇーんだろうな?」
大久米は黙ったまま皆の話を聞いていた。倭とは比べものにならないほど広い土地、見たこともない巨大な城壁、数えきれないほどの国々――あまりにも話の規模が大きすぎるのか、頭の中でうまく形にできないようで、少し困ったような顔をしている。
そんな子供たちの様子を、那岐は少し離れたところから眺めていた。
「洛陽かぁ……」
小さく呟きながら、那岐もまた、まだ見ぬ都へと思いを馳せる。
狭野も、日臣も、竹も浦も、椎根津彦も大久米も、それぞれ違った期待を胸に抱いていた。




