七話 六人の夏
西暦二百三十八年。那岐が狭野たち子供たちと暮らし始めてから、二年の月日が流れていた。
竹と浦は十歳、椎根津彦は九歳、そして狭野、日臣、大久米は八歳になっていた。
季節は夏を迎え、海の水も十分に温んでいる。そんなある日、那岐は子供たちを海へ連れて行こうと考えた。
もちろん、浜辺で自由に遊ばせてやりたいという気持ちもあったが、それだけが目的ではない。この機会に泳ぎを覚えさせ、小舟を使った操船も実際に経験させようと思っていたのである。
海で魚を獲る術を身につけておけば、いずれ役に立つこともあるだろう。さらに船の扱いや航海の知識も、これから先の人生で必要になるかもしれない。
那岐は遊びの中にも学びを取り入れながら、子供たちに海というものを教えてみようと考えていた。
朝食の席でその日の予定や新しい話を切り出すのは、いつの間にか那岐の定番になっていた。
「実は村長と相談して、浜辺の小屋と小舟を借りられるようになったんだ」
那岐がそう告げると、椎根津彦が興味を示して顔を上げた。
「小屋と小舟ですか?」
「それで何をするのですか?」
続いて日臣が尋ねると、那岐は子供たちを見回しながら答えた。
「泳ぎと、船の操船を学ぼうと思う」
「海の中を泳ぐのですか?」
狭野が目を丸くする。その隣では竹も少し考えるような顔をした。
「そういえば、泳いだことありません」
「私は操船に興味があります。ちゃんと学びたいと考えていました」
椎根津彦はすぐに乗り気になった。かつて海で遭難し、家族を失った過去を持つ彼にとって、船や海について学ぶことには他の子供たちとは違った意味があった。
「海での服装って、どうしたらいいのかしら?」
浦が尋ねると、那岐は少し考えてから答えた。
「そうだね。海で着る服も先に作っておこうか。竹と浦には裁縫をお願いしよう。二人の分だけじゃなくて、みんなの分もね」
その言葉を聞いた瞬間、竹と浦の表情が揃って曇った。
那岐はそんな二人へ笑顔を向ける。
「頼んだよ、竹、浦」
「またぁ……最近、裁縫ばっかりやらされている気がします……」
浦が不満そうに声を漏らす横で、竹は小さくため息をついた。
「……わかりました」
そんな双子の様子を見ていた日臣が、面白そうにニヤニヤしている。
それに気づいた竹は、目の前にあった空の木皿を掴むと、迷いなく日臣へ投げつけた。
「いてっ!」
木皿を頭に受けた日臣の声が、朝食の席に響いた。
海に到着して最初に始めたのは、海の水に慣れることだった。まずは浅瀬で水に触れさせ、そこから基本的な泳ぎ方を一つずつ教え、少しずつ深い場所へ進ませていく。
那岐は手足の動かし方や息の仕方を丁寧に説明していたのだが、子供たちはそれよりも海で遊ぶことの方が楽しいらしく、浅瀬で互いに水を掛け合っては大騒ぎしていた。
「ちゃんと話も聞いてほしいんだけどなぁ……」
那岐はため息をついたものの、楽しそうにはしゃぐ子供たちを止めることまではせず、しばらくその様子を見守ることにした。
それから数日間、泳ぎの稽古を続けていくと、それぞれに上達の差が見え始めた。
中でも一番上達が早かったのは浦だった。もともと海への興味が強かったこともあり、すぐに水へ慣れ、今では少しくらいなら潜って海の底を覗いて回る余裕まである。
他の子供たちも浦ほどではないものの、少しずつ泳げるようになっていったただ一人、大久米だけはなかなか前へ進めなかった。
大久米は真面目に那岐の教えを守ろうとしているのだが、どうしても力任せになってしまう。腕で激しく水面を叩くばかりで、身体はほとんど前へ進まなかった。
「大久米、そんなに力任せに水を叩かなくていいんだよ。もう少しこう、水を後ろへすくって押し出すような感じでね」
那岐に言われ、大久米は黙って頷くと、もう一度懸命に手足を動かした。それでも、やはり思うようには進まない。
その様子を見ていた狭野が心配になったのか、大久米のそばまで泳いでいった。
「大久米、一緒にやろう。ほら、こうやって動かすんだよ」
狭野自身も決して泳ぎが上手なわけではなかったが、大久米の隣で何度も同じ動きを繰り返した。しばらくすると、大久米の身体が少しだけ水の上を進んだ。
「あ、前に進んだよ! 今の感じだよ! そうそう、その調子!」
嬉しそうに声を上げる狭野を見て、大久米もわずかに表情を緩めた。
こうして数日間にわたって泳ぎの稽古を続けた結果、子供たちは全員、どうにか水の中を進める程度にはなった。まだ十分に泳げるとは言えず、ようやく形になった程度ではあったが、那岐はひとまずそれで良しとした。泳ぎについては、これからも機会を見つけて少しずつ続けていけばいい。
海に慣れ、最低限自分の身体を水に浮かせられるようになっただけでも、今回の稽古としては十分な成果だった。
最低限の泳ぎを身につけた子供たちは、ようやく小舟に乗せてもらえることになった。
那岐は舟の扱い方や海の危険について真面目に説明しているのだが、子供たちは初めて沖へ出ることの方に夢中だった。
「おおー、動いてる。すごーい!」
狭野が目を輝かせながら舟の縁から身を乗り出す。
「狭野、そんなに身を乗り出したら危ないってば」
竹は呆れながら狭野の身体を後ろから抱え、そのまま舟の内側へ引き戻した。
「きっもちがいい。ここから飛び込んでみたいかも」
潮風を浴びながら浦が海面を覗き込む。
「こんな沖まで出たら流されちゃいますよ。危ないです」
椎根津彦がすぐに止めた。
「大丈夫よ。みんなの中で私が一番泳ぎがうまかったじゃない」
「だめだよ、浦。その慢心が命に関わるのだからね。海を侮ってはいけません」
那岐に穏やかに注意され、浦は素直に返事をした。
「はーい」
その一方で、先ほどから日臣だけは一言も発していなかった。
「…………」
「さっきからあんた、何黙っているの?」
竹が不思議そうに日臣の顔を覗き込む。
「話しかけんな……」
「……顔、青くない?」
「見るな……」
その様子に気づいた浦が、面白そうに顔を近づけた。
「あれ? もしかして日臣、船に弱いの?」
「違う……」
椎根津彦も日臣の顔色を観察し、静かに結論を出した。
「……船酔いですね」
「椎根津彦てめぇ……うっ……」
次の瞬間だった。
「うぇぇぇええええええ!」
日臣は盛大に吐き戻し、その虹色の輝きは真正面にいた竹の衣へと降り注いだ。
「ぎゃぁぁああああ!」
竹の絶叫が海上に響き渡った。
「ひ……日臣ぃぃぃぃぃぃ!」
「わ、悪かった……わざとじゃ……うっ」
「こっち向くなぁぁぁ!」
再び吐きそうになった日臣から、竹は必死になって顔を背ける。
浦はいち早く危険を察して距離を取っており、安全な場所から腹を抱えて笑っていた。
「うわ~、すっごい地獄絵図だぁー。あはははは!」
騒然とする舟の上を見回し、那岐は困ったように息をついた。
「少し沖に出過ぎたかも。戻りましょう。波の穏やかなところで続けましょう」
「那岐様……一度戻りたいです」
普段なら弱音を吐かない竹が、汚れた衣を見ながら心底嫌そうな顔で訴えた。
「海に浸かって洗い流しなさいよ。手を持ってあげますよ」
「やです。ちゃんと洗いたい……」
珍しく子供らしいわがままを言う竹に、那岐は思わず頬を緩めた。
「はいはい」
いつもしっかりしている竹にも、こんな顔をする時がある。那岐にはそれが、なんともかわいらしく思えるのだった。
船の操船についても、数日をかけて丁寧に学ぶことになった。
なかでも椎根津彦は非常に熱心で、那岐の説明を聞いては大久米に指示を出し、帆を張らせていた。風向きを読み、帆の張り方を変え、それによって船の速さがどのように変わるのかを確かめる。何度も同じことを試しては結果を比べ、飽きる様子もなく操船の仕組みを学び続けていた。
大久米は細かな操船技術の理屈まではなかなか理解できなかったものの、椎根津彦の指示には素直に従い、帆を張ったり綱を扱ったりしながら身体で覚えていった。
狭野も大久米の傍で一生懸命手伝っていたが、力仕事となれば体格の大きな大久米には到底かなわない。本人は役に立っているつもりだったものの、実際にはそれほど大きな助けにはなっていなかった。
竹と浦も那岐の話をしっかり聞き、何度も船を動かしているうちに、少しずつ風を読んで操船できるようになっていった。
そんな中、日臣だけはほとんど動かず、船の中でじっと見学に徹していた。
「ところで……いつまでやるんですか、操船。もう終わりませんか?」
青ざめた顔で必死に訴える日臣を見て、一行は揃って笑うのであった。




