五話 狭野の系譜
西暦一九四五年――昭和二十年九月二十七日。
玉音放送から、まだ一か月余りしか経っていなかった。
焼け跡の残る東京で、日本の敗戦という重い現実を背負った一人の男が、静かに動き始めていた。
男はどこか頼りない足取りで黒塗りの車へ近づくと、そのまま後部座席へ乗り込んだ。
身にまとっているのは黒のモーニングコート。その下には縞模様のズボンを合わせ、襟元には鳥が翼を広げたような形のウイングカラーシャツを着込み、きちんとネクタイを締めている。さらにベストまで揃えた三つ揃えの正装で、足元には磨かれた黒革の靴。手には黒いシルクハットを携えていた。
敗戦直後の東京にあって、その装いはひと目で尋常ならざる身分を感じさせる、極めて格式高いものだった。
単身で乗り込んだ後部座席には、なぜかすでに先客がいた。白いスーツに身を包んだ、十代後半ほどにしか見えない少年だった。
「久しぶりだね」
「あ……あなたでしたか。えっと、今は……」
「久遠だよ。今はそう名乗っているんだ」
「そうでしたか、久遠……あなたにふさわしい名だ」
「昔の名は、さすがに今の時代には合わなくてね」
男は小さく頷くと、前方の運転手へ視線を移した。
「出してくれ」
「承知いたしました」
運転手はそう答えたものの、一度も後部座席を振り返ろうとはしなかった。白いスーツの少年へ目を向けることもなく、その存在など初めからそこになかったかのように、前方の車へ合図を送る。
やがて四台の車列が、静かに走り出した。
だが、どこか妙だった。
運転手は久遠の姿をまるで認識していない。それどころか、すぐ後ろで交わされている二人の会話さえ、耳には届いていないようだった。
車窓の外では、焼け落ちた商店街の骨組みが黒々と空へ突き出していた。
「今からどこに行くんだい」
すべてを把握しているような顔をしながら、久遠はあえて問いかけた。
「アメリカ大使館に向かっている」
「溜色の車はどうしたの? それに、サイドカーも付けてないし」
「今回は非公式の訪問なんだよ」
「なるほど。それで黒塗りの車に乗っているんだね」
男は平静を装っていたが、膝の上に置いた手、その指先だけがわずかに震えていた。前後を走る車を合わせても車列は四台。その身分を思えば、驚くほど小規模なものだった。
「本当にいいのかい。これから君は、裁かれに行くようなものだ」
「そうだろう」
「連合国の中には、君の責任を問う声もあるだろうね」
「…………」
「場合によっては、死よりも重いものを背負うことになるかもしれない」
「分かっている」
蒸し暑い車内で、男はシルクハットを強く握り締めていた。窓ガラスに映った自分の姿から一瞬だけ目を逸らすと、そのまま静かに瞼を閉じる。
それ以上、何も語ろうとはしなかった。しばらくのあいだ、重い沈黙だけが車内を支配する。その静けさの向こうから、焼け野原のどこかで始まった復興工事の槌音が、途切れ途切れに響いていた。
久遠は何も言わず、男の横顔へ見極めるような静かな視線を向けていた。それは、遥かな歳月の中で幾人もの大王や為政者を見てきた者の目だった。
権威を振りかざすだけで、自らが負うべき責任を他者へ押しつけた者たちを、久遠はこれまで数え切れないほど見てきた。
「もし君が望むなら、私は……」
「大丈夫だ」
久遠の言葉を遮るように、男は静かに答えた。虚勢なのかもしれない。それでも、膝の上で震える指を固く握り締めると、伏せていた目をゆっくりと開いた。
「まさか、責任を一人で背負うつもりかい。辞するだけで済むとは、私には思えないけど」
「もちろん、そんな甘い考えは持っていない」
「ムッソリーニは逃亡の途中でパルチザンに銃殺され、ヒットラーは地下壕で自ら命を絶った。世界というものは、敗者に決して優しくない」
久遠はそれ以上何も言わず、この国の未来まで自らの肩に背負おうとしている男を見つめた。
「逃げるわけにはいかない」
男は静かに、けれど迷いのない声でそう告げた。
「たとえ、この先の世界史に私の名が悪名として残ることになろうとも構わない。もし、この身にまだ意味があるというのならば――戦争を遂行するにあたり、日本国民が政治、軍事の両面で行ったすべての決定と行動について、その責任を負うべき唯一人の者だ。ならば、その責任は私が負わなければならない」
久遠は驚いたようにわずかに口を開いたが、やがてその表情は穏やかな微笑へと変わっていった。
「私は君の意思を尊重するよ。最後まで見届ける」
ほどなくして車列は、赤坂にある駐日アメリカ大使公邸へ到着した。前後を走っていた車両から近習の者たちが降り、護衛していた男の乗る車へ駆け寄ると、静かに後部座席の扉を開く。
男が降りようとした、その直前だった。
「そうだ。一つだけ」
久遠に呼び止められ、男は振り返る。
「?」
「君が思っているほど、向こうも一枚岩じゃない」
男は何も答えず、ただ久遠の顔を見つめた。
「それだけだよ」
しばしの沈黙の後、男はわずかに表情を緩める。
「……あなたには、どうかこれからも見守っていて欲しい」
「ああ、もちろんだ」
久遠はいつもと変わらぬ柔らかな笑みを浮かべ、静かに頷いた。
彼は車を降りると、そのまま目的の建物へと向かっていった。玄関先では若い軍服姿の男が待ち受けており、近づいてきた彼を迎え入れる。
久遠はその様子をしばらく後部座席から見届けていたが、やがて何事もなかったかのように車を降りた。運転席へ回り込み、運転手とそっと視線を合わせると、男は一瞬だけ不思議そうに目を瞬かせた。
まるでその瞬間になって初めて、今まで後部座席に誰かが乗っていたことに気づいたかのようだった。
久遠は何も告げず、その場から静かに歩きだす。建物から十分に距離を取り、敷地の外周近くまで離れたところで足を止めると、そのまま中の様子を窺いながら待ち続けた。
それから四十分ほどが過ぎた頃、ようやく彼が建物の中から姿を現した。どうやら無事に用件を終えたらしい。
ただし、先ほど玄関先で出迎えていた若い軍人の隣には、いつの間にか長身の老軍人が立っていた。二人は並んで歩きながら、思いのほか親しげな様子で言葉を交わしている。
久遠は遠くからその姿をしばらく見届けた。
そして、それ以上近づくこともなく静かに踵を返すと、付近に停められていた別の車へと歩いていった。
車に乗り込むと、後部座席には一人の若い男が待っていた。
「ありがとう、月読。わがままを聞いてくれて」
「本当ですよ。管理するこっちの身にもなってください」
月読の呆れたような返事に、久遠は苦笑を浮かべるだけで何も言い返さなかった。
「もういいよ」
そう告げると、月読は小さく頷き、前方の運転手へ視線を向ける。
「出してくれ」
静かな声を合図に車はゆっくりと走り出し、そのまま街の中へ溶け込んでいった。
流れていく景色を眺めながら、久遠の意識は次第に遠い過去へと引き戻されていく。
『狭野……』
胸の内でその名を呼び、久遠は静かに目を閉じた。
遥か太古――この国が、まだ国という形さえ持っていなかった時代。
あの頃にもまた、今と同じように、自らの肩に国の行く末を背負おうとした一人の男がいた。




