三話 六人の宴
橿原の宮では、その夜、盛大な宴が開かれていた。
「今宵は無礼講だー! 皆、楽しんでくれ!」
宇摩志麻遅の威勢のよい声が広間に響き、あちこちから笑い声が上がる。
中央に座る磐余彦王の前へ、まず椎根津彦が酒の入った器を手に進み出た。
「ささ、陛下。一献どうぞ」
「うむ」
磐余彦が器を差し出すと、椎根津彦は丁寧に酒を注ぐ。だが、それを見ていた弟宇迦斯も、すぐさま自分の器を持って近寄ってきた。
「王、私からも一献! この度は正式に宇陀の領主として認めていただき、感謝しかございません」
「ああ。これからも宇陀のこと、頼むぞ」
「はっ!」
弟宇迦斯が満足そうに下がったかと思えば、今度は高倉下が満面の笑みを浮かべてやってくる。
「では、私からも一献! 尾張の豊かな地を任せていただき、感動しかございません。さあ、どうぞどうぞ」
「うむ。お主の手腕、これからも頼りにしているぞ」
磐余彦は差し出された酒を受け取った。ところが休む間もなく、今度は宇摩志麻遅まで器を持って身を乗り出してくる。
「では、私からも」
「待て待て。立て続けでは、余もろくに飲めぬぞ」
「いやいや、今宵は無礼講ですからな。飲んでいただきますぞ。さあ、どうぞどうぞー」
「……では、いただこう」
断ることもできず、磐余彦は再び器を傾けた。
少し離れたところでその様子を眺めていた道臣と大久米は、次から次へと酒を勧められる磐余彦の苦しそうな顔を見て、何とも言えない同情の表情を浮かべていた。
だが二人とも、ここで助け舟を出せば自分たちまで巻き込まれると分かっている。そのため、そっと視線を逸らし、何も見なかったことにしていた。
翌日。
「もういやだぁーーーーーーーーーーーーーーー!」
橿原の宮の一室に、磐余彦の情けない叫び声が響き渡った。昨夜まで王として威厳を保っていた姿はどこへやら、今はすっかりいつもの磐余彦へ戻っている。
傍に控えていた竹と浦は、もはやこの落差にも慣れたもので、特に驚いた様子もなかった。
「どんどん注いで来るけれど、酔えないし、言葉遣いも変えられないし……どこが無礼講だよーーーーー」
「そういうものよ。諦めなさい」
竹が淡々と言い切る一方、浦は少し楽しそうに笑った。
「私は暴れる王様も見てみたいけど」
「浦!」
「冗談よー」
すぐさま竹に叱られ、浦は悪びれもせず肩をすくめた。
「宴会って楽しむ場だよねー? あれのどこが楽しむ場なの? 地獄じゃん」
「王なんだから仕方ないじゃない」
竹に諭されても、磐余彦は納得できないらしく、まだぶつぶつと不満を漏らしている。そんな彼を見ていた浦が、ふと思いついたように首を傾げた。
「立場を気にしないですむなら、磐余彦様も酔えるの?」
「……それだ!」
突然、磐余彦が勢いよく顔を上げた。
あまりにも急だったため、竹と浦は揃ってびくりと肩を震わせる。
「六人だけで宴したい! もう形ばかりの無礼講はいやだ!」
「六人って……日向からの仲間ですか?」
「そう!」
即答する磐余彦に、浦の表情もぱっと明るくなった。
「それは楽しそうー。私もほら、護衛中は発言したらいけないから、つまらないのよね」
「こら浦。護衛は発言するのが仕事ではないのだから」
「わかっているけど、竹だって本当は言いたいこと、たくさん溜まっているのでしょ?」
「…………」
竹は否定しなかった。ただ黙って視線を逸らしたことで、それが何よりの答えになっていた。
「なんだ、二人も溜まっているじゃん。ならやろっ、本当の無礼講の宴ー!」
磐余彦はすっかりその気になっていたが、竹は少し考え込む。
「でも、どこでしましょう。橿原の宮では、さすがに……」
「大久米の館とかどう?」
すぐに浦が口を挟んだ。
「あそこの奥様は気が利いているから、私達の都合もわかってくれるわよ」
こういう時の浦は、不思議と一番よい案を出してくる。
「それがいいね! 浦、手配頼むよ!」
「あいあいさー♪」
浦はさっそく大久米の館を訪れ、その夜の宴について手配を済ませた。
事情を聞いた大久米と妻も、これは王をもてなすための堅苦しい宴ではなく、日向から共に歩んできた仲間だけで気兼ねなく過ごすためのものなのだと理解し、快く場所を貸してくれることになった。
そしてその夜、大久米の館に集まったのは磐余彦、道臣、大久米、椎根津彦、竹、浦の六人だけだった。
今では王と重臣、妃と護衛という立場を持つようになったものの、この場に限っては昔と変わらぬ家族だけの宴である。
全員が席についたところで、磐余彦は少しばかり真剣な顔をして皆を見回した。
「まず言っておくけど、ここは形ばかりの無礼講じゃないからな。敬称をつけた者は、一杯一気飲み!」
「あー、そりゃいいわ。俺もそっちの方が気楽だからよ」
道臣はすぐさま賛成した。
大久米も異論はないらしく、黙ったまま素直に頷く。そもそも普段からほとんど口を開かない大久米にとっては、敬称を言ってしまう心配そのものがほとんどなかった。
一方、大久米の妻は六人の空気を見ただけですべてを察していた。
余計な口を挟むこともなく、何事もないような顔で侍女たちへ指示を出し、料理と酒が滞りなく六人のもとへ届くよう手際よく整えていった。
「じゃあ今回は、私が幹事かな? みんな、器を持ってー」
浦が楽しそうに声を上げると、一同はそれぞれ酒の注がれた器を手に取った。
「家族だけの宴に~~乾杯!」
「乾杯!」
六人の声が重なり、器が掲げられる。
そして、その宴で真っ先に崩れ始めたのは竹だった。
「あー、こぼれてますよ磐余彦様ー。ほら、もう」
隣に座る磐余彦の器から酒がこぼれそうになっているのを見つけ、竹が世話を焼くように手を伸ばす。だが磐余彦は、その言葉を聞いた途端、じっと竹の顔を見た。
「竹……今、磐余彦“様”って言ったよね。はい、一気な」
「あっ……」
決めたばかりの決まりを破った竹の器へ、容赦なく酒が注がれる。
竹は一瞬だけ器を睨んだものの、逃げるような真似はしなかった。そのまま器を掴むと、勢いよく酒を一気に飲み干す。
「おお、かっけー」
道臣が面白そうに囃し立てると、竹はすぐさま鋭い目を向けた。
「うるさいわね!」
飲み終えた器が道臣めがけて飛んでいく。
「危なっ!」
どうにかかわした道臣は、それでも懲りる様子もなく笑った。
「しかし、しっかり二人とも磐余彦様を落とせたもんだよなぁ。俺、もう無理なんじゃねえかと思ってたからよー」
その瞬間、竹の目がすっと細くなる。
「道臣」
「ん?」
「今、磐余彦“様”って言ったわよ。ほら、一気」
「……あ」
にやりと笑った竹が道臣の器へ酒を注ぐ。しかし道臣もすぐに気づき、竹を指差した。
「竹も今、“様”って言ってたじゃねーか!」
「……あ」
「癖ってこえーな」
互いに顔を見合わせた二人は、諦めたように器を掲げる。
「飲むわよ!」
「おう!」
竹と道臣は揃って酒を一気に飲み干した。
「椎根津彦も飲んでる? ほら、もっと飲んでー」
浦が楽しそうに酒器を差し出すと、椎根津彦は少し困ったように笑った。
「私は別に気にされなくても……いや、ありがとう」
「そうだ、椎根津彦には仕返ししなきゃいけないんだった」
その言葉を聞いた磐余彦が、ふと思い出したように身を乗り出す。
「この前の宴では、真っ先に私のところへ注ぎにきただろ。今度はこっちの番だ。ほら、飲めー」
「いえ、あれは……まさか私の後に、あれほど立て続けに皆が注ぎに来るとは考えていなくて……」
「うっさい、飲めー」
弁解など聞く気はないらしい。磐余彦は上機嫌のまま椎根津彦の酒器へなみなみと酒を注ぎ、半ば強引に飲ませていく。
もっとも、そうやって人には酒を勧めている磐余彦自身は、最初の乾杯を除けばほとんど酒に口をつけていなかった。
飲む必要などなかったのだ。
ただ仲間たちと言葉を交わし、笑っているだけで十分だった。王として振る舞う必要もなく、誰かの思惑を考える必要もない。
久しぶりに昔の自分へ戻れたようなこの時間が、酒で酔うよりもずっと心地よかった。
宴がさらに賑やかになってしばらくすると、不意に磐余彦の背中へ柔らかな重みがのしかかった。
「ん?」
振り返ろうとした磐余彦の肩に、後ろから竹の腕が回される。
どうやら、すでにかなり酔いが回っているらしい。
「なんだ竹、もう酔いが回ったのかよー」
道臣が面白そうに笑うと、竹は磐余彦に抱きついたまま、じろりと彼を睨んだ。
「うっさいわねー。だいたい道臣! あんた、日向勢の筆頭なんだから、もっとしっかり存在を出しなさいよね! 最近、宇摩志麻遅に押され気味じゃない!」
「うっ……少しだけ遠慮しているだけだわ!」
突然始まった説教に、道臣は思わず身を引きながら言い返した。
「それから椎根津彦! もう少し情のある策も言いなさいよねー。磐余彦は、あんたの意見を採用することが多いんだから、影響が出るのよ!」
酔いの回った竹から突然矛先を向けられ、椎根津彦は困ったように眉を下げた。
「採用されるくらい良い策でも、文句を言われるのですね……」
「当たり前でしょ! それと大久米!」
今度は大久米へびしりと指を突きつける。
「あんた、この前の朝議で居眠りしてたでしょ! ちゃんと気がついてたんだからねー!」
「あー、それ私も見てたー」
浦も楽しそうに口を挟んだ。
「いつ倒れるのかなーって楽しみにしてたのに、意外にしぶとかったわね」
大久米の巨体が、ぎくりとわずかに強張った。
「そもそも大久米は、無口だからって黙っていればいいと思ってるでしょ! 普段なら表情を見れば何を考えてるか分かるけど、朝議じゃ誰もあんたの顔なんていちいち見てくれないのよ! ずっと突っ立って、案山子みたいにしてないで!」
その瞬間、閉じられた戸の向こうから、
「ぶっ……!」
と、堪えきれず噴き出した声が聞こえた。
料理や酒が足りなくなればすぐに用意できるよう、近くに控えていた大久米の妻である。
大久米はゆっくりと戸の方へ顔を向けたが、その表情は明らかに「聞いていたのか」と訴えていた。
「竹……大丈夫か?」
磐余彦が心配そうに声をかけると、竹は背後からその首へ両腕を回し、豊かな胸を後頭部へ押しつけるようにして、すっかり甘えた声を漏らした。
「大丈夫……じゃないぞー」
普段の凛々しい姿からは想像もつかない有様に、道臣が面白そうに笑う。
「そうやって落としたのか? すげーな、竹」
すると竹は、待っていましたと言わんばかりに得意げな顔を浮かべた。
「そうよー。私が押し倒したのよーーー。いわれひこぉー、可愛い」
「た、たけぇーーー!」
磐余彦の悲鳴など気にも留めず、竹は満足そうに笑ったかと思うと、そのまま力尽きるように磐余彦の膝へ頭を預け、幸せそうな寝息を立て始めた。
そして半刻も経つ頃には、今度は浦まで反対側の膝へ頭を乗せ、姉に負けじと気持ちよさそうに眠り込んでいた。
「溜まっていたのかな、二人とも。すっごい楽しそうだった」
左右の膝で眠る竹と浦を見下ろしながら、磐余彦はどこか嬉しそうに呟いた。
「宮にずっといますからね。色々と溜まってしまうのでしょう」
椎根津彦が静かに答えると、道臣も酒の器を手にしたまま、大きく息を吐いた。
「自立してから、みんなバラバラになったからなぁ。俺だって今宵は楽しかったぜ」
「いつまでも子供のままではいられませんからね」
椎根津彦の言葉に、磐余彦はしばらく黙って仲間たちの顔を見回した。
日向にいた頃とは違う。今では皆、それぞれに役目を持ち、領地を持ち、自分の人生を歩き始めている。
こうして何の立場も気にせず、ただ昔のように集まれる夜は、これからますます少なくなっていくのかもしれない。
だからこそ、今夜がたまらなく楽しかった。
「だから今日は楽しかったよ。なあ、改めて乾杯しないか?」
「いいですね」
「おう。俺も賛成だ」
「では、酒を注いで回りましょう」
椎根津彦が立ち上がると、道臣も器を差し出した。大久米は誰かに頼むまでもなく、自分の器へ黙って酒を注ぐ。
全員の器に酒が満ちたところで、磐余彦は二人を起こさないよう少しだけ声を落としながら、ゆっくりと言った。
「私たちは独立して、それぞれの役目を持って、それぞれの家族を持つようになった。これから先、昔みたいにいつも一緒にいられるわけじゃない」
道臣も、椎根津彦も、大久米も黙って聞いている。
磐余彦は柔らかく笑った。
「それでも、これからも私たちは家族だ」
「おう」
「ええ、そうですね」
大久米も目を細め、力強く頷いた。
四人は器を掲げる。
「乾杯」
声が重なり、器が静かに触れ合った。
酒を一口含んだあと、磐余彦は大久米へ顔を向ける。
「なあ、大久米。たまにはまた、ここでこうして宴をやってもいいかい?」
大久米は少しだけ驚いた顔をしたあと、すぐに目元を緩めた。
そして、もちろんだと言うように、嬉しそうに大きく頷いた。
翌日、竹は珍しく朝になっても起きてこなかった。
昨夜の酒が残っているらしく、昼近くまで二日酔いで横になったまま過ごし、ようやく顔を出した頃には、いつもの凛とした姿は見る影もなかった。
「あの……私、何かしてませんよね?」
どこか不安そうに尋ねる竹へ、磐余彦は意外そうな顔を向ける。
「覚えてないの?」
「すっごかったよ」
隣で浦が楽しそうに笑った瞬間、竹の表情が強張った。
「え? 何をしたの、私!」
「あーーー……気にしなくてもいいよ」
磐余彦が露骨に視線を逸らしたことで、竹の不安はいっそう膨らんだ。
「ちょっと……教えてよ、浦! 磐余彦様!」
「大丈夫だって。磐余彦様を押し倒して物にしたって、みんなの前で武勇伝を語ってたくらいよー」
「…………」
竹の顔から、みるみる血の気が引いていった。




