二話 大久米の決戦
橿原の宮では、久米部を中核とした兵たちが衛兵として仕えるようになり、その長には道臣と大久米が就いていた。東征を生き抜いた彼らは、宮を守る役目を担うかたわら、日々欠かさず兵たちの鍛錬にも付き合っている。
そんな久米部の中で、最近ひそかに流行している技があった。
――蹴りである。
「いてて……簡単には慣れないな。盾の陰とか、死角からいきなり飛んでくるしよ。大久米、なんだあの技はよ」
脇腹をさすりながら道臣がぼやくと、大久米は答える代わりに槍と盾を手に取った。
盾を前へ構え、槍を突き出す。ここまではいつもの戦い方だったが、槍を引き戻した次の瞬間、大久米は盾で相手の視界を遮りながら鋭く足を振り上げた。さらに槍を繰り出し、盾で押し込み、その動きの合間へ自然に蹴りを織り交ぜていく。腕だけでなく全身を武器として使うその戦い方は、相手からすれば攻撃の来る場所を読み切ることが難しい。
それを見た道臣は、ようやく納得したように顔をしかめた。
「あー……お前が広めたのかよ」
大久米は何も言わず、当然だと言わんばかりに頷いた。
それは三輪山での決戦において、長髄彦との死闘の中から大久米が盗み取った技だった。槍や盾による攻防だけに頼らず、間合いの内側へ入った瞬間には足まで武器として使う。あの老武人が幾度も見せた強烈な蹴りを、大久米は自らの戦い方へ取り込み、さらに久米部の兵たちへと広めていたのである。
その様子を少し離れたところから眺めていた椎根津彦が、興味深そうに三人のもとへ歩み寄ってきた。
「試合形式では反則になるのでしょうが、これはかなり実戦向きですね」
槍や盾だけに意識を集中させた相手へ、死角から不意に蹴りを叩き込む。型を競う試合ならともかく、生きるか死ぬかの戦場では有効な技であることは明らかだった。
椎根津彦の言葉に、大久米は満足そうに一度頷いた。
「それはそうと、ひ……いえ、道臣。まだ慣れませんね。すみません」
椎根津彦は言いかけた名前を途中で直し、少し困ったように笑った。
「ああ。陛下から頂いた名だから名誉なことなんだけどな。俺自身も、まだ呼ばれてすぐには反応できねえことがある」
道臣も苦笑しながら答える。
東征における働きを認められた日臣は、磐余彦から新たに『道』の字を賜り、それ以来『道臣』と名乗るようになっていた。しかし長く使い続けてきた名だけに、本人も周囲も、まだ完全には新しい呼び名に馴染めていない。
そんな二人のやり取りを、大久米だけは特に気にした様子もなく聞いている。
それを見た道臣は、呆れたように大久米へ顔を向けた。
「まあ、喋らないおめーには関係ないわな」
大久米は否定も肯定もせず、いつもの無表情に近い顔のまま、ただ静かに立っていた。
「実は道臣、あなたに縁談の話が複数件来ていますよ」
椎根津彦がそう切り出すと、道臣はさほど驚いた様子もなく「ああ」と声を漏らした。
「俺たち、みんな所領をもらったからな。小さいとはいえ領主になったんだし、そういう話も来るだろうとは思ってたよ」
「どうされるのですか?」
「んー、まだ何も決めてねえな。せっかく複数来てるんなら、一通り話を聞いてから考えるさ。領主になった途端に婚姻の話が舞い込んでくるってのも、ずいぶん現金な話だしな。別に焦る必要もねえだろ」
そこで道臣は、ふと思い出したように椎根津彦へ視線を向けた。
「そういうお前には来てないのか?」
「複数来ていますよ。全部受けました」
「は?」
あまりにも平然と返された言葉に、道臣は目を丸くした。
「全部?」
「はい。全部受けました。それを承知していただくことを最初から条件にしていますので、後から問題になることもありません」
「お前、すげえな……」
呆れ半分、感心半分で道臣が呟くが、椎根津彦はいたって真面目だった。
「この地での縁は、増やせるだけ増やしておきたいですから。婚姻によって結ばれた家が増えれば、それだけ私たちの立場も安定しますし、今後の政にも役立つでしょう」
「なるほどなあ。そういう考え方もあるのか」
道臣は腕を組み、しばらく考え込んでから小さく頷いた。
「だったら俺は、どこか有力な豪族から嫁をもらっておくかな。何人も相手するのは面倒そうだし、一人で十分だ」
その話を聞きながら、大久米だけはひたすら黙っていた。もともと口数が極端に少ないうえ、並の男を遥かに上回る巨体をしているため、事情を知らない者からは怖い男だと誤解されやすい。
そのせいもあって、道臣や椎根津彦とは違い、大久米のもとには婚姻の話が一つも届いていなかった。
ようやくそのことに気づいた道臣が、少し遠慮がちに大久米へ顔を向ける。
「お前のところには来ていないのか?」
大久米は何も言わず、肩をすくめてから頷いた。
「お……おおう。気にするな、そのうち来るさ」
思わず慰めるような口調になった道臣に、椎根津彦が冷静に続けた。
「大久米は、少し誤解されているのでしょうね。これほど身体が大きいうえに無口ですから、人柄を知るより先に『怖い人』という印象を持たれてしまうのでしょう」
「あー、それもそうか。知らない奴が見たら、鬼か何かだと思うかもしれねえな」
道臣は腕を組み、大久米を頭の先から足元まで眺めた。
「しかし、そうなると……どうしたものかな」
「大久米は、妻となる相手に地位を求めますか?」
椎根津彦に尋ねられ、大久米はすぐに首を横へ振った。家柄や身分など、相手を選ぶ条件にはならないらしい。
その答えを見た椎根津彦は、しばらく考え込んでから一つの案を口にした。
「では、こうしてはどうでしょう。大久米の館で、未婚の若い女性を侍女として多く雇うのです」
大久米が真剣な顔で続きを促すと、椎根津彦は念を押すように言った。
「ただし、雇ったからといってすぐに手を出してはいけませんよ。普通に主人と侍女として暮らすのです。そうして長く接していれば、その中には大久米を怖がらなくなる者も出てくるでしょうし、あなたの表情だけで何を言いたいのか理解できる者も現れるかもしれません。そういう娘がいたなら、その時に娶ることを考えてはいかがですか?」
「それは名案だな!」
道臣が膝を打った。
「見合いみたいに最初から構えなくていいし、大久米のことをちゃんと知ってから好きになってくれるかもしれねえ。……けどよ」
そこで道臣は大久米を見上げ、少しだけ声を落とした。
「いるのか? こいつの顔だけで何を考えてるか分かるような女」
椎根津彦も大久米を見た。
大久米も二人を見返した。
三人の間に、なんとも言えない沈黙が流れる。
「…………」
誰一人として、自信を持って頷くことができなかった。
やがて椎根津彦が気を取り直すように口を開く。
「と、とにかく、やってみてはいかがでしょう。すぐに結果が出るとは限りませんが、大久米の人柄を理解してくれる、気立ての良い娘が現れることを祈りましょう。神にでも……」
「縁結びの神様を祀ってる社、この辺にあったかな……」
道臣が本気で考え始める横で、大久米は黙ったまま何度も頷いていた。
結婚相手を見つける。
新たな目標ができたからなのだろう。その目だけは、戦場へ向かう時にも負けないほど力強く輝いていた。
館に多くの侍女を雇い入れた大久米だったが、その巨体と無口な性格が災いし、黙って立っているだけで侍女たちを怯えさせてしまった。
本人には脅すつもりなどまるでないのだが、恐ろしい顔でじっと見つめられたと思い込む者も多く、せっかく雇っても次々と辞めていくため、なかなか長く勤める者が現れなかった。
それから数か月が過ぎた頃、一人の若い娘が大久米の館で侍女として働くことになった。
娘もまた、館へ入る前から大久米について様々な噂を耳にしていた。領主は鬼の化身のような大男で、ひとたび怒らせれば食われてしまう――そんな尾ひれのついた話まで、まことしやかに囁かれていたのである。
もちろん怖くないと言えば嘘になる。それでも娘は貧しい暮らしをしており、働かなければ日々の食事にも困ってしまう身の上だった。
仕事を選べるほどの余裕などなく、「食べていくためなら」と覚悟を決め、大久米の館へ足を踏み入れた。
働き始めて数日が過ぎたある日、娘は庭で一人、黙々と槍を振るう大久米の姿を目にした。
巨大な体が踏み込むたびに地面が鳴り、長い槍が風を切る。鍛え上げられた腕や肩には力強い筋肉が浮かび、額から流れる汗にも構うことなく、大久米はただひたすら同じ動きを繰り返していた。
けれど、その姿を見つめているうちに、娘の中から最初に抱いていた恐怖は少しずつ消えていった。
皆が噂するような恐ろしい人には見えなかったのである。誰かを威圧するでもなく、己の技を誇るでもなく、ただ一心に鍛錬へ打ち込んでいる。
その真摯な姿と、逞しく鍛え上げられた大きな体を見ているうちに、娘はいつしか胸の奥がほんの少し熱くなるのを感じていた。
そんなある日、大久米が館の台所近くを通りかかった。
無口なうえに人並み外れた巨漢である大久米は、ただそこに立っているだけでも相手を圧倒するような迫力があった。そのため、館に仕える侍女たちの多くは、廊下の向こうから彼の姿を見つけただけで身を固くし、なるべく目を合わせないよう道を空けてしまう。
だが、その日そこにいた新参の娘だけは違っていた。
大久米が台所の前で足を止めても、怯えて逃げることなく、不思議そうに彼を見上げたのである。
「大久米様、何か御用でしょうか?」
大久米は黙ったまま娘を見る。
「お水でしょうか?」
大久米は首を横に振った。
「では、お茶をお持ちしましょうか?」
また横に振る。
「誰かをお呼びしましょうか?」
それにも違うと首を振った。
娘は困ったように首を傾げたが、大久米が何も言わないからといって怖がることはなかった。それどころか、何を求めているのだろうと真剣に考え、思いつくものを一つずつ尋ねていく。
「もしかして……お腹が空いていらっしゃるのですか?」
その言葉に、大久米は大きく頷いた。
「あっ、やっぱりそうでしたか」
娘は嬉しそうに笑うと、すぐに台所へと入っていった。
大久米はその背中を黙って見送った。
それから娘は、大久米の姿を見かけるたびに積極的に声をかけるようになった。最初こそ、何を尋ねても返ってくるのは頷くか首を横に振るか、わずかな表情の変化ばかりで、娘も何度となく意味を取り違えた。それでも面倒がることなく、「こちらですか?」「それとも違いますか?」と根気よく確かめてくる。
大久米もまた、そんな問いかけの一つ一つに、決して適当に応じることはなかった。言葉こそほとんど発しないものの、娘が真剣に向き合ってくれるなら、自分も表情や仕草で真剣に応えようとした。
それが大久米には嬉しかった。
大きな身体と無口さだけを見て怖がるのではなく、自分が何を考えているのか知ろうとしてくれる。竹や浦以外の女性からそのように接してもらったことなど、これまでほとんどなかった。
だからこそ大久米は、何度も話しかけてくる娘に対し、口には出さずとも心から感謝するようになっていた。
それから半年も経つ頃には、娘は大久米が何も口にしなくても、その表情を見るだけで何を求めているのか察することができるようになっていた。
ある日、庭での鍛錬を終えた大久米が槍を置くと、娘は待っていたかのように手拭いを差し出した。
「はい、手拭いです。汗をお拭きください」
大久米は黙って受け取り、額から流れる汗を拭う。そんなやり取りも、今では二人にとって当たり前の日常になっていた。
食事の時も同じだった。
「はい、今日は野菜をたっぷり入れた汁物です」
差し出された椀の中を覗いた大久米は、そこに苦手な野菜を見つけた途端、露骨に嫌そうな顔をした。
その表情を見逃さなかった娘は、すぐさま腰に手を当てる。
「好き嫌いは駄目です。ちゃんと食べてください」
大久米はしばらく椀と娘の顔を交互に見比べていたが、どうやら逃げられないと悟ったらしい。わずかに肩を落とすと、観念したように箸を取り、苦手な野菜まで黙々と口へ運んでいった。
そんなある日、大久米は館の廊下を歩いている途中、数人の侍女たちが小声で話しているのを偶然耳にした。
「あの娘ばかり、大久米様に気に掛けてもらっているわよね」
「新しく入ったばかりなのに、ずいぶん贔屓されているもの」
聞こえてきたのは、あの娘に対する陰口だった。
大久米の足が止まる。
普段はほとんど感情を表に出さない男の顔に、はっきりと怒りが浮かんだ。巨体から放たれる威圧感も相まって、そのまま侍女たちへ歩み寄ると、気づいた者たちは一瞬で青ざめた。
ところが、大久米が彼女たちの前に立つより早く、話題にされていた娘が駆け寄ってきた。
「お願いです、大久米様。これは私が悪いんです。怒らないでいてください」
娘は必死に大久米を止める。
大久米は険しい顔のまま侍女たちを見据えた。娘だけが主から特別に気に掛けられているように見えれば、不満を抱く者が出ることもあるのだろう。彼女たちにも彼女たちなりの立場がある。
それでも、娘が悪く言われていることを黙って見過ごすことはできなかった。やがて大久米は怒りを抑えると、珍しく口を開いた。
「陰口を二度と叩くな」
それだけ告げると、大久米は踵を返して館の奥へと引っ込んでしまった。
しばらくして、娘が大久米のもとを訪れた。
「先ほどは、私のために怒っていただいて、ありがとうございます」
大久米は娘を見ると、当然のことをしただけだと言わんばかりの顔をした。
娘はその表情の意味をすでに理解していたのだろう。少しだけ困ったように笑った。
「けれど……私のことなんか、そんなに気に掛けないでください。私は、ここに置いていただけているだけでも十分にありがたいんですから」
大久米は何と返せばいいのかわからなかった。
戦場であれば、敵が何人いようと迷うことはない。槍を構え、盾を持ち、どう動けばいいのかを考えればよかった。だが、目の前の娘がこんな顔をしている時に何をすればいいのか、大久米にはまるでわからない。
結局、いつものように黙ったまま、娘の言葉を最後まで聞くことしかできなかった。
ただ、一つだけはっきりとわかったことがある。この娘は、自分にとって特別なのだ。
道臣や椎根津彦に勧められるまま、多くの侍女を館に雇った。自分を怖がらず、いつか理解してくれる者が現れればいい。その程度に考えて始めたことだった。
けれど、本当に現れた。
言葉の少ない自分に根気よく話しかけ、わずかな表情の違いから何を考えているのかを察し、嫌いな野菜を残そうとすれば叱り、汗をかけば何も言わず手拭いを差し出してくれる。
そして今、その娘が傷つけられたと知っただけで、抑えきれないほど腹が立った。
大久米はようやく気づいた。
自分の心をここまで揺らす女は、もうこの娘しかいなかった。
大久米は、もうこの娘しかいないと心を決めた。だが、いざ自分の気持ちを伝えるとなると、どうしても言葉が出てこない。
悩んだ末に道臣のもとを訪れ、自分の代わりに娘へ結婚の意思を伝えてほしいと頼み込んだ。
「断る」
道臣は迷うことなく言い切った。
「大久米、そこだけは自分の口で言え。男としてのけじめだ」
大久米は悩みに悩んだ末、意を決して娘を自室へ呼び出した。
「ご用件は何でしょうか?」
いつものように穏やかに尋ねる娘を前に、大久米はすぐには口を開けなかった。何かを言おうとしては黙り込み、困ったような表情を浮かべている。すでに彼の僅かな表情の変化から心情を読み取れるようになっていた娘は、急かすことなく、その言葉をじっと待った。
長い沈黙の末、大久米はようやく覚悟を決めたように娘を見つめた。
「多くは喋れない。だが、結婚して欲しい」
口にしたのは、それだけだった。
あまりにも真っ直ぐな申し出に、今度は娘の方が言葉を失った。しばらく俯いていたが、やがて戸惑いを隠せないまま顔を上げる。
「……私と大久米様とでは、身分に差があります」
大久米は迷うことなく首を横に振った。そんなことは問題ではない、とでもいうように。
「それに、私のような者を娶れば、大久米様まで色々な方々に侮られてしまうかもしれません。きっと、ご迷惑をお掛けすることになります」
それでも大久米の答えは変わらなかった。もう一度、はっきりと首を横に振る。誰に何を言われようと構わない。その意思だけは、言葉にせずとも十分に伝わった。
そして大久米は巨体を小さくするように深く頭を下げると、もう一度だけ口を開いた。
「頼む」
それだけだった。
「実は私……最初に大久米様のお姿を見た時から、お慕い申し上げていました。大きくて、たくましくて、毎日ひたすら鍛錬を続けていらっしゃる。そのお姿を見ているうちに、いつの間にか目で追うようになっていたんです」
大久米は何も言わず、ただ真剣な眼差しで娘を見つめていた。いつもの無表情にも近い顔ではあったが、娘にはもう、その奥にある驚きも喜びも伝わっている。
「最初の頃は、大久米様が何をおっしゃりたいのか全然分からなくて、本当に大変でした。何を聞いても頷くか首を振るだけで……私、何度も見当違いなことを言いましたよね」
娘は思い出したように小さく笑った。
「でも、毎日お側にいるうちに、少しずつ分かるようになってきたんです。今日はお腹が空いているとか、少し疲れているとか、これは嫌いな食べ物だとか。大久米様の顔を見れば何となく分かるようになって、それがとても嬉しくて……いつの間にか、大久米様のお気持ちを考えることが楽しくなっていました」
そこで娘は一度言葉を切り、胸の前でそっと手を重ねた。
「こんな日々が、ずっと続けばいいのにって思うようになったんです。ですから……こんな私で本当に良いのでしたら、喜んでお受けいたします」
大久米はしばらく娘を見つめたまま動かなかった。やがて大きな手を伸ばし、壊れ物に触れるような慎重さで、その小さな手を包み込む。
言葉はなかった。
けれど、その顔に浮かんだ喜びだけは、もう娘にも見間違えようがなかった。
大久米は娘の手を握ったまま、胸の奥に広がっていく幸福を、静かに噛みしめていた。
大久米の婚姻が決まったという知らせを聞き、真っ先に館へ駆けつけてきたのは道臣だった。
大久米から娘を紹介されると、道臣はしばらく彼女の顔を見つめたあと、深々と頭を下げた。
「大久米を頼む」
まるで息子を託す親のような言い方に、娘は思わず目を瞬かせた。想像していた以上の歓迎を受け、どう反応すればよいのか分からなかったのである。
「あの……お話は喜んでお受けいたしました。ただ、本当に私のような身分の者でもよろしいのでしょうか?」
「なんだ、そんなことを気にしていたのか」
道臣は意外そうな顔をした。
「大久米だって、もとは貧しい民の出だぞ。幼い頃に流行病で両親を亡くしてな。村の者たちも病を恐れて、こいつを村から追い出した。それで行く当てもなく路頭に迷っていたところを、磐余彦様が拾ってくださったんだ。それから俺たちと一緒に育った。今でこそ所領を持つ身になったが、生まれの身分なんて気にするような奴じゃない」
隣に立っていた大久米も、道臣の言葉に静かに頷く。
「そうだったのですか……」
娘は驚きながら大久米を見上げた。恐ろしいほど大きな体を持ち、今では多くの兵を束ねる領主である。その彼が、自分よりも遥かに苦しい幼少期を送っていたとは思ってもみなかった。
それを知って身分の違いを恐れる気持ちよりも、これまで何も語らず生きてきた大久米への尊敬の念のほうが強くなっていった。
「それにな」
道臣は少しだけ表情を和らげると、今度は真っ直ぐ娘を見る。
「大久米を選んでくれて、ありがとう」
「え……?」
「こいつは昔からこんな調子だ。何を考えているのか、慣れていない奴にはさっぱり分からん。それでも、あんたは大久米のことを分かってくれたんだろう? なら、俺から言えるのはそれだけだ」
道臣はそう言って笑った。
「本当にありがとう。これからも、こいつをよろしく頼む」
「い、いえ……私でできることでしたら、喜んで……」
娘は慌てて頭を下げた。
大久米との婚姻を咎められるどころか、長年の友である道臣からここまで感謝されるとは思ってもいなかった。あまりの歓迎ぶりに戸惑う娘の横で、大久米だけはいつものように何も言わず、それでもどこか嬉しそうな顔をして頷いていた。
後日、大久米の婚姻の儀が執り行われると、そこには磐余彦王をはじめ、竹、浦、道臣、椎根津彦、さらに各地の有力豪族たちまでが顔を揃えた。
もとは身寄りもなく、言葉少なに生きてきた大久米の門出を祝おうと集まった者たちによって宴は大いに賑わい、祝いの声と笑いが絶えることなく、婚礼は盛大なものとなった。
やがて時が流れても、道臣、大久米、椎根津彦の三人が磐余彦王の傍らを離れることはなかった。
まだ磐余彦が王となる以前、わずかな仲間とともに旗を掲げた頃から苦楽を共にしてきた三人は、その後も変わらぬ股肱の臣として王を支え続け、大倭国の礎を築いていくことになる。




