一話 磐余彦の受難
朝――。
すでに身支度を整えた竹が部屋へ入ると、寝台では磐余彦と浦がまだ仲良く眠り続けていた。朝の光が差し込んでいるというのに、二人とも起きる気配すらない。
「磐余彦様、浦。いつまで寝ているの。起きなさい」
竹の声に、磐余彦がようやく薄く目を開ける。けれど、まだ半分以上は夢の中らしく、ぼんやりと竹の姿を見上げた。
「ふにゃ……たけぇー」
そのまま甘えるように両腕を伸ばし、竹へ抱きつこうとする。
――コツン。
「いたっ……」
伸ばされた磐余彦の頭を、竹は容赦なく軽く叩いた。
「朝ですよ。寝ぼけてないで、ちゃんと起きなさい」
竹は呆れたように息を吐くと、今度は磐余彦の隣へ視線を向ける。そこでは浦が磐余彦の身体に腕を回し、しっかりと抱きついたまま目を閉じていた。
「ほら、浦も。いつまでも磐余彦様に抱きついてないの!」
「もう少しだけ……」
「駄目!」
間髪入れずに言い切られ、磐余彦と浦は揃って肩を落とした。
「「はーい……」」
昼までは朝議が続いた。竹と浦はいつものように磐余彦の傍らへ護衛として控え、磐余彦も朝の寝ぼけた姿が嘘のように王として真剣な表情を浮かべながら、持ち込まれる一つ一つの問題に耳を傾け、重臣たちと意見を交わしていった。
午後になると宮を出て、周辺の集落や田畑を巡りながら民の暮らしを確かめるための視察へ向かった。
竹と浦も当然のように護衛として付き従っていたが、しばらく歩いたところで、それまで真面目に民の様子を見ていた磐余彦が、不意に困り果てたような顔をしてぼやき始めた。
「吾平津媛が、そろそろ橿原の宮に来るみたい……」
視察の途中、磐余彦がいかにも気の重そうな声で呟くと、隣を歩いていた浦はあっさりと言った。
「あら、よかったじゃない」
「それがね……使者から聞いたんだけど、すっごく怒ってたみたいなんだよ」
「それはそうよ」
竹まで当然のように言い切り、浦も楽しそうに続ける。
「日向に戻ってこないばかりか、奥さんを三人も増やしてるんだもん。怒らない方がおかしいでしょう?」
「言わないで~……」
現実を突きつけられた磐余彦は、聞きたくないとばかりに両手で耳を塞いだ。そんな主の姿を横目に、竹は容赦なく追い打ちをかける。
「それに、五十鈴媛様との婚姻もそろそろですね」
「たけぇー、うらぁー……守って……」
情けない声で助けを求める磐余彦だったが、竹は表情一つ変えなかった。
「妃同士の揉め事は護衛の対象外です」
「しっらなぁーーーい」
浦まで顔を背けて突き放す。
「ええー……」
「少しくらい痛い目に遭っておいた方が、後々楽よ」
「そうそう。必要なら、お腹を下す薬くらい渡しておこうかしら?」
「なんか二人とも酷くない?」
護衛としてならば命を懸けて守ってくれる二人も、こと妃同士の問題となれば話は別らしい。竹も浦も自分たち自身が妃となったためか、この件に関してだけは驚くほど非情であった。
「それと、もう一つ大事なことを決めておかなくてはいけませんね」
竹がふと思い出したように口にすると、浦もすぐに察したらしく、ぽんと手を打った。
「そっか。夜の順番ね。今までは毎晩三人だったけど、これからはそうはいかないものね」
「……それって、ちゃんと決めておかないといけないことなの?」
嫌な予感を覚えた磐余彦が恐る恐る尋ねると、竹は当然だと言わんばかりに頷いた。
「当たり前です。後になって揉めないよう、最初からきちんと決めておかなくてはなりません」
「じゃあ、どういう順番がいいかな?」
浦が楽しげに問いかけると、竹はしばらく考え込んだ末、指を折りながら予定を組み始めた。
「そうですね……まず一日目は、新たに正妃となられる五十鈴媛様でしょう」
「それなら二日目は吾平津媛様だね」
「三日目と四日目は、私と浦がそれぞれ一日ずつ」
「うんうん。それじゃあ五日目は、五十鈴媛様と吾平津媛様のお二人にして――六日目は私たち二人の日!」
「そして七日目は、妃全員をお相手していただきましょう」
「それで決まり! あとは七日ごとに、その繰り返しだね!」
二人があまりにも自然に話を進めていくものだから、磐余彦は途中まで口を挟むことすらできなかった。
だが最後の一言を理解した瞬間、その顔からさっと血の気が引いた。
「ま、待って……待って! 三人までなら、まだ分かるよ!? でも最後の『全員』って何!?」
「言葉の通りですが?」
竹は涼しい顔で答えた。
隣では浦が満面の笑みを浮かべている。
「みんなのこと、ちゃーんと愛してね♪」
「む、無理だってば! さすがに全員は無理だよぉ! 本当に死んじゃうよー!」
「気合いです」
「あははっ、楽しみだねー!」
「楽しみじゃないよぉぉぉ――!」
容赦なく決められていく予定を前に、磐余彦の悲鳴だけが虚しく響いていた。
やがて、五十鈴媛姫との婚姻の日を迎えた。
磐余彦にはすでに三人の妻がいることも事前に伝えられており、五十鈴媛姫もそれを承知したうえで婚姻を受け入れていた。儀式は滞りなく終わり、新たな正妃を迎えた橿原の宮がようやく落ち着きを取り戻した頃、今度は日向から吾平津媛姫が到着したとの知らせが入った。
宮の前まで出迎えに出た磐余彦は、久方ぶりに見る妻の姿にぎこちない笑みを浮かべながら声をかけた。
「遠路お疲れだったね。疲れてないか?」
だが、吾平津媛は返事をしなかった。
磐余彦の前をそのまま通り過ぎると、後ろで護衛として控えていた竹と浦のもとへ真っ直ぐ歩いていく。
「…………」
完全に無視された磐余彦は何も言えず、その場で固まった。吾平津媛が怒っていることは日向からの使者を通じて嫌というほど聞かされている。今はただ、こちらを振り返らないでほしいと願うばかりで、とても正面から顔を見る勇気などなかった。
一方、吾平津媛は竹と浦の前まで来ると、磐余彦に向けていたものとは打って変わった穏やかな表情を浮かべた。
「竹殿、浦殿。東征の間、護衛としてあの人を守り通してくださったこと、心より感謝しております」
竹は姿勢を正し、深く頭を下げる。
「はっ」
浦もその隣で丁寧に礼をした。
「お言葉、感謝いたします」
吾平津媛は二人を交互に見つめると、今度は柔らかく微笑んだ。
「これからは護衛としてだけではありません。同じ妃として、どうか仲良くしてくださいませ」
「もちろんでございます」
「はい。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
竹と浦は快く応じた。
その様子を少し離れたところから見守っていた磐余彦だけが、妻たちの間に自分の知らないところで友好的な空気が出来上がっていくことに安堵しながらも、自分にだけ一言も向けられないことに別の意味で冷や汗を流していた。
その夜、竹と浦は気を利かせて席を外し、部屋には磐余彦と吾平津媛の二人だけが残された。
向かい合って座ったものの、どちらもすぐには口を開かない。静まり返った部屋の中で、磐余彦は何度も吾平津媛の顔色を窺っていたが、ついに耐えきれなくなったように、おそるおそる声をかけた。
「……怒ってます?」
「当たり前です」
間髪入れずに返され、磐余彦の肩がびくりと跳ねた。
「その……許してくれないかな……」
すると吾平津媛は無言で手を伸ばし、磐余彦の頬を思いきりつねり上げた。
「いたたたたたっ!」
「簡単に許してほしいですって? どの口が言うのですかぁー! 信じられません!」
「ご、ごめん吾平津媛! 痛い、痛いぃぃぃーーー!」
「ふん!」
ようやく頬を解放された磐余彦は、赤くなったところを押さえながら涙目になる。吾平津媛もまだ完全に怒りが収まったわけではなく、ぷいと顔を背けたままだった。
それでも、長く離れていた二人の間にあった張り詰めた空気は、ほんの少しだけ和らいでいた。
すぐにすべてを許してもらえるわけではない。それでもその夜、二人はほんの少しだけ、夫婦としての距離を取り戻した。
ある日、磐余彦が政務で席を外している間に、四人の妃だけが一室へ集められた。
「相談事があると聞きましたが、何でしょう?」
五十鈴媛が不思議そうに尋ねると、隣に座る吾平津媛も首を傾げた。
「そうですわ。わざわざ四人だけ集まって、何事ですの?」
「実は、今後のために決まり事を作っておいた方がいいと思いまして……」
いつになく言いにくそうに竹が切り出す。その横で、浦は待ってましたとばかりに明るく口を開いた。
「夜の順番ですわ!」
「……夜の?」
五十鈴媛が目を瞬かせる。
竹は至って真面目な顔のまま、すでに浦と相談していた順番について説明を始めた。誰が何日目を担当するか、一人ずつの日だけではなく二人で共に過ごす日も設けること、そして最後には四人全員で磐余彦の相手をする日まで含まれている。
話が進むにつれ、吾平津媛の頬はみるみる赤くなっていった。
「よ、四人で……ですの?」
「はい。その方が公平かと」
竹が平然と答える。
「それに、せっかくなんだから、お互いどういうふうに磐余彦様と過ごしてるのか知っておくのもいいと思うの」
浦が楽しそうに付け加えると、吾平津媛はさらに顔を赤らめたものの、しばらく考え込んだ末、小さく息を吐いた。
「……なるほど。それなら、わたくしも異存はありませんわ」
どうやら恥ずかしさよりも、他の妃たちに負けたくないという気持ちの方が勝ったらしい。
「えっ……?」
残された五十鈴媛だけが呆然としていた。
一人ずつなら、まだ分かる。二人一緒というのも、どうにか理解しよう。しかし妃全員でという話になると、何をどう受け止めればいいのかさえ分からなかった。
「本当に……皆で、ですか?」
「はい」
竹は真顔で頷く。
「みんな仲良く、ですわ!」
浦も満面の笑みで頷いた。
五十鈴媛はしばらく言葉を失っていたが、やがて正妃としての意地が顔を覗かせる。ここで自分だけ尻込みするわけにはいかない。
「……分かりました。わたくしも、それで構いません」
「決まりですね!」
浦が嬉しそうに手を叩き、竹も満足そうに頷いた。こうして磐余彦本人の知らぬところで、四人の妃による夜の取り決めは正式に決定した。
そして後日、その事実を知らされた磐余彦は、心の底からぼやくことになる。
「あの最後の日の話……冗談じゃなかったの?」




