二十七話 泣き虫皇子だった神武天皇は即位する
西暦二百四十八年、橿原の仮館。
女王・日巫女が亡くなったという報せは、瞬く間に倭国中へと広がっていた。長きにわたり大倭壱国連合の頂点に立ち、諸国をまとめてきた女王の死は、ひとりの王が世を去ったというだけでは済まない。これまで日巫女という存在によって保たれていた均衡そのものが、大きく揺らぎ始めていた。
そして磐余彦もまた、ひとつの決断を迫られていた。
その日、橿原に設けられた仮館には、これからの国の行く末を左右する重臣たちが集められていた。
宇摩志麻遅、弟宇迦斯、高倉下。そして日向から長く磐余彦を支えてきた日臣、大久米、椎根津彦の六名である。
磐余彦の左右には、竹と浦の姿もあった。
二人はすでに磐余彦の妃となることが決まっていたが、その立ち位置は何ひとつ変わっていない。これまでと同じように主の左右へ控え、いつでも剣や槍を取れるよう周囲へ目を配っている。
妃となろうとも、自分たちは磐余彦を守る者である。
その意志を示すかのように、竹も浦も静かに護衛の位置へ立ち続けていた。
「日巫女様が亡くなられたのは、間違いないのか?」
日臣が重苦しい声で問いかけると、椎根津彦は静かに頷いた。
「何度も確認しております。残念ながら、間違いございません」
「これから、どうなるのだ……」
弟宇迦斯が不安を隠せず呟く。その言葉を受け、高倉下も険しい表情を浮かべた。
「それにしても、この時期にとはな」
「まったくだ。橿原の宮すら、まだ完成しておらんというのに……」
日臣も腕を組み、深く息を吐いた。
女王・日巫女の死。それは一人の偉大な統治者を失ったというだけではない。長きにわたり倭国を束ねてきた大倭壱国連合そのものが、これから大きく揺らぐ可能性を意味していた。
重苦しい沈黙が仮館を包む中、宇摩志麻遅がゆっくりと磐余彦へ顔を向けた。
「磐余彦様。これは、よい機会やもしれません」
「機会とは……?」
磐余彦が問い返す。
誰もがその言葉の意味を察していた。だが、それを口にすることには躊躇いがあった。
そんな中、大久米だけが迷わなかった。
「今こそ、即位すべきです」
低く、力強い声が室内に響いた。その場にいた者たちは、一斉に大久米を見る。
誰もが脳裏には思い描いていたことであった。けれど、日巫女の死を知った直後ということもあり、その言葉を口にすることをためらっていたのだ。
大久米は、その迷いを断ち切るようにはっきりと言い切った。
「そ、そうだな。ならば橿原の宮が完成するのに合わせ、王として即位するのがよいだろう」
日臣が大久米の言葉に続くと、弟宇迦斯は驚いたように目を見開いた。
「おお……王に」
「この地を安定させるためにも、必要なことでしょうな」
高倉下も静かに賛同する。皆の意見を聞いていた磐余彦は、今度は椎根津彦へと視線を向けた。
「椎根津彦、そなたはどう考える?」
「結論から申し上げれば、即位は急いだ方がよいと考えております」
椎根津彦は迷うことなく答えた。
「これまで我らの後ろ盾であった大倭壱国連合は、日巫女様を失ったことで一気に不安定となりましょう。場合によっては、諸国の思惑がぶつかり合い、内乱にまで発展する恐れがございます。もはや大倭壱国連合を頼りにして、この地を治めていくことはできませぬ」
そこで一度言葉を切ると、椎根津彦は磐余彦をまっすぐに見据えた。
「なればこそ、我らは我らの力で、この地を一刻も早く安定させねばなりません。そのためにも磐余彦様が王として立ち、誰がこの国を治めるのかを内外に示す必要がございます。それに――今こそ、熊野で交わされた密議を履行する時かと」
「宇摩志麻遅殿は、どうですか?」
磐余彦に問われ、宇摩志麻遅は深く頷いた。
「まさに今こそ、その時だと考えております。どうか忘れないでいただきたい。我らの主は日巫女様ではございません」
宇摩志麻遅はそこで言葉を区切り、力強く告げた。
「磐余彦様。貴方でございます」
「まさにその通りです!」
日臣がすぐさま声を上げ、大久米も隣で大きく頷いた。
椎根津彦も、さらに言葉を重ねる。
「磐余彦様。今ここで立たねば、我らがはるばる日向を発ち、多くの犠牲を払いながら東征してきた意味そのものを失いかねません。立つべき時を、決して間違えてはなりませぬ」
「少し、聞いてはくれないか」
磐余彦はそう告げると、一度ゆっくりと息を吸い込み、集まった者たちの顔を見渡してから口を開いた。
「私が国を治めるうえで模範としたいのは、一族の祖である伊邪那岐様だ。もちろん、日巫女様の御代も素晴らしいものであったと思っている。だが私は、やはり伊邪那岐様が歩んだ道を根幹に置きたい」
そこで磐余彦はわずかに言葉を切った。
「だからといって、昔のやり方だけに固執するつもりはない。新たな制度も、法も、文字も、文化も、建築の技も、良いものならば積極的に取り入れていく。幼い頃に魏の洛陽をこの目で見たことも、今になれば大きな意味があったと思う。三輪山が長い年月をかけて築いてきたものについても、この国に役立つのであれば受け継いでいきたい」
そして最後に、磐余彦は皆へまっすぐな視線を向けた。
「けれど、国造りの根に置くものだけは変えたくない。伊邪那岐様が願い、長い年月をかけて築いてきた、人を生かし、人を集め、共に豊かになっていく国だ。私はそれを、この地でも目指したいと思っている。皆は、それでよいだろうか」
「当然でございます」
日臣が力強く答えると、大久米も無言のまま大きく頷いた。
「洛陽で得た知識と経験、今こそ役立ててみせまする」
椎根津彦も迷いなく続く。宇摩志麻遅は皆の顔を見渡してから、静かに口を開いた。
「異論はない。那岐様は儂の祖でもある。その御方が目指した国造りであるならば、儂も力を尽くそう」
高倉下と弟宇迦斯も、それぞれ深く頷いた。誰一人として異を唱える者はいない。
磐余彦はそんな皆の姿をしばらく見つめた後、ゆっくりと息を吸った。
「……よろしい。ならば私は、この地の王として即位をする」
その言葉は静かだったが、磐余彦自身の覚悟を示すには十分な重みを持っていた。
「ところで、死後の日巫女様のお名前は、どのように扱いましょうか」
椎根津彦がふと思い出したように問いかけると、日臣は首を傾げた。
「そのままでは何か問題があるのか?」
「亡くなられた偉人を、神として祀るということですな」
高倉下の言葉を受け、宇摩志麻遅も静かに頷く。
「社を建てることにも異論はない。良い場所を探しておきましょう。だが――」
「椎根津彦が気にしているのは、『巫女』という部分だね」
磐余彦がそう言うと、椎根津彦は「はい」と頷いた。
「巫女とは、本来は神に仕える者でございます。日巫女様を神としてお祀りするのであれば、その御名に『巫女』という言葉が残ったままでは、少々おかしなことになりましょう。神に仕える者が、そのまま神になることになりますゆえ」
「ああ……なるほどな」
日臣もようやく意味を理解し、腕を組んだ。
「確かに、それでは少し不自然かもしれん。ならば、神として祀るための新しい名を考えるしかないな」
「日巫女は、日の巫女だったのですよね?」
宇摩志麻遅の問いに、椎根津彦は静かに頷いた。
「はい。『日』とは太陽を意味します。天を照らす巫女様――それが日巫女様でございました」
その言葉を聞いた磐余彦は、しばし考え込むように視線を落とした。やがて何かを掴んだように顔を上げる。
「天を照らす……ならば、『天照』というのはどうでしょう?」
「ほう。響きがいいですな」
弟宇迦斯が感心したように頷く。
磐余彦はその名を確かめるように、もう一度ゆっくりと口にした。
「天照……太陽を司る神。――天照大御神」
その瞬間、居並ぶ者たちの間から、
「おお……」
と、自然に感嘆の声が漏れた。
「すげー立派な神様に見えます」
日臣が感心したように声を漏らすと、椎根津彦も静かに頷いた。
「良き名かと」
「では、日巫女様には『天照大御神』という贈り名を」
磐余彦がそう決めると、日臣はふと思い出したように顔を上げた。
「社はどうします? 即位までに間に合うのですか?」
「間に合わなくても構わぬだろう」
宇摩志麻遅は落ち着いた様子で答える。
「社を建てること、そして贈り名さえ決まっておればよい。形を整えるのは、その後でもできる」
「そうですね。即位の儀でも、この御名は使わせていただきましょう」
椎根津彦の言葉に、皆がそれぞれ頷いた。
その間も、竹と浦は磐余彦の左右から少し離れた護衛の位置に立ち、黙って話を聞いていた。二人はすでに磐余彦の妃となることが決まっていたが、この場ではあくまで護衛であり、重臣たちの政議に口を挟む権限はない。
それでも、今この場で決められていることの重さは十分に理解していた。
かつて自分たちも仕えた日巫女が、これより先は一人の女王ではなく、天照大御神という神として後の世に残されていく。その瞬間に立ち会っているのだと思うと、竹も浦も思わず息を呑んだ。
二人はきっと、この日の光景を生涯忘れることはないだろう。
やがて磐余彦が静かに姿勢を正すと、その場にいた者たちもそれに倣い、一斉に深く平伏した。
西暦二百四十九年。
それから数か月の時が流れ、ついに完成した橿原の宮では、磐余彦王の即位の儀が執り行われようとしていた。
祭殿には二本の御旗が高々と掲げられている。一方には金色の円を描いた天照大御神の御旗が、もう一方には銀色の円を描いた月読命の御旗があり、時折吹き抜ける風を受けて静かに揺れていた。
宮を埋め尽くすほどの人々が集まっているというのに、不思議なほど物音は少なかった。
誰もが言葉を慎み、間もなく始まる儀式を待っている。
日臣、大久米、椎根津彦をはじめ、宇摩志麻遅、高倉下、弟宇迦斯、吉備冠者。そして橿原周辺の豪族だけでなく、さらに東方の諸国からも多くの豪族たちが参じていた。
ここにいる者たちは、ただ祝いのために集まったわけではない。
これより誰を主と仰ぎ、どのような国のもとで生きていくのか。その答えが、まさにこの場で定められようとしている。
自然と祭殿へ向けられる視線にも重みがあった。
咳払いひとつ、衣擦れひとつでさえ妙に大きく聞こえる。これまで敵として刃を交えた者も、遠方から様子を見に来た者も、それぞれ異なる思いを胸に抱きながら、新たな王の誕生を待っていた。
その大勢の参列者から少し離れた場所には、竹と浦の姿があった。
二人は磐余彦の妃となることが決まった今も、華やかな席へ加わることなく、これまでと変わらぬ護衛としての位置に立っている。
竹は微動だにせず周囲へ鋭い視線を巡らせ、浦も普段の明るい表情を消して、人々の動きを一つずつ確かめていた。
二人にとっても、今日だけはいつもの護衛とは違う。この日を境に、磐余彦は一人の皇子ではなく、この地を背負う王となる。
だからこそ、何事も起こさせるわけにはいかなかった。張り詰めた空気の中、誰もがその時を待っていた。
そして宮の上座に進み出た磐余彦の頭上へ、王たる者の証となる冠が静かに戴かれた。その瞬間、この地を治める新たな王――磐余彦王が誕生した。
その名が告げられた途端、参列者たちの間から大きなどよめきが広がった。
磐余彦王は、集まった者たちをゆっくりと見渡した。東征の果てにこの地へ集った者もいれば、かつて刃を交えた者もいる。そのすべてに届くよう、王は声を張った。
「余はこの地に新たな国を建てる。その国号を――大倭とする」
参列者の間に、静かなどよめきが広がった。大倭。その名から、遠く筑紫の大倭壱国を思い浮かべた者も少なくなかった。
だが磐余彦王は、その意味を違えることなく言葉を続けた。
「大倭とは、大倭壱国をそのままこの地へ移すという意味ではない。かつて我らの祖、伊邪那岐様は筑紫の山門に田を拓き、人を集め、そこに国を造られた。その小さな営みはやがて山門壱国となり、日巫女女王の御代には大倭壱国へと大きく育った」
磐余彦王は一度言葉を切り、強い眼差しで居並ぶ者たちを見つめる。
「ならば余は、その国そのものではなく、その志をこの地に継ぎたい。筑紫の国を移すのではない。この土地に生きる者たちと共に、この土地から新たな大倭を造るのだ」
どよめきが、次第に大きくなっていった。
「そして、この新たな国の民とは、余に従った者だけではない。東征の途上で余に刃を向けた者も、今日より等しくこの国に生きる民である」
その言葉が響いた瞬間、参列者たちの間から驚きの声が上がった。やがてそれは歓声へと変わり、宮全体を震わせるほどの大きな響きとなっていく。
磐余彦王はその声を受け止めながら、最後に高らかに宣言した。
「新たな国造りを――皆と共に!」
「磐余彦王に栄えあれ! 大倭国に栄えあれ!」
参列者たちが一斉に声を張り上げる中、日臣、大久米、椎根津彦の三人もまた、溢れる涙を拭おうともせずに歓声を上げていた。
とりわけ日臣には、目の前の光景がまるで夢のように思えた。幼い頃は身体も弱く、少しつらいことがあれば泣いていたあの皇子が、多くの仲間を率いて遥かな道を歩み、今では一国を背負う王として人々の前に立っている。その姿をここまで見届け、自分もまた主を支える者として役目を果たしてこられたのだと思うと、胸の奥から込み上げてくる誇らしさを抑えることができなかった。
普段は必要なことさえ滅多に口にしない大久米も、この時ばかりは人目を憚ることなく泣きながら声を張り上げていた。そして冷静沈着で、声を荒らげることなどほとんどない椎根津彦までもが頬を涙で濡らし、二人と肩を並べるようにして、何度も何度も新たな王の名を叫び続けていた。
竹と浦は、大歓声に包まれながら上座に立つ磐余彦の姿を、感慨深い思いで見つめていた。かつては二人に甘え、少しつらいことがあればすぐに弱音を吐き、ときには諦めそうになって泣いていた皇子である。その頃の面影を知っているからこそ、今、国を背負う王として人々の前に立つ姿は、二人の目には眩しいほど立派なものに映っていた。
「磐余彦王に栄えあれ! 大倭国に栄えあれ! 磐余彦王に栄えあれ! 大倭国に栄えあれ!」
宮を揺らすほどの叫びは幾度となく繰り返され、新たな王と国の誕生を祝う声は、いつまでも途切れることなく響き続けた。
後の世になると、「大倭」は奈良時代から次第に「大和」と表記されるようになり、平安時代には「大和」の表記が広く定着していくことになる。
日臣――東征において常に軍の先鋒を務め、その功を認められて、のちに道臣と名を改める。東征後も磐余彦王を支え続け、その血脈は後世の大伴氏へと連なり、王権を支える武門の祖として語り継がれていった。
大久米――東征後も磐余彦王に仕え続ける。国見丘の戦いなどで久米の兵たちが歌った歌や、竹と浦が舞った武の舞は、やがて久米歌、久米舞として後世へ伝承された。寡黙ながら誰よりも勇猛であった彼は、久米氏の祖としてその名を残していく。
椎根津彦――東征が終わった後も磐余彦王の傍らにあり、戦場で培った知識と智謀を、今度は国を治めるために用いた。その系譜は倭国造をはじめ、後世のさまざまな氏族へと受け継がれていった。
宇摩志麻遅――父・邇芸速日の遺志を受け継ぎ、三輪の地を磐余彦王へ託した後、その臣として新たな国造りに力を尽くした。彼の子孫はやがて物部氏として栄え、長く王権を支える有力な氏族となっていく。
吉備冠者――東征後も故郷の吉備で民から深く慕われ、温羅さまと呼ばれ続けた。時代が下るにつれて、その記憶は鬼退治の物語へと姿を変えていったものの、吉備の地では現在に至るまで温羅を祀る祭りが受け継がれている。
高倉下――東征後も磐余彦王に仕え、新たな大倭国を支える一人となった。その血筋は後世の尾張氏へと連なり、長くその名を残していく。
弟宇迦斯――兄を失いながらも宇陀の民を守る道を選び、東征後も磐余彦王に従って宇陀の地を治めた。その子孫もまた宇陀に根を張り、この地を代表する豪族として続いていった。
竹――東征が終わった後も護衛として磐余彦王の傍らに立ち続け、同時に妃として生涯を添い遂げた。その血筋には、後世に竹取の一族として語られる伝承が残されていく。
浦――姉と同じく、東征後も護衛として磐余彦王の傍らに立ち続け、妃としてその生涯を共にした。彼女の子孫には、遠い後世に浦島の一族として語り継がれる伝承が残された。
磐余彦――長い東征の果てに大倭国の王として即位する。泣き虫と呼ばれた幼い皇子は、多くの仲間と出会い、支えられ、ときには失敗しながらも、一国を背負う王へと成長した。後世、彼には神武という贈り名が与えられ、日本最初の天皇、神武天皇として語り継がれることになる。さらに神武天皇の即位の日は国の始まりを示す紀元とされ、二月十一日は建国を記念する日として後世に残った。
鴉――東征軍を熊野へ導き、幾度となく争いを避けるために動いた謎の人物。東征が終わると人々の前から忽然と姿を消したが、その存在まで消え去ったわけではなかった。三本の足を持つ不思議な鴉が神武を導いたという物語となり、その記憶は長い歳月の中で形を変えながら、後世に八咫烏の伝承として残されていく。




