二十六話 不老長寿の妙薬
西暦二百四十八年。磐余彦が自立してから、四年の歳月が流れていた。
橿原の仮設館で、那岐は磐余彦と竹、浦の三人を自室へ呼び出した。
「お呼びとのことで」
磐余彦がそう声をかけると、竹と浦もその傍らへ座った。
「実は三人に話があってね。少し待っていて」
那岐はそう言って席を立つと、湯呑と小さな薬を三人分用意し、それぞれの前へ静かに置いた。三人が不思議そうに薬を見つめる中、那岐は席へ戻る。
「この薬は、十年ほど病への抵抗力と回復力を高めてくれるものだよ。三人には、これを服用してほしいんだ」
「那岐様は、医術にも精通されておられたのですか?」
竹が目の前の薬を見つめながら尋ねると、那岐は少し言いにくそうに続けた。
「ただ、副作用があってね。同じく十年ほど、老化が止まります」
「それのどこが副作用なのですか? 良いことじゃないですか」
浦にはむしろ利点にしか聞こえなかったらしく、不思議そうに首を傾げる。
「私にとって、不老は祝福ではなく呪いだから……」
那岐の静かな言葉に、浦はそれ以上何も言わなかった。
「しかし、そんな高価なものを私たちが服用してよいのでしょうか?」
磐余彦が遠慮がちに尋ねると、那岐は穏やかに答えた。
「君たちだから服用してほしいんだ」
「わかりました」
磐余彦は薬を口に入れ、湯で流し込んだ。竹と浦もそれに続き、それぞれ薬を服用する。だが、飲み終えた竹は改めて那岐の言葉を思い返し、違和感に気づいた。
「那岐様……でも、この薬はどういうことでしょうか? 十年間も病に強くなって、しかも老化まで止まる。それって、つまり……」
那岐は三人を静かに見つめた。
「そう。不老長寿の妙薬だよ」
その一言に、磐余彦も竹も浦も言葉を失った。
「この薬は、服用する間隔さえきちんと管理して、十分な数を持っていれば……理屈の上では、ほとんど際限なく生き続けることもできるんだ」
「……!?」
磐余彦が目を見開く。
那岐はその反応を見ながら、静かに続けた。
「もちろん、万能ではないよ。主な効能は病への抵抗力と回復力を高めること、それから老化を止めること。一錠で効果が続くのは、およそ十年ほどだね。刀傷や骨折みたいな、身体そのものが傷ついた時の回復まで劇的に早くなるわけではないんだ」
そして那岐は、少しだけ表情を引き締めた。
「それに、十年効くからといって二錠飲めば二十年になるわけでもない。薬が身体に残っている間に重ねて服用すると、むしろ身体の方が耐えられなくなることがある。だから次に飲むなら、基本的には効果が切れる十年後。それくらい間隔を空ける必要があるんだ」
「え?」
浦が自分の腹を見下ろし、それから不安そうに那岐を見た。
「じゃあ私、今すぐもう一錠飲んだら死んじゃうの?」
「いや、すぐに必ず死ぬという意味ではないよ」
那岐は苦笑しながら首を横に振った。
「ただ、短い期間に何錠も服用するのは危険なんだ。この薬は効き目が強い分、毒性もとても強い。だから一錠飲んだら、少なくとも数年間は絶対に重ねて飲まない方がいい。できるなら、きちんと十年近く空ける。それが一番安全だよ」
「しかし……信じられません。あまりにも、とんでもない効能ではありませんか」
竹は手元の湯呑を見つめながら、いまだ信じ切れない様子で呟いた。
那岐は静かに頷く。
「使い方次第では、これは不老長寿の妙薬の完成形ともいえるんだ。不死になれるわけではないけれどね」
磐余彦は思わず那岐の顔を見つめた。
病への抵抗力を高め、傷んだ身体の回復を助け、そのうえ十年もの間、老いることさえない。そんな薬が本当に存在するのなら、国一つどころではない。誰もが欲しがり、奪い合いになってもおかしくない代物だった。
「そんな大切な話を……なぜ、私達に?」
問われた那岐は、すぐには答えなかった。
「なんでなんだろうね……」
困ったように笑いながら、視線を伏せる。本当は自分でも分かっていた。
これは軽々しく口にしてよい秘密ではない。ましてや、この薬の存在そのものを誰かに伝えるべきではないことも、那岐自身が誰より理解していた。
それでも、目の前にいる三人には話しておきたかった。しばらく沈黙したあと、那岐は磐余彦、竹、浦を順に見つめた。
「三人とも妖術も、不老長寿も受け継いではいない。でも、私の子孫であることは分かっていますよね?」
磐余彦と竹、浦は互いに顔を見合わせ、それから揃って頷いた。
「遡ること百年ほど前、私の妻――伊邪那美は、三人目の子を産んだ時の難産がもとで亡くなったんだ」
那岐は静かに語りながら、自分の手へ視線を落とした。
「不老長寿の身体も、妖術も持っていた。それなのに、私は妻一人助けることができなかった。……無力だったよ」
それをきっかけに、那岐は少しずつ医術を学び始めた。薬草を調べ、様々な調合を試し、長い年月をかけて研究を続けた。その末に辿り着いたのが、自らの血を材料として用いる方法だった。
「色々と試したけれど、結局、最も大きな効果があったのは私の血を主な材料にした薬だった。ただし、とても毒性が強い。量を間違えれば、大きな獣でさえ簡単に死んでしまう。実際、何度か獣で試したことがあるんだ」
だからこそ慎重に調合を重ね、効き目を残しながら毒性を抑える方法を探し続けた。そうして何度も改良を繰り返し、ようやく今の薬へと辿り着いたのだという。
「それから、この薬を使うのは重い病に罹った人だけにしてきた。使う時も、本当の効能は教えていないよ。ただ『病を治す薬だ』とだけ伝えてきた」
那岐はそこで三人を順に見つめた。
「だから、この薬が本当はどんなものなのか知っている人間は――私と、あなたたち三人だけだよ」
「那岐様、少し話が逸れますが……そもそも、那岐様はどうして不老長寿になられたのでしょう?」
磐余彦が尋ねると、那岐は「ああ」と小さく声を漏らした。
「そういえば、詳しくは話してこなかったね。徐福伝説という話は知っていますか?」
「はい。秦の始皇帝の命を受けて、不老長寿の霊薬を求め倭国へやってきた徐福という方士の物語ですよね。以前、木簡で読んだことがあります」
竹がそう答えた。
「あれはね、一部だけなら本当の話だよ」
那岐はそう言って、わずかに視線を落とした。
「当時の私は、徐福に使われていた奴隷だった。言葉が少しだけ通じるということで連れ回されて、海を渡り、各地を巡って……最後に辿り着いた場所で、不死草の人体実験に使われたんだ」
遠い記憶を見つめるように、その瞳が静かに細められる。
「不死草なんて大層な名前がついていたけど、実際には猛毒だったよ。飲まされた者は、次々に死んでいった。苦しみながら倒れて、二度と起き上がらなかった」
そこで一度、言葉が途切れた。
「そして、最後まで生き残ったのが私だった」
那岐は自分の掌へ目を落とす。
「身体は老いなくなり、それまで存在すら知らなかった妖術まで使えるようになった。徐福が求め続けた不老長寿は、確かにあの場所にあったんだと思う」
けれど、その声に喜びはなかった。
「ただ、私は選んだわけじゃない。望んで不老長寿になったわけでもない。ただ死ぬはずだった人体実験で、たまたま一人だけ生き残ってしまった。それだけだよ」
「うそ……そんなことって……」
浦は信じられないというように呟いた。竹も驚きを隠せないまま、那岐の顔を見つめる。
「でも、秦の始皇帝の使いということは……つまり、那岐様は……」
竹が言いかけたところで、那岐は少し困ったように笑った。
「前にも少し話した気がするけど、私はもう四百五十年以上生きているんだ」
「…………」
磐余彦も竹も浦も、今度こそ完全に言葉を失った。
目の前に座っているのは、どう見ても自分たちとさほど変わらない年頃の美しい少年である。その姿のまま、四百五十年以上もの歳月を生き続けている。その事実を、すぐに受け止められるはずもなかった。
そんな三人を見渡し、那岐はどこか寂しそうに笑った。
「皮肉なものだね。不老長寿の妙薬を求め続けた徐福は、ついにそれを手に入れられなかった。それなのに、人体実験に使われた元奴隷の私が、こうして不老長寿の妙薬を作ることになるなんてね」
「でも、この薬は人間の手には余るものだ。……わかるよね?」
那岐が静かに問いかけると、竹はわずかに表情を引き締めた。
「ええ……これほどの薬ならば、何としてでも独占したいと考える者は、この世にいくらでもいると思われます」
「こんな薬の存在が知られたら……」
磐余彦も、その先を口にすることができなかった。病を遠ざけ、老いさえ止める薬。その存在を知れば、多くの人が薬を求め、どれほど争うことになるのか。想像するだけで十分だった。
「だから、この薬を人に広めるつもりはないよ。重い病に苦しむ人に使うことはあっても、詳しいことは何も教えない。ただ病を治すための薬だと、それだけ伝えることにしている」
那岐は三人を順番に見つめた。その声音はいつもと変わらず穏やかだったが、続く言葉には強い意志が込められていた。
「磐余彦、竹、浦。君たちは人間だ。不老長寿なんてものに囚われず、人間として精一杯生きて、人間として死になさい」
「はい」
三人は那岐の言葉を胸に刻むように、そろって返事をした。
「それと……」
那岐はそう言うと、小さな包みを三つ取り出した。だが、すぐに差し出そうとはせず、指先で包みを弄びながら、しばらくためらうように見つめていた。
やがて意を決したように、磐余彦、竹、浦の前へ一つずつ差し出す。
「どうしてもって時に、使いなさい」
包みの中には、先ほどと同じ薬が一錠ずつ入っていた。浦はそれを受け取るなり、ぱっと表情を明るくした。
「おおー! これでさらに十年、若くいられるわ」
素直に喜ぶ浦とは対照的に、磐余彦は手の中の包みへ視線を落とした。人間として生き、人間として死ね――そう言ったばかりの那岐が、なぜもう一錠ずつ薬を渡すのか。
その行動にわずかな違和感を覚えたものの、磐余彦は今は何も言わず、黙って包みを握りしめた。
しかし、竹だけは素直に受け取ろうとはしなかった。手渡された小さな包みを見つめたまま、真剣な表情で那岐へ問いかける。
「那岐様。先ほど仰られたことと、今なさっていることが矛盾しています。この薬を私たちに渡すことも、これまで誰にも教えてこなかった秘密を私たちだけに明かしたことも……」
一方、浦は手の中の包みを大切そうに眺めていた。
「これ、大事に取っておけばいいのね」
「そういうわけにはいきません」
竹はきっぱりと言い切り、包みを握ったまま那岐を見据えた。
「これは不公平です。他の方々には存在すら教えず、与えることもせず、それなのに私たちだけが特別に受け取るなど……私は納得できません」
伊邪那岐は、竹の言葉を黙って聞いていた。
「それは……」
何かを言いかけたものの、その先が続かなかった。手元に残った小さな包みへ視線を落とし、それから磐余彦、竹、浦の顔を一人ずつ見つめる。
しばらくそうしていた那岐の表情が、少しずつ崩れていった。
「少しくらい……ずるしてもいいではないか。少しくらい規則を破っても、いいではないか……」
声が震え、頬を涙が伝った。一度こぼれた涙は止まらなかった。
「そんなに早く逝かなくてもいいじゃないか……。そんなに早く、私を置いて先に逝かなくてもいいじゃないか……」
那岐は俯き、何度も涙を拭おうとした。けれど、拭っても拭っても次から次へと溢れてくる。
「どうして……どうしてみんな、私を置いていくんだ……」
最後には声を押し殺すことさえできなくなり、那岐はその場で泣き崩れた。
竹と浦は、泣き崩れる那岐の姿を目にした瞬間、もう耐えることができなかった。
二人はこれまで、那岐の子孫が亡くなるたびに、深く悲しむ彼の姿を何度も見てきた。そして何より、自分たち自身が幼い頃から那岐に引き取られ、育ててもらったのだ。
ただ守られていただけではない。読み書きも、田畑の仕事も、炊事や掃除も、衣を繕い仕立てることも、そして武芸も教わった。女の子として大切に育てながらも、いつか誰の助けがなくとも、自分の力で生きていけるように育ててくれた。
恋に破れて泣いた時には、何も言わずに抱き寄せてくれた。想い人を守りたいと願えば、その気持ちを汲み取り、わざわざ建前となる命令まで用意して、その人を二人の新たな主としてくれた。
そして最後には、叶わぬと思っていた片思いにさえ道を示し、自分たちが一歩を踏み出せるよう背中まで押してくれた。
竹と浦にとって、那岐こそが本当の父親だった。
その父が、今、自分たちの前で泣いている。
人は人として生き、人として死ぬべきだと自ら定めたはずの掟を破ってまで、自分たちを失いたくないと願っている。
少しでも長く生きてほしい、自分を置いて先に逝かないでほしいと、幼い子供のように涙を流している。
そんな姿を見せられて、二人が平静でいられるはずがなかった。
竹と浦は、泣き崩れる那岐の姿を前に、もう堪えることができなかった。双子はほとんど同時に駆け寄ると、その小さな身体を両側から抱きしめた。
「わがままばかりでごめんなさい!」
浦は声を震わせ、那岐の肩に顔を埋めた。
「生意気なことばかり言って……ごめんなさい!」
竹も涙を流しながら、那岐を強く抱きしめる。
三人は涙を止めることはできず、互いの身体を抱きしめたまま、しばらく声を上げて泣き続けた。
磐余彦は、その姿を見てようやく気づいた。ずっと昔、那岐は花咲じいさん――五十猛に頼み込まれたからこそ、自分の面倒を見てくれたのだろう。そうでなければ、私の面倒はきっとみなかった。
大切に育てれば、いつかその者は巣立っていく。そして時が流れれば、自分より先に老い、先に逝ってしまう。その別れに耐えられないからこそ、那岐は人と深く関わることを避けていたのではないか。
そして今、伊邪那岐という人の心は、もう疲れ果てている。
人間は人間として生き、人間として死ぬべきだ。そんな薬を特別な者だけに与えてはならない――理性では、きっと誰よりもよく分かっている。それなのに、自ら定めたその理を破り、私たち三人にだけ薬を渡した。
支離滅裂になっている。言っていることと、していることが噛み合っていない。
那岐様は、とっくに別れと孤独に耐えられなくなっているのだ。
愛した者を見送り、子を見送り、その子孫まで見送り続ける。どれほど大切に思っても、最後には必ず自分だけが残される。そんな別れと孤独を、四百年以上も繰り返してきた心は、もう限界まで傷ついていた。
――不老長寿は、祝福ではなく呪い。
先ほど那岐が口にした言葉の意味を、磐余彦は初めて本当の意味で理解した。
そして磐余彦は思った。那岐様は、きっと私たちが老い、死を迎える時になっても、その場には来てくれないのだろう。
これほどまでに別れに心を痛めておられるのだ。もう、何度も誰かを見送ることには耐えられないのかもしれない。ならば、少しでも心を休めてもらう必要がある。
旅に出ることを勧めてみようか。何もかも忘れて、誰も那岐様を知らない遠い土地へ行って、新しい景色を見てもらうのもいいかもしれない。
そう考えた瞬間、磐余彦の胸に鋭い痛みが走った。
那岐に遠くへの旅を勧めるということは、自らの手で別れを選ぶということでもある。そして、おそらくその旅立ちが、自分たちにとって最後の別れになる。
幼い頃、誰よりも泣き虫だった皇子は、いつしか人前で涙を流さなくなっていた。けれど、その時ばかりは堪えることができなかった。
磐余彦の頬を、静かに涙が伝った。
磐余彦は、那岐にしばらく旅に出てはどうかと勧めた。長い年月の中で積み重ねてきた別れや孤独から少しでも離れ、見知らぬ土地を巡ることで心を休めてほしい。那岐もその言葉には賛成したものの、すぐに旅立つことはできなかった。
「そうだね。旅に出るのも悪くないかもしれない」
そう穏やかに答えたあと、那岐は少し困ったように笑った。
「でも、今いなくなったら姫が悲しむからね」
姫とは伊邪那岐の娘、女王日巫女のことである。
それ以上は何も言わなかったが、磐余彦には、それが遠回しな断りなのだとわかった。
やがて那岐は、東征の結果を報告するため橿原を離れ、宇佐へと向かった。しかし、そこで那岐を待っていたのは、思いもよらぬ現実だった。
宇佐へ戻った那岐が目にした日巫女は、すでに死の床にあったのである。那岐は娘の傍らに留まり、その最期を看取ることになった。
女王日巫女の死。それとほぼ時を同じくして、月読もまた長年担ってきた役目から退いた。そして伊邪那岐と月読は、人々の前から静かに姿を消した。
その後、二人が再び歴史の表舞台に姿を現すことはなかった。




