二十五話 竹と浦のシン・決戦
橿原の地に入り、新たな宮の建築が進められている間、磐余彦たちは仮の館で暮らしていた。決して広い館ではなく、人数を考えれば少々手狭ではあったが、暮らせないほどではない。
那岐にも一室が与えられ、しばらくはそこで寝泊まりすることになった。
その夜、部屋で過ごしていた那岐のもとへ、竹と浦が揃ってやってきた。
「どうしたんだい。主人の警護は大丈夫?」
那岐が尋ねると、竹が答える。
「今夜の警護は大久米の当番なの」
「だから私たち、今はやることないの。それに、まだ私たちの部屋も決まってないし……荷物、あとでここに置かせてもらってもいいですか?」
浦がそう言うと、那岐は二人を見ながら小さく頷いた。
「遠征中、あれだけ一緒にいたのに、何もなかったのかい?」
那岐が何気なく尋ねると、竹はきょとんとした顔を向けた。
「何もって、何がです?」
「ん?」
浦まで首を傾げる。
「いや……ほら……いい加減、少しくらい進展してもいいじゃないか」
その意味を悟った途端、竹の顔が一気に赤くなった。
「そ、そんなことしてません!」
「なんだかんだと忙しかったのよ」
浦も少し気まずそうに答える。
那岐は二人を見比べながら、どうやら自分が背中を押してやらなければならないらしいと悟った。こういう話は苦手だった。自分だって恋愛について偉そうに語れるほど経験があるわけではない。
それでも、竹と浦は那岐にとって娘も同然だった。もう二人の悲しそうな顔は見たくない。ならば多少強引でも、ここは背中を押してやるしかない。
それにしても――。戦場ではあれほど勇ましく、どんな敵を前にしても怖気づかない二人が、どうして恋愛となるとこうも弱くなるのだろう。那岐には、それが不思議でならなかった。
「いいかい、よく聞くんだよ。今は最後の機会かもしれないよ」
那岐がそう告げると、竹は目を見開いた。
「!?」
「どういうこと?」
浦も意味が分からず首を傾げる。
「今回の遠征を本当の意味で終わらせるには、橿原の宮を完成させるだけでは足りないんだ。政略のための婚姻も必要になる。つまり狭野は、日向にいる吾平津媛を正妃から妃へと移して、新たに五十鈴媛を正妃として迎えなければならない」
「それは知っています」
竹は真面目な顔で頷いた。東征が終わったからといって、すべてが片付いたわけではない。新たな国を治めていく以上、周囲の豪族との結びつきを固めるための婚姻が必要になることも、二人はすでに理解していた。
「でもね、今はまだ何も正式には決まっていない」
那岐は二人の顔を交互に見ながら、少しだけ意味ありげに微笑む。
「これがどういうことか、分かるかい?」
「つまり今は、独り身ってこと?」
浦が首を傾げると、那岐は少し困ったように笑った。
「独身というわけではないけれどね。でも吾平津媛は遠く日向にいるだろう? いずれこちらへ来るかもしれないけれど、それはまだ先の話だ。それに五十鈴媛との婚姻だって、まだ正式に決まったわけじゃない」
そして那岐は、少し声を落として続けた。
「けれど五十鈴媛との婚姻が済んで、さらに吾平津媛までこちらへ来たら、新しく妃を迎えるのは難しくなると思うんだ」
「…………」
竹は黙り込み、頬を赤らめた。
「でもね、先に妃になっているのなら話は別だよ」
「き、妃って……那岐様!」
竹が思わず声を上げる。その隣で浦はぱっと顔を明るくした。
「そっか。最初から妃としているなら問題ないのね!」
「そう。つまり今こそ、最後の機会かもしれないよ。この機会を逃しても、本当にいいのかい?」
那岐にそう問われ、竹と浦は揃って息を呑んだ。
覚悟を決めるのなら、今しかない。
「何を今さら恥ずかしがっているんだい。二人とも狭野より二つも年上なんだよ? ここは年上らしく先導してあげて、押し倒すくらいやってのけなさい」
そう言い切りながら、那岐は心の中で付け加えた。
――押し倒したことなんてないけど……。
「な、那岐様は何を仰っているのですか!?」
竹の顔が一気に赤くなる。
「ここは本当の勝負所だよ。怖気づいたままでいいのかい?」
「そ、そんなことありません! ちゃんと出来ます!」
「何が出来るの?」
隣から浦に素朴に尋ねられ、竹は自分が何を口走ったのかようやく気づいた。
「――っ!」
慌てて口を手で塞ぎ、耳まで真っ赤にして俯いた。
「でも……磐余彦様は、私達のことをどう想っているのかしら……」
竹が不安そうに呟くと、那岐は迷う素振りもなく答えた。
「好きに決まっているじゃないか」
――たぶんだけど。
「え、本当に? いつからなの?」
浦が身を乗り出して尋ねる。
「そんなの、ずっと昔、小さな頃からに決まっているじゃないか」
――知らないけど。
那岐はさも当然のことのように言い切ったが、竹はまだ不安を拭いきれないらしく、視線を落とした。
「でも……それなら、どうして今までそうおっしゃってくださらなかったのでしょう」
「それはほら、王族の役目とはいえ、すでに妻を娶っているのだし、そのうえ二人に妃になってほしいなんて、自分からは言い出しにくかったんじゃないかな?」
――きっとね。
「それなら……」
浦の表情に、少しずつ決意の色が戻ってくる。
「最初から心は決まっているじゃないか。ほら、いってらっしゃい。ここまで来て敵前逃亡なんてしないようにね」
「わ、わかってます!」
「い、行ってきます!」
真っ赤な顔のまま勢いよく部屋を出ていく双子を見送り、那岐は一人になった室内で静かに息を吐いた。
そして、ふと思う。
――これで断ったら狭野……わかっているよね……。
二人は寝間着のまま、磐余彦の部屋の前までやってきた。戸の脇には、今夜の警護を任されている大久米が静かに控えている。
「大久米、今夜の磐余彦様の護衛は私達がするわ」
竹がそう告げると、浦も続けた。
「もう休んでくれていいわよ」
大久米はすぐには動かなかった。今夜の警護は自分の役目である。理由もなく持ち場を離れるつもりはなく、そのことを伝えようと二人へ視線を向ける。
だが、その瞬間にすべてを察した。
竹も浦も大久米の方などほとんど見ていない。二人揃って磐余彦のいる部屋の戸ばかりを見つめ、いつもの武器すら持っていなかった。身にまとっているのは寝間着だけで、何より二人とも耳まで真っ赤になっている。
――そうか。いよいよなのか。
大久米は何も聞かなかった。何も言わず、ただ二人に向かって軽く一礼すると、静かにその場を離れていった。
「いいわね、いくわよ」
竹が戸の前で小さく息を整えると、浦も緊張した面持ちで頷いた。
「わかってる。もう逃げないよね?」
「当たり前でしょ。浦こそ、しっかりするのよ」
「うん」
互いに覚悟を確かめ合い、竹は勢いよく戸を開けた。
――ドン!
そのまま二人が部屋へ踏み込むと、今度は浦が振り返り、逃げ道を断つように勢いよく戸を閉める。
――ドン!
静かな夜の館に、二度の大きな音が響き渡った。突然のことに、部屋の中にいた磐余彦は驚いて二人を見つめた。
いきなり何なんだ。夜襲でも来たのか――。
思わずそんなことを考えた磐余彦だったが、どうやらそうではないらしい。戸口に立っていたのは竹と浦だった。二人とも武器ひとつ持たず、寝間着姿のまま、頬を真っ赤に染めている。
幼い頃からずっと一緒に過ごしてきた二人だが、もうあの頃の少女ではない。今では国中を探しても肩を並べる者などそうはいないと思えるほど、美しく成長した娘たちである。そんな二人が、夜も深まったこの刻限に寝間着姿で自分の寝所へやって来たのだ。
さすがの磐余彦も、何が起きているのかすぐには理解できなかった。
竹と浦は磐余彦の前まで進むと、並んで腰を下ろした。しかし、いつものように真っ直ぐこちらを見ることはなく、二人とも俯いたまま落ち着かない様子でいる。
やがて竹が意を決したように顔を上げた。
「磐余彦様、だ……大事なお話があります」
普段の凛とした竹からは考えられないほど、声が上ずっていた。
その隣で浦も緊張したように手を握りしめながら続ける。
「私もです……その、伝えたいことが……」
磐余彦は、二人の様子を見て何かを察したようだった。竹と浦が言葉を探しているうちに、穏やかに口を開く。
「その前に、私からも話があるんだ。先に聞いてくれないかな?」
二人は顔を見合わせることもなく、黙って頷いた。
磐余彦はそれを確かめると、静かに座り直して二人へ向き合った。少し緊張しているのか、いつもより表情が硬い。
「二人が何を言いに来たのか……たぶん分かっている。でも、その前に私から言わせてほしい」
そう告げると、磐余彦は一度言葉を切った。そして覚悟を決めるように、ゆっくりと深く息を吸った。
「私は竹と浦を愛してる。是非、妃になってほしい。そして一生、私の傍にいてほしい」
思いもよらない言葉に、竹と浦は揃って息を呑んだ。自分たちが想いを伝えるつもりでここまで来たというのに、まさか磐余彦の方から先に告げられるとは思ってもいなかった。
「私が初めて恋をしたのは、竹と浦なんだ。いつからだったのかは、自分でも分からない。気がついた時には、二人とも大切で、二人とも好きになっていた」
磐余彦は少し照れたように目を伏せ、それでも逃げることなく二人へ向き直った。
「二人を同時に好きになるなんて、不誠実なんじゃないかと私だって思った。それに私はもう妻を娶っているし、この先には別の婚姻も控えている。そんな立場の私が、二人に妃になってほしいなんて、自分から言っていいものなのかずっと迷っていたんだ」
そこで一度言葉を切ると、磐余彦は申し訳なさそうに微笑んだ。
「だから、こんなに待たせてしまった。すまない」
「嬉しいです、磐余彦様。喜んでお傍にいます。もう一生……離れないわ」
浦はそう言うと、こみ上げる喜びを隠しきれないまま、磐余彦の肩へ抱きついた。
その隣で、竹は真っ赤になった顔を伏せ、しばらく言葉を探していた。やがて覚悟を決めたように顔を上げる。
「あの……わ、私は磐余彦様の護衛です。いついかなる時も、お傍でお守りいたします。昼も夜も、決して離れずに」
「昼も夜も?」
浦が横から意味ありげに聞き返した。
竹の顔がさらに赤く染まる。それでも今度は目を逸らさず、磐余彦をまっすぐ見つめた。
「昼も夜もです! お傍から離れません!」
竹はそのまま磐余彦に抱きつくと、勢いに任せて押し倒した。そして真っ赤な顔のまま耳元へ唇を寄せ、小さな声で囁いた。
「だから……一番愛して」
その一言には、さすがの磐余彦も顔を真っ赤にするしかなかった。
傍らの浦は、しばらく呆気に取られて二人を見つめていた。確かに那岐からは「押し倒すくらいやってのけなさい」と背中を押されていた。だが、まさかあの竹が本当に実行するとは思ってもいなかったのだ。
「あーー! 竹、抜け駆けずるーい! もう!」
那岐は部屋で、ようやく安堵の息をついていた。奥の部屋から戸を勢いよく開け閉めする音が聞こえてから、すでに一刻ほどが過ぎている。それでも竹と浦が戻ってくる気配はなかった。
どうやら、首尾よくいったらしい。
そう思うと、ずっと胸の内に抱えていた重荷がひとつ下りたような気がした。同時に、これまで自分が担ってきた役目も、少しずつ終わりへ近づいているのだと感じる。
幼い頃から見守ってきた二人は、もう自分の手を離れ、それぞれの道を歩き始めている。
那岐は静かに目を細め、誰に聞かせるでもなく呟いた。
「幸せになりなさい……」
早朝、竹と浦は磐余彦の部屋から静かに抜け出すと、そのまま那岐の部屋へ入り、急いで着替えを始めた。那岐はすでに目を覚ましていたものの、二人に気を遣って寝たふりを続け、物音にも気づかないふりをして目を閉じていた。
やがて着替えを終えた二人は、再び磐余彦の部屋へ戻ろうと廊下を歩いていく。すると向こうから日臣と椎根津彦がやってきた。
二人は何も言わなかったが、すれ違いざまに何度もちらちらと竹と浦へ視線を向けてくる。その意味が分からないほど、二人も鈍くはない。
さらに廊下の下にある庭へ目を向けると、大久米が立っていた。大久米は二人と目が合うなり、無言のまま力強く拳を掲げた。
どう見ても祝福している。
竹と浦の顔が一気に赤くなった。
あまりの恥ずかしさに何も言い返すことができず、二人はただ俯いたまま足早に磐余彦の部屋へ戻っていった。
部屋の中では、磐余彦がまだ静かな寝息を立てている。竹と浦は声を立てないようにしながら、いつものように磐余彦の着替えを用意すると、眠っている主の顔を見つめた。
かつてよく叱られては泣いていた、あの泣き虫皇子。
自分に自信がなく、何かあるたびに泣いていた幼い狭野は、多くの仲間と出会い、兄を失い、何度も苦難を乗り越えながら、今では多くの者を背負って歩くほど立派になった。
――本当に、立派になった。
竹と浦は顔を見合わせ、小さく笑った。
この人の傍にいたい。護衛としてだけではなく、これから先もずっと一緒に歩いていきたい。
この人と一緒に、幸せになりたい。
二人は磐余彦の寝顔を見つめながら、主が目を覚ますその時を静かに待つのだった。




