二十四話 橿原
長髄彦の太股には、大久米の放った槍が深々と突き刺さったままだった。もはや満足に動くこともできず、長髄彦は大久米の目の前で片膝をついていた。
戦場には、ただ一人取り残されたように長髄彦の姿があった。周囲ではすでに戦いの趨勢が決していた。それでも長髄彦は最後まで退こうとはせず、亡き主君の国を守るために命を懸けて戦い続けた。
磐余彦は、その姿をずっと見ていた。
敗北がほぼ決まった後もなお敵陣を突き進み、傷つきながらも立ち上がり続けた長髄彦。その凄まじいまでの執念を目の当たりにして、磐余彦の胸にあったのは勝者としての優越ではなかった。
ただ、畏敬の念だけが静かに残っていた。
すべての力を使い果たしたように動きを止めた長髄彦を見つめ、磐余彦はようやくその前へ向かう決心をした。竹と浦を従え、ゆっくりと歩み寄る。
「そなたが忠勇無双の士、長髄彦か」
問いかけられても、長髄彦は黙ったまま答えなかった。それでも磐余彦は気にすることなく、目の前の老将をまっすぐ見つめる。
「亡き主君への忠義、まことに見事。そなたこそ武人の鑑である」
長髄彦はわずかに顔を上げた。敵将である磐余彦から、自らの忠義を称えられるとは思ってもいなかったのだろう。険しかった表情に、ほんの一瞬だけ戸惑いが浮かんだ。
「戦は終わった。大久米、長髄彦殿の肩を支えて立たせてやってくれ。私の前で膝を屈したままという屈辱を与えるものではない」
大久米は無言で頷くと、長髄彦の脇へ回り、その大きな身体を支えてゆっくりと立ち上がらせた。太股には、先ほど大久米が突き立てた槍が今なお深々と刺さっている。
磐余彦はすぐに長髄彦の足元へ膝をつき、傷口より少し上を布できつく縛って止血した。それから槍の柄を両手で掴み、長髄彦の様子を確かめながら、慎重に引き抜いていく。
槍が抜けた瞬間、傷口から血が溢れた。
磐余彦はすぐさま折り畳んだ布を押し当て、強く圧迫する。
「竹、浦、手伝ってくれ。思っていたより傷が深い。早く手当てをしなくては」
「承知いたしました。すぐに布を追加で持ってまいります」
竹はそう答えると、必要な布を取りに駆け出した。
「傷口も洗わないと。水を持ってくるわ」
浦もすぐに動き出す。
戻ってきた二人とともに、磐余彦は長髄彦の傷の手当てに集中した。つい先ほどまで命を奪い合っていた敵であることなど忘れたかのように、三人はただ一人の傷ついた男を救うため、その手を休めることはなかった。
長髄彦は何も言わず、ただ黙って立っていた。頭の中に、先ほど磐余彦から掛けられた言葉が何度もよみがえる。
「亡き主君への忠義、まことに見事。そなたこそ武人の鑑である」
敵将から向けられるとは思ってもいなかった言葉だった。その声を思い返した瞬間、目の前にいる磐余彦の姿へ、遠い昔の邇芸速日の面影が重なった。
まだ若かった頃の邇芸速日も、同じような眼差しで人を見ていた。敵か味方かではなく、その者が何を背負い、何のために立っているのかを見ようとする目だった。
長髄彦の頬を、一筋の涙が伝った。
自分でも止めることはできなかった。亡き主君を思って流した涙なのか、それともその面影を別の若者の中に見つけてしまったからなのか、長髄彦自身にも分からない。
だが、どれほど似たものを感じようとも、忠義だけは変わらなかった。
磐余彦には仕えられない。
長髄彦にとって、主君と呼べる者は生涯ただ一人、邇芸速日だけだった。
長髄彦の処遇について、磐余彦の陣営では協議が行われた。
「これほど激しく刃向かい、多くの兵を死傷させた以上、後の禍根を断つためにも処刑すべきです」
日臣は厳しい表情でそう主張した。
「命まで奪う必要があるかは別として、何の咎めもなく許せば軍の規律や、これから従う者たちへの示しがつきません」
椎根津彦もまた、何らかの処罰は必要だと進言する。
「兄の彦五瀬様の件もあります」
日臣のその言葉に、磐余彦は何も答えなかった。
磐余彦自身は長髄彦を許すつもりでいた。しかし、多くの兵が傷つき、兄の彦五瀬までも失っている以上、反対する者たちの意見を簡単に退けることもできない。
磐余彦は口を挟まず、ただ黙って皆の言葉に耳を傾けていた。
そのとき、それまで黙って話を聞いていた大久米が立ち上がった。
「長髄彦は俺だ。もし俺が長髄彦の立場なら、同じことをする」
短い言葉だった。だが、その意味を理解できない者は、この場にはいなかった。
もし自分たちが磐余彦を失い、その直後に別の主へ従えと迫られたならどうするのか。大久米が言いたかったことは、それだけだった。
場の空気が変わったのを感じ、磐余彦は静かに口を開いた。
「長髄彦は忠臣だった。私に対してではなかったが……それでも、忠義を貫いた者だ。やはり私は許そうと思う」
大久米は、その言葉を聞くと大きく頷いた。
「長髄彦を捕らえたのは大久米、お前だ。今回はお前の意見に従うことにするぜ」
日臣がそう言うと、椎根津彦も静かに頭を下げた。
「磐余彦様の思うがままに……」
その場に立つ者たちから、それ以上の反対は出なかった。竹も浦も、そして日臣や椎根津彦も、それぞれ同じ問いを胸の内に浮かべていた。
もし磐余彦が亡くなった直後、見知らぬ者が大軍を率いて現れ、この国を譲れと迫ってきたなら、自分たちは素直に従うことができるだろうか。
そう考えれば、亡き邇芸速日への忠義を貫き、最後まで槍を手放さなかった長髄彦の心を、誰も簡単には責めることができなかった。
長髄彦は怪我人として、宇摩志麻遅のいる纒向の宮へ運ばれていた。すでに戦は終わり、宮では敵味方の区別なく負傷者の治療が行われている。
激戦の疲労もあり、長髄彦は深い眠りに落ちていた。
どれほど眠っていたのだろう。ゆっくりと目を開くと、すぐ傍らに一人の少年が座っていることに気づいた。
「那岐さ……いや、鴉殿ではないか。ここで何を?」
身を起こそうとした長髄彦だったが、その太股を那岐の手が優しく覆っていることに気づく。その掌からは、淡い青色の妖気が静かに漏れ出していた。
「気がついたのですね。あ、でも動かないで。まだ安静にしていてください」
那岐は柔らかく笑い、長髄彦を寝かせたまま治療を続ける。
「私はずっとここで怪我人の手当てをしていたんだ」
「この光は……」
長髄彦は自分の太股を包む青い光を見つめた。
「たいしたことはできないのだけど、血の巡りを少しだけ弄っています。それと神経もね。さっきより痛みが減っていませんか?」
言われてみれば、槍に貫かれた太股の激痛がずいぶん和らいでいた。
「……たしかに。痛みが軽くなっておる」
「それならよかった」
那岐はほっとしたように微笑み、そのまま静かに手を添え続けた。
しばらくして、那岐がぽつりと言った。
「孫のために、こんなになるまで頑張ってくれてありがとう」
「…………」
「お疲れさまでした」
長髄彦は何も答えられなかった。
敵として戦った者を責めるでもなく、敗者を哀れむでもない。ただ、亡き邇芸速日のために最後まで戦い抜いた自分を労うその言葉に、返すべき言葉が見つからなかった。
長髄彦は黙ったまま目を伏せ、那岐の静かな治療を受け続けるのだった。
長髄彦は、磐余彦から仕えるよう誘われたものの、それを断った。もはや刃向かうつもりはない。だが、新たな主に従うこともできない。それが長髄彦の答えだった。
傷もまだ癒えきらぬうちに、長髄彦は兄の安日彦と共に登美の地を去ることを決めた。
「本当に去られるのですか」
宇摩志麻遅が尋ねると、安日彦は静かに頷いた。
「うむ。長髄彦は頑固だからの……それに儂も同じじゃ。新しい主がどれほど優れた者であろうと、儂らにとって邇芸速日様を超える主はおらぬ」
「磐余彦様は器の大きなお方です。すでに刃向かった者たちにも恩赦を出されております」
「それには感謝しておる。あれほど刃を向けた我らまで許してくださったことにもな」
安日彦はそこで言葉を切り、宇摩志麻遅を見つめた。
「だが、わかってくれ。儂らにとっては、邇芸速日様とともに過ごした日々が全てだったのじゃ」
「叔父上……」
「宇摩志麻遅、お主はまだ若い。儂らと同じ道を歩む必要はない。新しい主のもとで生きていくがよい」
宇摩志麻遅は、それ以上引き止めることができなかった。
やがて長髄彦と安日彦を乗せた船が、ゆっくりと岸を離れていった。宇摩志麻遅は岸辺に立ったまま、その姿をいつまでも見送った。
二人を乗せた船は次第に小さくなり、やがて川面を漂う霧の向こうへと消えていった。邇芸速日とともに三輪山を支え続けた一つの時代が、こうして静かに幕を閉じた。
そして残された者たちは、戦の傷跡を片付ける間もなく、新たな国造りへと歩み始めた。
長髄彦と安日彦がその後どこへ向かい、いずこに移り住んだのかは定かではない。ただ、津軽地方に伝わる安東氏や秋田氏の伝承には、長髄彦を祖とする記述や家系図が残されている。
磐余彦率いる東征軍は、ついに東征を成し遂げた。熊野から宇陀へ進み、さらに三輪山を抜け、忍坂の地で長髄彦との決戦に勝利した東征軍は、ついに纒向の宮へと到達する。そして磐余彦は、橿原の地を新たな拠点と定め、ここに新しい宮を建てることを決めた。
橿原には、狩りや周辺の巡回の際に使われていた館があった。普段はほとんど使われていない簡素な建物だったが、新たな宮が完成するまでの仮館として利用することになった。
戦が終わったからといって、休んでいる暇はなかった。東征軍とともに多くの兵やその家族、職人たちが集まり始め、橿原では新たな国造りがすぐに動き出した。
椎根津彦は新しい宮の建設を任され、設計から必要な材料の調達、土地の選定や基礎工事に至るまで、全体を見渡しながら指揮を執った。
一方、日臣は急速に増えた人々の住居不足を解消するため、大規模な住宅群の建設を任された。人の流れを考えながら道を通し、家々を建てる場所を定め、兵たちにも作業を割り振っていく。
そして大久米は、細かなことを考えるより自分にできる仕事を選んだ。
木材を集めることである。
斧を担いで山へ入り、宮にも家々にも大量に必要となる木を、ひたすら伐り続けた。
こうして橿原の地では、戦のために集まった者たちの力が、少しずつ国を造るための力へと変わり始めていた。
那岐は磐余彦を連れ、小さな社へと向かっていた。その後ろには、護衛として竹と浦も付き従っている。
歩きながら磐余彦は、何度か竹や浦の様子を気にしていた。先の戦いで長髄彦から受けた蹴りは激しく、倒れた時の姿がまだ目に焼き付いている。
「竹、浦。もう大丈夫? かなり激しく蹴られていたけど、まだ痛まない?」
心配そうに尋ねられた竹は、いつも通り涼しい顔をして答えた。
「あの程度、何も問題ありません」
その言葉を聞いた浦が、隣からじっと竹の顔を見る。
「ふうん。なら、触っても大丈夫よね」
そう言うなり、浦は竹の腹部を指先で軽く突いた。
「いっ……」
思わず竹の口から小さな声が漏れる。
浦はすぐににやりと笑った。
「やっぱり痛いんじゃない」
「……不意打ちは卑怯よ」
「痛くないなら、不意打ちでも平気でしょう?」
言い返せなくなった竹が、わずかに眉を寄せる。
磐余彦はそんな二人を見ながらも、やはり心配そうだった。
「無理だけはしないでね」
「軽傷には変わりありません。数日もすれば、痛みも残っていないでしょう」
竹は何事もなかったように背筋を伸ばし、そのまま歩き続ける。
どう見てもやせ我慢だった。
那岐と磐余彦、それに浦までが顔を見合わせ、竹に聞こえない程度に苦笑を浮かべた。
やがて一行は目的の小さな社へたどり着き、持参した貢物を供えて静かに頭を下げた。
「五十猛命……知らない神様です」
社に刻まれた名を見つめながら磐余彦が呟くと、那岐は穏やかに答えた。
「この神様は、植林や林業、それに建築を守っている神様なんだ。今はみんな、新しい宮や家を建てるためにたくさんの木を伐っているでしょう。だから、しっかりお参りしておかないとね」
竹と浦は何も言わず、那岐の横顔をそっと見つめていた。宇佐で五十猛命の社を訪れた時、那岐がひどく落ち込んでいたことを二人とも覚えていたからだ。
「植林……」
その言葉を聞いた磐余彦の脳裏に、遠い幼い日の記憶が蘇った。
泣いていた自分のために桜の木を植え、まだ咲くはずのない花を目の前いっぱいに咲かせてくれた、あの大きな老人の姿だった。
「この神様は、私の孫でした」
那岐は社を見つめながら、静かな声で語った。
「妖術も不老長寿も持っていたのに、その力のすべてを倭の国の植林に捧げた子でした。一直線な子でね。私に、泣き虫皇子を導いてほしいと頼んできたりもしたよ。少し強引なところもあったけれど、本当はとても優しい子でした」
その言葉を聞いた瞬間、磐余彦の脳裏に遠い日の記憶が蘇った。
泣いていた幼い自分の前に現れ、桜の木を植え、目の前で美しい花を咲かせてくれた大きな老人。
ようやく、すべてが繋がった。
「……花咲じいさんだったのですね」
「うん」
那岐は小さく頷き、社へ穏やかな眼差しを向けた。
「これからは、ここから見守ってくれるよ」
「……はい」
磐余彦は静かに頭を下げた。
幼い日に自分を励まし、その後も知らぬところで自分の行く末を案じてくれていた人。その優しさへの感謝を胸に、磐余彦は五十猛命の社へ深く拝礼した。




