二十三話 三輪山決戦後編
再び戦況は膠着し、長髄彦は敵陣を睨みながら勝機を探していた。
前回、白肩津の戦いで、大倭壱国の軍勢にはまだ戦慣れしていない部分があり、戦いが続けば必ずどこかに隙が生まれると見抜いていた。ならばその瞬間を逃さず、一気に突破口を開けばよい。そう考え、長髄彦は久米部の陣形を注意深く観察し続ける。
しかし、目の前に立ちふさがる久米部の守りは予想以上に厚かった。盾を並べた戦列は簡単には崩れず、その後ろには槍兵や弓兵が控えている。左右を見渡しても目立った綻びはなく、無理に攻め込めばかえってこちらの被害が増えるだけだった。
どこかに隙はないか。なければ、こちらから隙を作り出すしかない。
長髄彦が突破口を開くための手立てを思案していた、その時だった。
「敵襲! 後方より新たな敵が迫っています!」
突然の報告に長髄彦は振り返った。だが驚いている暇などない。すぐさま声を張り上げる。
「後方の部隊を反転させよ! 陣形を組み直して矢を放てい! 近づかせるな!」
咄嗟の指示に兵たちは動き始めたものの、前方には久米部、そして後方からは新たな敵が迫っている。先ほどまで敵の隙を探していた長髄彦が、今度は自ら挟み込まれようとしていた。
戦況が明らかに不利へ傾き始める中、長髄彦は徐々に追い詰められていった。
弓の射程圏内まで迫った日臣は、敵がこちらの存在に気づくより早く、一気に距離を詰めることを決断した。
「全軍、突撃! 敵の後ろに食らいつけ!」
号令と同時に、日臣率いる別動隊が全力で駆け出した。異変に気づいた長髄彦軍の後方から散発的に矢が放たれるが、すでに十分な陣形を整える時間はない。日臣は飛来する矢をかわしながら先頭を駆け、そのまま敵の後方へと張りついた。
ほぼ同時に、中央だけでなく左右両翼へ回り込んでいた兵たちも次々と敵陣へ接近し、後方から槍と剣による攻撃を開始する。
長髄彦軍は弓や弩を主体としていた。前方の敵へ矢を浴びせることを前提に組まれた戦列へ、突然背後から槍兵と剣兵が飛び込んできたのである。振り返って迎撃しようにも陣形を組み直す暇すらなく、近接戦へ持ち込まれた兵たちは次々と押し崩されていった。
前方には久米部、後方には日臣の別動隊。中央も左右両翼も背後から食いつかれ、長髄彦軍の戦列は一気に崩れ始めた。
「長髄彦様、指示が間に合いませんでした! 戦列が崩れ始めています!」
「急いで槍部隊を振り向けましょう!」
次々と飛んでくる報告に、長髄彦は戦場を見渡した。後方ではすでに敵の別動隊が食らいつき、弓兵を中心とした戦列が各所で崩れ始めている。
「いや、待て」
今さら槍部隊を後方へ回しても遅い。仮に日臣の部隊を食い止めることができたとしても、その隙に前方の久米部から圧力を受ければ、今度は正面から押し潰される。
もう間に合わない。……これは負けだ。
長髄彦はそう悟った。ならば残された道は一つしかない。敗北を待つのではなく、残るすべてを賭けて敵将を討つ。長髄彦は最後の策に出ることを決めた。
「急いで槍部隊を前面に揃えろ。もはや強硬突破しかあるまい!」
長髄彦の号令が飛ぶと、混乱が広がる戦場の中でも槍部隊だけは崩れることなく動き出した。後方で味方の戦列が乱れているにもかかわらず、兵たちは次々と前面へ集結し、槍を揃えて陣形を組み直していく。
長髄彦はその先頭に立ち、前方に翻る二本の旗を睨みつけた。
「いくぞ! 目指すは前面の二本の旗! 儂に続けい!」
その声に応えるように、槍部隊から凄まじい雄叫びが湧き上がった。槍を前へ突き出し、兵たちは一斉に駆け出す。
敗色が濃くなりつつある戦場を覆すため、残された力のすべてを叩きつける。長髄彦軍の命運を賭した、乾坤一擲の突撃が始まった。
立ちふさがる久米部と槍部隊が激突し、たちまち激しい接近戦へともつれ込んだ。槍と槍がぶつかり、盾が鳴り、怒号が飛び交う。その最前線で、大久米もまた盾と槍を構え、押し寄せる敵兵を頑強に食い止めていた。
その混戦の中、大久米の視界に見覚えのある老兵の姿が映った。六尺を超える巨躯を誇る老将、長髄彦である。
大久米はすぐさま盾を前に出し、槍を構えて迎え撃った。
二人の槍が激しくぶつかり合う。大久米が突きを繰り出せば長髄彦は盾で逸らし、長髄彦が槍を振るえば大久米も盾で受け止める。互いに一歩も譲らぬ攻防が続いた。
やがて長髄彦の槍が大久米へ鋭く突き出された。大久米は即座に盾を上げ、その穂先を受け止める。
その瞬間だった。
盾によって生まれたわずかな死角から、長髄彦の蹴りが飛び込んできた。
大久米の身体が大きく吹き飛ぶ。そのまま背中から岩へ叩きつけられ、さらに後頭部を強く打ちつけた。視界が白く弾けた。何が起きたのか理解する間もなく意識が途切れ、大久米はその場に崩れ落ちた。
長髄彦には、もはや大久米も周囲の敵兵も見えていなかった。視線の先にあるのは、戦場の向こうで翻る二本の旗と、その下にいる敵将ただ一人だった。
大久米を退けた長髄彦は、なお付き従う僅かな手勢を率い、久米部の防衛線に生じた隙間へ迷うことなく飛び込んだ。背後では主力の槍部隊が久米部と激しくぶつかり合い、ほとんどの兵がその厚い守りを突破できずにいる。それでも長髄彦は振り返らなかった。
二本の旗だけを目指し、残された僅かな兵とともにひたすら前へ進んでいった。
「崩れたぞ! 逃げる兵はほっておけ! もっと前に! 前進だ!」
日臣の号令とともに、別動隊は逃げ惑う兵には目もくれず、長髄彦軍の後方へさらに深く食い込んでいった。その容赦のない攻勢が、ついに戦いの勝敗を決定づける。
長髄彦軍は、もはや全軍の崩壊へと向かっていた。左右両翼では兵たちが弓や弩、さらには重い盾までも投げ捨て、少しでも身軽になろうと我先に逃げ始めている。中央軍もまた陣形を保つことができず、各所で戦列が寸断され、指揮も届かなくなっていた。
どこを見ても敗走する兵ばかりで、もはや組織だった抵抗を続けられる状態ではない。
勝敗は決した。
誰の目にも、そう見えていた――。
長髄彦の目には、もはや戦場の混乱も、崩れゆく味方の姿も映ってはいなかった。見えているのはただ一つ、前方に翻る二本の旗だけだった。
あそこに行くのだ。行かねばならぬ。
その一念だけで長髄彦は前へ進み続け、久米部の中央を突破することに成功した僅かな兵たちを引き連れ、ついに磐余彦の本陣へと迫った。迎え撃つ護衛兵と長髄彦たちが激しくぶつかり合い、最後の防衛線でも入り乱れるような接近戦が始まる。
だが長髄彦は止まらなかった。気迫だけで立ちはだかる兵を押し退け、ついには最後の包囲すら突破する。その先にいるのは磐余彦だった。長髄彦は槍を握り直し、単身で敵将へ向かって踏み込んだ。
しかし、その瞬間だった。左右から同時に二つの影が襲いかかる。右から竹、左から浦。
長年ともに鍛えてきた双子は言葉を交わすこともなく、まるで一つの意志で動いているかのように長髄彦を挟み込んだ。竹の槍が正面から進路を塞ぎ、その隙を狙って浦が死角へ回り込む。
さすがの長髄彦も、その鮮やかな連携攻撃にはわずかに足を止めた。
浦は容赦なく剣を振るい、間髪を入れずに攻撃を重ねた。そして長髄彦を仕留めようと、剣を大きく振りかぶる。
だが、その瞬間だった。長髄彦は一歩踏み込み、無防備になった浦の腹へ鋭い蹴りを叩き込んだ。
「戦は見世物ではない! 派手に動くばかりで無駄が多いわ!」
「ぐはっ!」
まともに蹴りを受けた浦の身体が宙を舞い、そのまま地面へ激しく叩きつけられる。腹を押さえた浦はすぐには起き上がることができず、その場に倒れたまま動けなくなった。
竹の槍が三度、四度と鋭く繰り出され、長髄彦の進路を塞いだ。長髄彦も容易には踏み込めず、そのたびに盾で穂先を逸らしながら前へ進もうとする。
「邪魔だ!」
苛立った長髄彦が盾を強く押し出した。竹は反射的に槍を引いて踏みとどまったが、その瞬間、盾に隠れて長髄彦の上半身が視界から消える。
次の瞬間、その死角から鋭い蹴りが飛び出した。
「うっ……!」
長髄彦の足が竹の腹を正面から捉えた。竹の身体は大きく吹き飛ばされ、そのまま地面へ叩きつけられる。腹を押さえたまま息を詰まらせ、すぐには起き上がることができなかった。
浦に続いて竹までも退けた長髄彦だったが、二人に対して槍の穂先を向けることは最後までなかった。戦場で敵として立ち塞がった以上、容赦するつもりはない。それでも命を奪う槍ではなく、あえて蹴りで戦闘不能にする。
それは長髄彦なりの、女性に対するわずかな配慮でもあった。
磐余彦へ迫る長髄彦を止めようと、横に控えていた椎根津彦が槍を突き出した。だが長髄彦はその穂先を左手であっけなく掴んで止めると、間髪入れず右拳を叩き込む。椎根津彦はまともに受け、そのまま大きく吹き飛ばされた。
これで磐余彦の前を遮る者はいなくなった。残るのは、槍と盾を構え直した長髄彦ただ一人である。長髄彦は荒い息を吐きながらも足を止めず、磐余彦へ向かって一歩、また一歩と距離を詰めていった。
そして、ついに槍の間合いへ入る。
長髄彦が磐余彦へ槍を突き出そうとした、その瞬間だった。
背後から猛烈な勢いで回し蹴りが飛び、長髄彦の頭部を直撃した。完全な不意打ちを受けた長髄彦はその場に倒れ込み、ほんの一瞬、意識を失う。
駆けつけたのは、大久米だった。
大久米は、先ほど自分が蹴り飛ばされた借りを返すと言わんばかりに、あえて長髄彦へ蹴りを叩き込んだ。
態勢を崩した長髄彦へ、すかさず竹と浦が襲いかかろうとする。だがその前へ大久米が割って入り、両腕を大きく広げて二人を制した。
「なにをする!」
「邪魔をしないで!」
二人の声にも、大久米は退かなかった。ほんの少しだけ振り返り、その鋭い眼差しを竹と浦へ向ける。
――ここは俺に任せろ。
言葉などなくとも、それだけで十分だった。
竹と浦はしばらく大久米を見つめ返していたが、その表情に宿る強い意志を感じ取り、やがて諦めたように武器を引いた。
竹と浦にはわかっていた。大久米が二人との鍛錬で本気を出さなくなってから、もう随分と長い。幼い頃ならともかく、今では自分たちを傷つけぬよう、常に力を抑えて相手をしていたのだ。
だが今、目の前に立つ大久米は違う。二人が知る鍛錬の大久米ではない。命の奪い合いをする戦場に立った、一人の武人としての大久米だった。
型や形式に縛られず、長い実戦の中で独自の戦い方を磨き上げてきた長髄彦。その老将を正面から相手にできる者がいるとすれば、大久米しかいない。
竹と浦はそう確信していた。
長髄彦は意識を取り戻すと、ゆっくりと立ち上がり、再び槍を構えた。
「なぜ、さっき殺さなかった」
大久米は答えない。ただ、当然だろうと言わんばかりの顔で長髄彦を見返している。
そこで長髄彦は、目の前の男が先ほど自分が蹴り飛ばした小僧だと思い出した。
「はっ。先に殺さなかったから、その貸しを返したつもりか?」
だが実際には、長髄彦が大久米を殺さなかったのは情けをかけたからではない。あの時は敵将へ辿り着くことだけを考え、わざわざ止めを刺す手間と体力すら惜しかっただけだった。
長髄彦はすでに八十に迫る年齢である。どれほど鍛錬を重ね、強靱な精神力で身体を支えていようとも、若い頃と同じようには動けない。激戦を重ねた身体は、確実に限界へ近づいていた。
その一方で、目の前に立つ大久米は若く、長髄彦と肩を並べるほどの大柄な体躯を持っている。
ほんの少しでいい。長髄彦が言葉を続けていたのは、大久米との会話を楽しむためではなかった。欲しかったのだ。乱れきった息を整えるための、ほんの僅かな時間が。
「生意気な小僧だが……気に入った」
長髄彦は荒い息を整えながら、大久米を真正面から見据えた。これまで幾度となく戦場に立ち、数え切れぬほどの敵と刃を交えてきた。だが己が名を敵に告げたことなど、一度としてなかった。
名乗る必要などなかったのだ。敵を倒す。ただそれだけでよかった。だが今、目の前に立つ若き武人にだけは、自らが何者なのかを告げておきたいと思った。
長髄彦は槍を握り直し、胸を張った。
「儂は登美の豪族――邇芸速日様一の家臣、長髄彦だ!」
老将の声が戦場に響き渡る。
それは長い生涯で、初めて敵に向けて放った名乗りだった。
「無口な奴だが、喋れぬわけではなかろう。貴様も名を名乗れ!」
大久米は黙ったまま長髄彦を見つめた。いつもの彼なら、表情だけで答えていただろう。だが、この時だけは違った。大久米はゆっくりと口を開く。
「東征軍一の武人――大久米」
それだけだった。家柄も、血筋も、肩書も語らない。ただ己が何者なのかを、たった一言で示した。
長髄彦は一瞬だけ目を見開き、やがて獰猛に笑った。老いた英雄と、若き武人。二人の名が初めて戦場で交わった。
体力勝負になれば、自分が負ける。それは長髄彦自身が誰よりもよく分かっていた。ならば狙うべきはただ一つ。一撃だ。この一撃に残された力のすべてを注ぎ込み、目の前の若い武人を仕留めるしかない。
「いくぞ! 大久米ぇぇえ!」
長髄彦は咆哮すると、槍を強く握り締めた。先ほど退けた女護衛二人は、すでに敵将のもとへ戻り態勢を立て直している。この大久米を倒したところで、その先にはまだ彼女たちがいる。それでも、ここで終わるわけにはいかなかった。
残された力を一滴残らず絞り出すように踏み込み、長髄彦は渾身の力を込めた槍を大久米へと突き立てた。
長髄彦が全身の力を込めて放った突きは、大久米の構えた盾を貫き、そのまま頭部へと迫った。大久米は咄嗟に盾から手を離すと、頭を沈めて穂先をかわし、その低い姿勢から回し蹴りを放つ。蹴りを受けた長髄彦の体勢が大きく崩れた。
あと少し判断が遅れていれば、大久米の頭は槍に貫かれていた。それほどまでに危うい一撃だった。
長髄彦が長年の実戦で磨き上げてきた、槍と盾、そして蹴りを組み合わせた戦い方を、大久米は戦いの最中にその身で学び取っていた。皮肉にも長髄彦自身が大久米にその技を教え、その技によって渾身の一撃をかわされることになったのである。
勝敗は、もはや誰の目にも明らかだった。先ほどまで鬼神のような勢いで槍を振るっていた長髄彦の動きは目に見えて鈍り、踏み込む足にも、槍を繰り出す腕にも力が残っていない。それでも彼は大久米から目を逸らさず、震える両脚を踏みしめると、再び槍を構えた。
「まだだ、まだ終わっておらんぞ!」
引き裂くような声とともに踏み込むものの、すでに身体は長髄彦自身の意思についてこなかった。大久米に槍先をかわされただけで体勢を崩し、そのまま地面へ倒れ込み、顔を土で汚す。それでも長髄彦は槍を杖代わりにして身体を起こし、乱れた息を整える暇さえ惜しむように、再び大久米へ向き直った。
「大久米、貴様がどれだけ主君を想っているのかわかるぞ。だが、儂には及ばん! 及んでたまるかぁ!」
もはや長髄彦を動かしているものは、鍛え上げた肉体でも積み重ねてきた武芸でもなかった。とうに限界を越え、悲鳴を上げている身体を、邇芸速日への想いだけで無理やり前へ進ませている。槍を繰り出すたびに足元が揺らぎ、大久米にかわされるたびに地面へ転がったが、それでも止まろうとはしなかった。
何度挑んでも大久米には届かない。若い巨躯は息一つ乱さず立ちはだかり、長髄彦の槍を見切っているようにさえ思えた。その姿を見ているうちに、長髄彦の胸に苛立ちが湧き上がる。まるで自分が手加減されているように感じられたのだ。
「大久米! 貴様、手加減しているのか! 舐めるなよ、小童が!」
怒声を上げ、残った力を振り絞って槍を突き出した。しかし穂先は大久米の身体を捉えることなく空を切り、行き場を失った勢いに身体がついていけず、長髄彦はまたしても地面へ倒れ込んだ。
だが、大久米に手加減しているつもりなどなかった。長髄彦を侮っているわけでもない。目の前の老将がとうに戦える身体ではなくなっていることは、大久米にもよくわかっていた。それでもなお亡き主君への想いだけを支えに立ち上がり、自分へ向かってくる。その姿を見ているうちに、大久米はこの男の戦いに自らの手で終わりを与えてしまうことを、どこか惜しいと感じ始めていた。
長髄彦は激しく肩を上下させながら、動かなくなりかけた脚を自らの手で支え、それでも再び立ち上がった。盾を持ち続けるだけの力さえ残されていなかったのか、それを地面へ投げ捨てると、槍を深く土へ突き立て、その柄に身体を預けるようにしてようやく立っている。
頭では動けと命じている。それなのに脚は思った場所へ出ず、腕にも以前のような力が入らない。それでも長髄彦は槍を引き抜き、大久米へ向かって突き出した。
その一撃もかわされた。
支えを失った身体は前へ泳ぎ、長髄彦は受け身を取ることすらできないまま、再び顔から地面へ倒れ込んだ。
竹も、浦も、そして冷静に戦況を見つめていた椎根津彦さえ、もはやその姿をただの敵将として見ることができなくなっていた。勝敗が決してなお、身体が言うことを効かなくなってなお、亡き主君のために立ち続けようとする老将の姿に、誰もが武人としての敬意を抱かずにはいられなかった。
しかし、いつまでもこの戦いを続けるわけにはいかなかった。どれほど長髄彦の執念に敬意を抱こうとも、ここは戦場であり、終わらせるべき時が来ている。
再び繰り出された槍を大久米は身をずらしてかわすと、そのまま踏み込み、長髄彦の太腿へ自らの槍を深く突き立てた。
「ぐっ……!」
長髄彦の身体が大きく傾く。傷ついた足では、もはや巨体を支えることすらできず、その場に崩れかけた。
それでも諦めることだけはしなかった。
長髄彦は手にしていた槍を握り直すと、最後の力を振り絞り、遠くにいる磐余彦めがけて投げ放った。空を裂いて一直線に飛んでいく槍へ、すぐさま竹が反応した。横から槍を振り抜き、飛来した穂先を激しく打ち据える。甲高い金属音とともに軌道を逸らされた槍は、磐余彦の横を外れて地面へ突き刺さった。
長髄彦はなおも終わらない。腰の剣を抜き放つと、それさえも磐余彦へ向けて投げつけた。今度は浦が前へ飛び出した。
「させない!」
振り抜かれた剣が飛来した刃を弾き、長髄彦に残されていた最後の武器までもが遠くへ転がっていく。槍もない。剣もない。そして傷ついた足は、もはや立ち上がることすら許してくれなかった。
長髄彦はとうとう両膝を地についた。
周囲ではまだ兵たちの叫び声や武器のぶつかる音が響いているはずなのに、それらは急速に遠ざかっていくように感じられた。激しく乱れていた呼吸さえ、どこか自分とは別の場所で鳴っているようだった。
足に力が入らない。
腕も上がらない。
戦うための武器も、すべて使い果たした。
ただ目の前には、自分より遥かに若い大久米が立っている。
――もう少しだけ若ければ。
そんな思いが、ふと胸をよぎった。
あと十年、いや、あと数年でも身体が若ければ、目の前の小僧に後れを取ることなどなかった。槍ももっと速く振るえた。足もまだ動いた。あの一撃だって、かわされることはなかったかもしれない。
長髄彦は地面についた手へ力を込めた。
――動け。
しかし身体は応えてくれない。
――動いてくれ、儂の身体。
立たなければならない。
まだ終わっていない。
邇芸速日様の国を守らなければならない。
それなのに、何度命じても足は震えるだけで、巨体を持ち上げることができなかった。
――なぜだ。
――なぜ、動いてくれぬ……。
そんな長髄彦の姿は、戦場の至るところから見えていた。
長髄彦軍はそこで初めて崩れたのではない。すでに日臣率いる別動隊に背後を突かれた時点で戦列は寸断され、左右の軍勢も中央も統制を失っていた。長髄彦がここまで辿り着けたのは、勝機が残されていたからではなく、最後まで付き従った近習たちとともに損害を顧みず突撃し、ただ一つ、磐余彦の本陣だけを目指して前へ進み続けたからだった。
その最後の支えであった長髄彦が、ついに膝をついた。
それを目にした兵たちから、戦う意思が急速に失われていく。武器を落とす者、立ち尽くす者、その場へ座り込む者が次々と現れ、なお抵抗を続けていたわずかな兵たちも、やがて力なく手を止めていった。
八十年近い生涯で積み重ねてきた武勇のすべてを使い果たし、最後にはただ一人の主君への忠義だけを胸に、敵将の目前まで突き進んだ長髄彦の戦いぶりは、まさしく鬼神のごとき獅子奮迅の働きであった。
そして長く続いた東征軍最後の戦いは、ついにその幕を下ろした。




