二十二話 三輪山決戦前編
東征軍は東へ進み、忍坂付近に陣を敷いた。以前から椎根津彦が依頼していた弟宇迦斯も、宇陀を中心に集めた兵を率いて東征軍へ合流した。一方、日臣率いる別動隊は、一度東へ向かって本隊から離れた後、敵に姿を見られないよう慎重に進路を変えながら北上し、三輪山を目指していた。
その頃、長髄彦率いる軍勢は国見丘付近まで接近していた。
「敵はすでに撤退した後でございます」
偵察から戻った兵が報告すると、別の兵も続けた。
「東へ向かい、宇陀方面へ移動しているとのことです」
「宇陀だと?」
長髄彦の眉が険しくなる。
「現在は忍坂にいるとのことです」
「ならば急いで忍坂へ向かう。宇陀まで逃げられては面倒だ」
「はっ!」
命令を受けた兵たちが直ちに動き出す。長髄彦軍は進路を東へ変え、忍坂に陣を構える磐余彦率いる東征軍本隊を追った。
東征軍本隊では、磐余彦が布陣を確認しながら、傍らの椎根津彦に問いかけた。
「椎根津彦、何故宇陀勢を前衛に配置するんだい?」
「前衛を厚くしたいからです」
椎根津彦は何でもないことのように答えた。
磐余彦は改めて陣形へ目を向ける。前衛には弟宇迦斯が率いる宇陀勢。その後ろの中央には大久米率いる久米部。そして左右には筑紫から連れてきた兵士たちが配置されている。
「中央は久米部、左右は筑紫からの兵士達……確かにこれでよいのか」
「そこで一つお願い事がございます」
「なんだい?」
「脱走兵をその場で処断してもよい許可を頂きたく」
磐余彦は返事をしなかった。ただ、椎根津彦の顔をじーっと見つめる。その視線だけで、何を考えているのかは十分に伝わった。
「やはり許可を頂けませんか……」
「前衛に宇陀勢を配置しているのは、そういう意味かい?」
磐余彦の問いに、椎根津彦は否定しなかった。
「今回の防衛は、宇陀勢がどれだけ長く踏みとどまれるかが勝敗に関わってくるかと」
宇陀勢はつい先頃まで東征軍とは別の勢力だった。弟宇迦斯のもとで兵を集めて合流したとはいえ、久米部のように長く共に戦ってきた兵ではない。
その宇陀勢をもっとも危険な前衛に置く。椎根津彦が何を考えているのか、磐余彦にもよく分かった。だからこそ、脱走兵をその場で斬るという許可までは出したくなかった。
「弟宇迦斯の踏ん張りに期待しようではないか」
「承知いたしました」
椎根津彦はそれ以上、処断の許可を求めなかった。しばらくして、別の話を思い出したように口を開く。
「それはそうと、忍坂の村々に避難を指示されたとか?」
「うん。戦場になる可能性が高いからね」
「民を遠ざけるためですか?」
「それもあるよ。酒も多少渡してある。避難した先で戦見物でもするんじゃないかな」
「酒まで?」
椎根津彦が少し意外そうな顔をした。
「ほう、そこまでされるとは。どのようなお考えで?」
磐余彦は遠くの山々へ視線を向けた。
「ちゃんと見て貰いたいからね」
「見て貰う?」
「これからの支配者が誰になるのかを」
椎根津彦は一瞬だけ黙った。ただ戦に勝つだけではない。忍坂をはじめ、この周辺に暮らす者たちに、この戦の行方そのものを見せようとしているのだ。
誰が勝つのか。誰がこの地を治めるのか。そして新たに現れた支配者が、どのような者なのか。磐余彦は、それを民自身の目で確かめさせるつもりだった。
実際、東征軍から酒まで振る舞われたという噂は、瞬く間に近隣へ広がった。戦場になる村々から避難した者だけではない。周辺の村や集落からも人々が集まり始める。
「大倭壱国の軍と、登美の長髄彦が戦うらしい」
「本当に長髄彦様が来るのか?」
「どちらが勝つんだ?」
「酒まで貰えるらしいぞ」
人々は山や丘など、戦場を見渡せる高台へ次々と集まっていった。これから自分たちの土地を誰が治めることになるのか。その行方を、自分たちの目で見届けるために。
長髄彦軍は東へ進み、ついに磐余彦率いる東征軍本隊を視界に捉えた。
敵陣は前衛、その後ろに中央、さらに左右へ兵を大きく展開しており、遠目に見ても十分な厚みがある。中央部のさらに奥には、ひときわ大きな二本の旗が風を受けて翻っていた。
金色の日を掲げた日之御旗と、銀色の月を掲げた月之御旗である。長髄彦は敵陣を睨みつけた。
「間違いない。大倭壱国軍だ。陣容も厚いな。あの敗戦の後、よくもこれだけの兵数を維持出来たものだ」
側近の一人が敵陣を見渡しながら答える。
「宇陀に逃げられる前に間に合いましたな」
「よくやった。兵を休ませろ。夜明けと共に攻撃だ」
「はっ」
命令はすぐさま全軍へ伝えられ、長い行軍を続けてきた兵たちは陣を整えながら休息へ入った。
長髄彦軍の兵士たちにとって、長髄彦は単なる一人の武将ではなかった。
長髄彦と兵たちとの付き合いは、すでに三世代、四世代にも及んでいる。今ここにいる兵の多くは、生まれた時から長髄彦を知っていた。父も祖父も、そのまた父の代から、長髄彦と共にこの地を守ってきた者たちである。
彼らが物心ついた頃には、長髄彦はすでに老境へ差しかかっていた。それでも戦となれば誰よりも前へ立ち、巨大な槍を振るい、敵を退け続けてきた。
ゆえに兵たちにとって、白髪を増やしながらなお戦場へ立ち続ける長髄彦の姿は、ごく当たり前の光景であった。
子供の頃から聞かされてきた武勇。父や祖父から語り継がれてきた戦の記憶。そして実際に自分たちの目で見てきた、老いてなお衰えぬその背中。
長髄彦は、彼らにとって登美の豪族を率いる将である以上に――幼い頃から仰ぎ見てきた『登美の英雄』そのものだった。
夜明けとともに、先に動いたのは長髄彦軍であった。中央と左右に部隊を展開した長髄彦軍は、そのまま隊列を崩さず、磐余彦率いる東征軍本隊へ向けてゆっくりと前進を開始する。
やがて最初に矢の射程へ入ったのは、長髄彦軍の中央部隊と、その正面に配置された弟宇迦斯率いる宇陀勢であった。
長髄彦は敵との距離を見極めると、力強く片手を振り下ろした。
「放て!」
ほぼ同時に、弟宇迦斯も声を張り上げる。
「矢を放て!」
両軍から一斉に無数の矢が放たれた。
空を埋め尽くすような矢が互いの陣へ降り注ぎ、盾や地面へ次々と突き刺さる。少し遅れて左右両翼も互いを射程へ捉え、戦場の至るところで激しい矢の応酬が始まった。
当初、中央の戦いは互角に見えた。
宇陀勢も必死に弓を引き、長髄彦軍へ矢を浴びせ続けている。しかし戦いが続くにつれて、少しずつ力の差が表れ始めた。
長髄彦軍中央部隊は、宇陀勢とは弓兵の数が違う。それだけではない。長年鍛え上げられてきた兵たちは矢を放つ間隔も短く、狙いも正確だった。
宇陀勢の盾へ矢が突き刺さり、盾の隙間を抜けた矢が兵を倒す。次第に宇陀勢の戦列が乱れ始めた。
弟宇迦斯は前線で声を張り上げる。
「怯むな! 矢を放ち続けろ!」
必死の叱咤に応え、宇陀勢は弓を引き続けた。
だが、降り注ぐ矢の激しさに耐えきれなくなった兵が一人、また一人と後ろへ下がり始める。やがて、その中から完全に背を向けて逃げ出す者が現れた。
一人が走れば、それにつられるように二人、三人と続いていく。逃げ出した宇陀勢の兵たちは、そのまま後方に控える久米部の陣へ向かって走り込んできた。
その瞬間だった。久米部の兵たちが一斉に盾を揃えた。
ガンッ――と無数の盾が地面へ並び、逃げ道を塞ぐ巨大な壁となる。その盾の隙間からは槍の穂先が一斉に突き出され、逃げてきた宇陀勢へ向けられた。
そして久米部の兵たちは、声を揃えて叫び始めた。
「逃げれば斬る! 逃げれば斬る! 逃げれば斬る! 逃げれば斬る!」
地を震わせるような大合唱だった。前へ戻れば長髄彦軍の矢が待ち、後ろへ逃げれば久米部の盾と槍が待っている。その圧力を前に、逃げ出した宇陀勢の兵たちは足を止めた。
「逃げれば斬る! 逃げれば斬る!」
久米部の声は止まらない。ついに宇陀勢の兵たちは歯を食いしばり、再び前線へ向き直った。久米部の大合唱と、その背後から押し返すような圧力によって、崩れかけた宇陀勢は辛うじて戦場へ踏みとどまった。
宇陀勢の兵が次々と後方へ逃げ込み、それを待ち構えていた久米部が盾と槍を揃えて「逃げれば斬る!」と叫び始めた光景を目にした磐余彦は、驚いてその場から立ち上がった。そして、すぐ横に控えていた椎根津彦へ厳しい視線を向ける。
「これはどういうことだ。処断する許可はだしていないぞ」
「はい、確かに」
椎根津彦は、まるで何の問題もないと言わんばかりに平然と答えた。その態度に、磐余彦はさらに眉を寄せる。
「ではこれはどういうことだ」
「大久米には脱走兵を処断する命令を出しておりません。ただ、構えて叫ぶよう指示をだしているだけです。これには反対されてはおりませんでしたから」
確かに斬れとは命じていない。ただ盾と槍を構え、逃げてくる兵士たちへ向かって斬るぞと叫ばせているだけである。理屈としては間違っていない。だが、磐余彦にはどうにも釈然としなかった。
『脅してもいいかと、聞かれてもいないけどなぁ……この悪党め』
内心でそう毒づきながらも、今さら久米部を止めるわけにもいかない。実際、その威圧は効果を上げ、逃げかけていた宇陀勢の兵たちは再び前へと押し戻されていた。
一方、左右の両翼では、集中して配置した盾と矢が功を奏しているのか、長髄彦軍を相手に互角の戦いを続けており、双方とも一歩も譲らない展開となっていた。
戦況が膠着し始めると、長髄彦の顔には次第に苛立ちが浮かび始めた。
「ええい、なんと悪辣な。引けば斬ると脅してまで兵を引き留めるか」
宇陀勢は明らかに押されている。それでも後方に控える久米部から逃亡を許さぬ圧力をかけられ、辛うじて戦線に踏みとどまっていた。
「しかし、敵の前衛は崩れておりません」
「仕方ない。槍部隊を前に押し立てよ! 盾を並べて前進せよ。強硬突破だ!」
長髄彦の命令を受け、それまで後方に控えていた槍部隊が一斉に前線へと動き出した。
兵たちは盾を並べて壁を作り、その陰に身を隠しながら着実に前進する。さらに後方の弓兵たちが絶え間なく矢を放ち、宇陀勢が顔を上げることすら許さない。
盾の列が少しずつ迫ってくる。その圧力を目の当たりにした宇陀勢の中に、再び動揺が広がった。
まだ敵の槍部隊が到達していないというのに、一人、また一人と後ずさり始める。弟宇迦斯が必死に声を張り上げた。
「引くな! 踏みとどまれ!」
だが、一度揺らいだ前衛を立て直すことは容易ではなかった。
やがて長髄彦軍の槍部隊が到達し、盾と盾が激しくぶつかり合った。続いて盾の隙間から槍が突き出され、宇陀勢も必死に槍を繰り出して応戦する。
木の盾がぶつかる鈍い音と、槍同士が弾ける乾いた音が連続して響いた。しかし、弓兵の援護を受けながら押し込んでくる長髄彦軍の勢いを、疲弊した宇陀勢では支えきれなかった。
前列の兵が押し戻され、その背中が後ろの兵にぶつかる。隊列が乱れ、隙間が生まれ、そこへさらに槍が突き込まれた。
ついに宇陀勢の前衛は完全に崩れた。
「引くな! 踏みとどまれ!」
弟宇迦斯はなおも叫び続けたが、その声ももはや兵たちを押しとどめることはできない。次々と兵が後方へ走り出し、崩壊は瞬く間に全体へと広がっていった。
その様子を見た磐余彦は、すぐに決断した。
「弟宇迦斯に無理をさせては駄目だ。引いて久米部に合流させなさい」
「承知いたしました。伝令!」
椎根津彦が即座に声を上げる。伝令の兵が駆け出し、崩れ始めた宇陀勢へと撤退の命令を伝えに走った。
長髄彦は、崩れた宇陀勢を追うように中央軍をすかさず前進させ、そのまま久米部の射程まで距離を詰めた。長髄彦軍は再び弓兵を前面に押し出し、矢を浴びせながら少しずつ前進していく。
だが、久米部も一歩も退かなかった。盾を並べて敵の矢を防ぎながら激しく矢を射返し、前進しようとする長髄彦軍を押し留める。双方から絶え間なく矢が飛び交い、戦況は再び膠着状態へと陥っていた。
その様子を後方から眺めていた椎根津彦は、わずかに表情を緩めた。宇陀勢が崩れたとはいえ、ここまで敵の進撃を食い止められているのであれば、当初の想定よりも十分に時間を稼げている。
「予想以上に守れています。これだけ時間を稼げたら……」
その言葉を聞いた磐余彦も、戦場の向こうへ視線を向けた。
「そろそろ時間かな?」
「はい。日臣の部隊がくる頃合いです」
その頃、日臣率いる別動隊は、身を低くして気配を殺しながら前進を続けていた。すでに視線の先には長髄彦軍の後衛が見えており、あとは敵に気づかれることなく、どこまで距離を詰められるかにかかっている。
兵たちは腰を落としたまま足を止めず、草木や地形に身を隠しながら走り続けた。長い迂回と強行軍によって誰もが滝のような汗を流し、息を切らしていたが、声を上げる者はいない。
日臣も荒い呼吸を押し殺しながら、何度も前方を確認した。長髄彦軍の兵たちは、まだこちらに気づいていない。その距離は、確実に縮まりつつあった。
日臣の部隊は一歩、また一歩と、長髄彦軍の背後へ迫っていた。




