二十一話 決戦前夜
国見丘の戦いに勝利した東征軍は、ついに三輪山の盆地南部へと進出した。その報せは瞬く間に周辺へ広がり、三輪山に連なる豪族たちのもとにも届いていた。
盆地北部、登美の地を治める長髄彦は、その報せを聞くなり怒りを露わにした。
「大倭壱国の奴ら、こそこそと南からやってきおったのか!」
長髄彦はこれまで港や周辺の街道に兵を置き、敵の侵入を警戒していた。しかし東征軍が遥か南の熊野から山々を越え、盆地へ北上してくることまでは想定していなかった。
「兵を集結させい! ただちに南へ向かう!」
怒声が館に響き渡り、家臣たちは一斉に動き始める。
その様子を見届けた長髄彦は、ふと三輪山の方角へ顔を向けた。険しかった表情から怒りがわずかに消え、代わりに深い決意が浮かぶ。
「邇芸速日様……ご覧くだされ」
長髄彦は静かに目を細めた。
「儂が最後まで、この国を守ってみせますぞ」
国見丘での戦いを終えた東征軍は、休む間もなく軍議に入った。宇摩志麻遅から、長髄彦が依然として抵抗する意思を崩さず、兵を集結させて東征軍へ向かっているとの知らせが届いたからである。
軍議に集まったのは、磐余彦、日臣、大久米、椎根津彦、そして護衛として竹と浦。顔を揃えたのは、旗揚げ以前から共に過ごしてきた幼馴染ばかりだった。
弟宇迦斯は国見丘の戦いには参加していない。椎根津彦の依頼を受けて宇陀で兵を集め、忍坂へ集結させる役目を担っているため、この場にはいなかった。
「やはり長髄彦とは戦わないといけないようだね」
磐余彦が静かに口を開くと、日臣は待っていたとばかりに身を乗り出した。
「あの時の礼を返す機会だ! 倍返ししてやる!」
その言葉に、大久米も力強く頷く。しかし椎根津彦だけは浮き立つ様子を見せず、二人を制するように口を開いた。
「決戦の前に色々と話すべきことがあります」
「ほう」
「長髄彦軍と戦う前に、皆さんに知っていただきたいことがあります」
そう言って椎根津彦は、二種類の武器を会議室の机の上へ置いた。
一つは見慣れた弓で、大倭壱国で使われているものと大差はない。しかし、もう一つは誰も見たことのない武器だった。弦が張られている以上、弓の一種であることは分かるものの、その形状も、持ち方も、使い方さえもまるで違って見える。
竹が怪訝そうにそれを見つめた。
「これは見たことがありません」
隣では浦も首を傾げる。
「なんなのこれ?」
本来、護衛である竹と浦に軍議での発言権はない。だが、この場にいるのは気心の知れた者ばかりであり、今回は磐余彦から事前に自由に発言してよいと許されていた。
「これは弩と呼ばれる、機械仕掛けの弓です」
椎根津彦は机の上に置かれた奇妙な形の武器へ手を添えた。
「実は白肩津での戦い以来、ずっと気になっていたことがありました。確かに我々は奇襲を受けました。しかし、それを差し引いても長髄彦軍の矢はあまりにも強力で、しかも異様なほど大量に降り注いできた。なぜ、あれほどの数を撃てたのか。なぜ、あれほどの威力があったのか。その理由を確かめるため、私は以前から長髄彦軍が使用していた二種類の弓を手に入れ、調べていたのです」
そう言うと椎根津彦は弩を手に取り、一同を伴って会議をしていた建物の外へ出た。
そこには一本の木が立っており、その幹には鎧が吊るされていた。どうやら、この実演のためにあらかじめ用意していたらしい。
椎根津彦は弩に矢をつがえると、鎧へ向けて構えた。狙いを定め、仕掛けを動かす。鋭い音とともに矢が飛び出した。次の瞬間、矢は鎧を貫き、その奥へ深々と突き刺さった。
「なっ……」
あまりの威力に、その場にいた全員が言葉を失った。そんな中、椎根津彦は弩を下ろすと、何でもないことのように告げた。
「実は私、この弩の練習をほとんどしておりません」
「は?」
竹が思わず目を見開いた。
「鍛錬もしないで的に当てたの?」
「そんなの信じられない」
浦も驚きを隠せない。
日臣は鎧へ歩み寄り、貫通した矢をまじまじと眺めた。
「それにしても鎧を貫通しているぞ。なんだ、この威力は……」
大久米も珍しく目を丸くし、鎧と弩を交互に見比べていた。
「これは大陸で使われている兵器で、弩と呼ばれるものです。おそらく三輪山では大陸から伝わった仕掛けを調べ、それを独自に作り上げ、大量に揃えていたのでしょう」
「これを長髄彦が持っているのか……」
磐余彦の表情が険しくなる。
「これもまた、三輪山が長く無敗を保ってきた理由の一つでしょう。しかし、本当に恐ろしいのは弩そのものではありません。この兵器を大量に揃え、通常の弓兵と組み合わせて運用する仕組みを作り上げたことです」
椎根津彦は手にした弩を持ち上げた。
「弓は一人前に扱えるようになるまで長い鍛錬が必要です。しかし弩ならば、普段は軍事に携わっていない者でも、短期間の鍛錬で強力な射手として戦場に立たせることができます」
「邇芸速日が残した遺産か……」
日臣は苦い顔をした。
「確かにこれなら、その辺の鍛錬を積んでいない民でも扱える。しかも、この威力だろ。えぐいな」
「弓なんて、どれだけ鍛錬を積んでも矢が当たらない人もいるものね」
竹が何気なく口にする。
「あはは」
浦が小さく笑った。
「…………」
ぎくり。
磐余彦は無言のまま胸に手を当てた。なぜか今の言葉が、自分の胸だけを正確に射抜いたような気がした。
「弩の欠点は、弓に比べて装填に時間がかかることです。ですが、この扱いやすさと命中精度は十分な脅威です。通常の弓を扱える者は弓を使い、そうでない者には弩を持たせる。弓と弩を組み合わせて運用することで、絶え間なく大量の矢を浴びせることができる。白肩津で我らが受けた、あの激しい矢の攻撃の正体はこれでしょう」
椎根津彦の説明を聞きながら、大久米は吊るされた鎧へ歩み寄り、弩の矢が貫通した箇所を間近から確かめていた。分厚い鎧を突き破ってなお深く食い込んだ矢を見つめ、その表情が険しくなる。
「どうするんだよ。こんな兵器の前じゃ、槍が届く前に蜂の巣だぜ」
日臣が顔をしかめると、椎根津彦は手にした弩へ視線を落とした。
「軍事の鍛錬が不十分な者であっても、体力さえあれば装填はもっと速くできるでしょう。少なくとも、私などよりはるかに」
その言葉を聞いた磐余彦の脳裏に、白肩津での光景が蘇った。雨のように降り注ぐ矢。その中で腕を射抜かれ、やがて命を落とした兄の姿。
――兄上の彦五瀬も、この弩の攻撃を受けてしまったのか……。
無意識に表情を曇らせた磐余彦の横で、浦が机の上の弩を覗き込んだ。
「それなら、私達もこの弩を作ればいいんじゃない?」
「それは無理だよ」
磐余彦はすぐに首を横に振った。
「複製すること自体が不可能というわけじゃない。時間をかけて仕組みを調べれば、同じようなものは作れると思う。でも今から作り始めても、戦に使えるだけの数は揃わない。長髄彦軍は、私達が準備を終えるまで待ってはくれないよ」
竹は貫かれた鎧と弩を交互に見つめ、険しい表情のまま口を開いた。
「ならば、真正面から対峙することだけは避けたいわ」
「では、これから策を申します」
椎根津彦は一同を見回してから、静かに口を開いた。
「我らはまず、この国見丘一帯から撤退し、東の忍坂まで兵を引きます。そこで軍を二隊に分けます。一隊は日臣が率いて三輪山へ向かい、もう一隊は磐余彦様が率いて忍坂周辺に陣を構える。そして長髄彦軍と正面から対峙し、敵を引きつける囮となっていただきます」
「なっ、磐余彦様を囮にするなんて危険すぎるわ!」
竹が思わず声を上げた。
「さっきまで弩の威力を説明していたじゃない!」
浦もすぐさま反対する。しかし椎根津彦は二人の言葉に取り合わず、そのまま説明を続けた。
「まず磐余彦様率いる本隊には、全軍から可能な限り盾と矢を集めます。さらに陣の周囲に防御柵を築き、徹底して守りを固めます。その上で、長髄彦軍の攻撃を正面から受け止めていただきます」
磐余彦は黙って話を聞いていたが、その内容を理解すると小さく息を呑んだ。
「次に、日臣が率いる別動隊です。こちらは三輪山へ向かい、盾を持たず、槍と剣のみで編制します。防御を捨てる代わりに、機動力と攻撃力を最優先した部隊とします」
「盾もなしかよ……」
日臣の顔から、それまでの勢いがわずかに消えた。数々の戦場を経験してきた彼でさえ、盾も持たず敵陣へ向かうという役目には、さすがに恐怖を感じずにはいられなかった。
「忍坂は盆地の南東に位置し、宇陀へ通じる道でもあります。長髄彦としては、我らを宇陀まで退かせたくはないでしょう。そして三輪山は、忍坂から見れば北西にあります」
椎根津彦は地形を思い浮かべるように指を動かしながら、策の続きを語った。
「長髄彦軍が磐余彦様の本隊に釣られ、忍坂まで進んできたところで、三輪山へ向かった別動隊が背後へ回り込みます。そして山から一気に下り、後方から襲いかかる。前後から挟撃するのです」
そこまで聞いて、一同にもようやく椎根津彦の描いている戦の形が見えてきた。
「弓と弩による攻撃が強力なのは間違いありません。ですが、長髄彦軍は弓兵に大きく兵力を割いております。遠距離では恐ろしい相手でも、一度懐へ入り込んでしまえば、弓兵主体の軍では十分に対応できません。そこに付け入る隙がございます」
「なるほどな」
日臣は腕を組みながら頷いた。
「接近戦に持ち込んで、しかも後ろから攻撃できるなら勝機はある。うまく回り込めれば、一気に崩せるかもしれねえ。やってみる価値はありますぜ」
策そのものに道理があることは、竹にも分かっていた。しかし、その表情から険しさは消えなかった。
「椎根津彦。確かに良い策かもしれません。ですが、主君を囮にして危険へ晒す策を、本当に良しとするのですか?」
椎根津彦は竹の視線を正面から受け止めた。
「私は策を考えたまでです。策を立てるうえで、感情は可能な限り排しております。そのうえで、これが最も勝てる可能性の高い策だと判断し、献策いたしました。どうかご理解ください」
言葉こそ冷静だったが、その策が危険を伴うことを椎根津彦自身も理解していた。
そして不安を抱いていたのは、大久米も同じだった。
この策では、長髄彦軍の猛攻を正面から受け止める本隊を守る役目は自分にかかっている。弓と弩の雨を耐え抜き、別動隊が背後へ回るまで磐余彦を守り切らなければならない。
――守り切れるのか。
大久米は何も言わず、ただ拳を強く握り締めた。これまで幾度も戦場に立ってきた。だが今度ばかりは、今までとは違う。自分にとっても、これまでにない試練になる。そう感じずにはいられなかった。
磐余彦は椎根津彦の説明を黙って聞いていたが、いくつか気になる点があった。策そのものは理解できる。しかし、一度軍を預かる立場となった以上、曖昧なまま受け入れるわけにはいかない。やがて考えをまとめると、椎根津彦へ問いかけた。
「椎根津彦、いくつか訊きたい。まず国見丘は防衛には適している。なぜ忍坂まで兵を引く? 次に国見丘周辺の民のことだ。守らずに引くのか? あと、兵を分ける件だが、前回の夜陰での戦いならまだしも、兵を減らしては別動隊の存在を知られてしまうのではないか?」
椎根津彦はすぐに頷いた。いずれも当然出てくる疑問として、あらかじめ考えていたようだった。
「ご意見ごもっともでございます。その点につきましては、理由と対策をしております。まず国見丘の民についてですが、長髄彦がこの地を荒らす理由がございません。おそらく無視するでしょう。狙いはあくまで我らです」
そこで一度言葉を区切り、椎根津彦は忍坂へ退く理由を説明した。
「次に忍坂まで引くのには、いくつか理由がございます。まず、軍を二手に分ける策を行うための配置です。そしてもう一つ、宇陀からやってくる弟宇迦斯の軍と合流するためでございます。弟宇迦斯の軍を、兵を減らした本隊の補充にあてます。これならば長髄彦から見ても、我らの兵が減ったようには見えません」
磐余彦は納得したように頷いた。単に後退するのではない。別動隊を密かに送り出し、その穴を宇陀の兵で埋めるところまで椎根津彦は考えていたのだ。
「うん。さすがだ、椎根津彦。あと、よかったら忍坂の付近でいい。村や人のいないところで戦いたい」
「承知いたしました。付近を調べ、適した場所を探して選んでおきます」
椎根津彦は迷うことなく答えた。
策の全てを聞き終えた一同は、椎根津彦の練り上げた作戦に感心しながらも、誰一人として気を緩めることはできなかった。それぞれに与えられた役目のどこか一つでも失敗すれば、東征軍は敗れ、最悪の場合は磐余彦の命すら失いかねない。それほど危険を伴う策であることを、皆が理解していた。
そして、それは策を考えた椎根津彦自身も同じだった。
考えられる限りの状況を想定し、勝つための策を練ったつもりではある。だが、戦場では何が起こるかわからない。想定していなかった事態が発生し、その場で対処できなければどうするのか。別動隊の動きを長髄彦に察知され、それぞれを各個撃破されればどうするのか。その時は一時撤退するべきか、それとも宇陀まで兵を引くべきなのか。
何より、この策では主君である磐余彦を囮として敵の正面に置くことになる。
もし、磐余彦の身に何かあれば――。
椎根津彦は策を献じた後も気を緩めることなく、起こり得るあらゆる事態を頭の中で繰り返し描き、その一つ一つに対する次の手を考え続けていた。
軍議を終えた磐余彦は、ひとり小さな川まで足を運ぶと、その場にしゃがみ込み、冷たい水を両手ですくって顔を洗った。皆の前では平静を装っていたが、胸の内には隠しきれない緊張があった。
そのすぐ後ろには、護衛である竹と浦が控えていた。
「緊張しているの? それなら、あの策を採用しなくてもいいんじゃない?」
浦が心配そうに尋ねると、竹も険しい表情のまま続けた。
「私は椎根津彦の策には反対だ。危険すぎる。もっと別の策はなかったのか……」
「いや、椎根津彦はよくやってくれていたよ。策もよく練られていた。申し分ない」
「ですが……」
なおも食い下がろうとする竹へ、磐余彦は川面を見つめたまま静かに言った。
「竹、わかっているよ。椎根津彦は全部は語らなかったけど、みんなもわかっているはずだ。もし本隊が早く崩壊してしまったら。別動隊の到着が遅れたら。宇陀の軍が裏切ったらってね」
「それでもするの?」
浦の問いに、磐余彦はしばらく答えなかった。流れる水の音だけが三人の間を通り過ぎていく。
「これは逃げるわけにはいかない戦なんだ。ここを乗り切らないといけない」
そう口にしてから、磐余彦は小さく息を吐いた。
「でも……とても怖い。本当は逃げたい。逃げ出したい。しかし私の立場は、そうはいかない」
それは軍議の席では決して見せなかった、磐余彦の本心だった。
「私はきっと、この試練に挑むために、みんなと出会えたのかもしれない。みんなとなら、きっと乗り越えられる」
その言葉を聞いた竹と浦は顔を見合わせると、何も言わず磐余彦の隣へ腰を下ろした。そして竹が右肩に、浦が左肩に、そっと身を寄せる。
「えっ、竹、浦。どうしたの?」
突然のことに磐余彦が目を丸くすると、竹は寄りかかったまま淡々と答えた。
「最後かもしれない戦いの前なのでしょ」
「こんな時くらいいいじゃない。好きなんでしょ、引っ付くの」
浦が楽しそうに笑う。
「からかわないのー」
磐余彦は困ったように返したが、二人が傍にいてくれることが、たまらなく嬉しかった。それだけで張り詰めていた心が少しずつほどけ、不思議なほど安心することができた。
三人はしばらく言葉を交わさず、肩を寄せたまま流れる川を眺めていた。明日には、命を懸けた決戦が待っている。それでも今は、隣に二人がいる。そして自分には、ここまで共に歩いてきた仲間たちがいる。
川の音を聞きながら、三人はそれぞれに来るべき戦いへの覚悟を固めていった。きっと、みんなとなら乗り越えられる。磐余彦はそう信じることができた。




