二十話 国見丘の戦い
磐余彦率いる東征軍は忍坂を統治下に置くと、そこに長く留まることなく、さらに西へと軍を進めた。
進軍の途上では、通過する村や集落ごとに使者を送り、これより東征軍の統治下に入ること、そして抵抗さえしなければこれまでの暮らしを妨げるつもりはないことを、繰り返し熱心に伝えて回った。
忍坂で軍規を破った兵を磐余彦自らが処刑したことも、大きな効果を上げていた。略奪や暴行を働けば、身分や立場に関係なく処罰される。その事実は瞬く間に全軍へ広まり、それ以降、東征軍の中から軍規を破る者は現れなかった。
やがて軍勢は国見丘の麓まで到達し、そこで進軍の脚を止めた。
国見丘の周囲は、南を除いた三方に平野が広がり、北東には大小の丘が点在している。東征軍はその地形を見渡せる国見丘北側の平野に陣を敷いた。
陣を構えた後も、これまでと方針は変わらない。周辺の村や集落へ人を送り、東征軍の統治下に入ったこと、抵抗しなければ生活を脅かすことはないことを、一つ一つ丁寧に説明して回った。
もっとも、この国見丘一帯は、これまで東征軍を苦しめてきた八十建の本拠とも呼べる土地であった。
すぐ南には深い山々が連なり、敵が攻め寄せれば山中へ身を隠すことができる。安定して水を運ぶ川にも恵まれ、その水を利用した田は豊かに実っていた。
三輪山周辺に広がる盆地の最南端に位置しながら、その南側には天然の要害ともいえる山々が壁のように連なっている。
食を支える豊かな土地と、敵を阻む山々。その双方を備えた国見丘は、八十建にとって容易には手放すことのできない、守りに適した重要な地であった。
「では、俺は日が落ちたら向こうの丘に向かいます」
日臣が北東に見える丘へ目を向けると、磐余彦は静かに頷いた。
「頼んだよ、日臣」
「私も日臣と共に向かいます。合図の件はよろしく頼みます」
続いて椎根津彦が告げる。
「わかっているよ。椎根津彦も頼んだよ」
「はっ」
日臣と椎根津彦は揃って返事をした。
その傍らでは、大久米が何も言わずに立っていた。だが、その顔には二人が留守の間はこちらに任せろとはっきり書いてある。
そんな中、浦が少し困ったように首を傾げた。
「ところで、舞えって言われても何の舞をしたらいいのかしら?」
「何でも良いのですが、今回は神楽というよりは舞楽に近い方がふさわしいかと。歌を歌わせる策でもありますので、その時に合った舞をされては?」
椎根津彦がもっともらしく答えると、竹は眉を寄せた。
「適当すぎでしょ……合わせろって言われても舞楽……んー」
腕を組んで考え込む竹に、日臣が思いついたように口を挟む。
「舞剣とかもいいかもな。得物を持っていたら敵襲にも即応出来るじゃねーか」
「舞剣かぁ……浦、ちょっと打ち合わせするわよ」
「うん、組み合わせどうしよう」
二人はさっそく顔を寄せ合い、どの武器を使い、どのように舞うかを相談し始めた。
「即興で申し訳ないが、竹と浦も頼んだよ」
磐余彦が声をかけると、双子は相談を続けながら頷いた。
その間に大久米は静かにその場を離れ、宴のために用意する舞台の設営を手伝うべく歩いていった。
日が落ちると、日臣と椎根津彦が率いる東征軍の主力部隊は北東の丘へ移動し、その姿を闇の中へ隠した。一方、陣に残った磐余彦と大久米のもとには、久米部を中心とした兵たちが集められていた。
東征軍の本陣前には大きな舞台が設けられ、その周囲には何本もの槍や剣が地面へ突き立てられていたほか、二張りの弓と大量の矢も用意されていた。さらに舞台を中心として十二か所に篝火が置かれ、どの方角からでも舞台を眺められるようになっている。
やがて久米部の兵たちは舞台を囲むように座り込み、宴を始めた。豊富な食事が惜しげもなく振る舞われ、酒も次々と杯へ注がれていく。兵たちは大声を上げながら宴を楽しみ、ほどなく故郷である日向の歌を声高らかに歌い始めた。
その歌声に合わせるように、竹と浦が舞台へ姿を現した。竹は長い槍を手にし、浦は片手に剣、もう片方には短剣を握っている。
二人は舞台の中央で向かい合うと、久米部の歌に合わせて舞剣を始めた。竹は力強く踏み込みながら槍を大きく振るい、浦はその穂先をかわすように身を翻しながら、剣と短剣を優雅に舞わせていく。
竹の勇壮な槍さばきと、浦の軽やかな二振りの刃。それぞれ異なる個性を持つ二人の舞は、互いにぶつかり合う戦いそのものを表していた。
その迫力に久米部の兵たちはいっそう沸き立ち、歌声もさらに大きくなる。篝火に照らされた双子の舞を囲みながら、兵たちは夜の宴を存分に楽しんでいた。
八十建の者たちは、忍坂から国見丘に至るまで、攻撃の機会をうかがいながら東征軍を追跡していた。平地へ出れば自分たちが不利になることは分かっているため、山中に身を潜め、東征軍が再び山へ踏み込んでくる時を待ち続けていたのである。
しかし、これまでの戦いで東征軍も学んでいた。もはや八十建を追って山へ入ろうとはせず、平野を進みながら次々と村や集落を統治下に置いていく。その様子を山から眺めることしかできない八十建たちは、自分たちの土地が戦わずして奪われていくことに、焦りと苛立ちを募らせていた。
「二日前に通過した村は我らの村だったんだ。今では大倭壱国の旗を立ててやがる」
「俺の村も奴らに取られてしまった」
「戦わずして土地を奪われている」
そんな彼らの目に、国見丘の麓で宴を始めた東征軍の姿が映った。
「あいつら、ついに宴会まで始めたぞ」
「もう勝った気でいるのか?」
「支配者気分かよ」
遠くからでも、久米部の歌声や騒ぎ声が聞こえてくる。東征軍は自分たちの存在など忘れたかのように宴を楽しんでいた。
「おい、今こそ機会ではないか? 敵の隙を突けるぞ」
「待て。宴会しているからといって、平地に出向いてはこちらが不利だ」
「しかし、奴らはもう山に入ってこないではないか」
「この機会はそうそうないぞ。隠れて俺らの姿を見せてこなかった効果が出ているんだ」
「しかし、危険がある以上は、もうしばらく様子を見るべきだ」
「何を言うか!」
慎重論を遮るように、一人の長が声を荒らげた。
「今日一日待てば、明日はまた一つ村が奴らになびくぞ。山を守っているうちに、守る民がいなくなる」
その言葉に、集まっていた者たちが黙り込む。
山に留まっていれば自分たちは安全かもしれない。だが、その間にも麓の村々は次々と東征軍の統治を受け入れていく。このままでは、戦う相手ではなく、守るべき土地そのものを失いかねなかった。
「もう言葉はよい。我らは奴らを襲い、村を取り戻す」
「俺もだ」
「儂も行こう」
一人が決断すると、それまで迷っていた長たちも次々と攻撃への参加を表明した。
ついに八十建は身を隠すことをやめた。
山中から次々と武装した者たちが姿を現し、国見丘の麓で宴を続ける東征軍へ向かって進み始めた。
東征軍本隊では、なおも久米部の歌声が響き、その中央では竹と浦の舞剣が続いていた。
その最中、大久米が不意に立ち上がると、大きく足を上げ、力強く地面を踏み鳴らした。
その音を合図に、久米部の歌声がぴたりと止まった。兵たちは手にしていた皿を投げ捨て、一斉に立ち上がる。宴をしていたはずなのに、そこには酒の匂いがなかった。彼らが口にしていたのは酒ではなく、水だったのである。
しかも、兵たちのすぐ手の届くところには、あらかじめ盾と槍が置かれていた。久米部の兵士たちは迷うことなくそれらを手に取り、舞台を囲んでいた配置からそのまま外側へと向きを変える。瞬く間に、舞台を中心とした全方位を守る円陣が完成した。
さらに円陣の外側には、いくつもの篝火が用意されていた。次々と火が灯されていく中、ただ一方だけ、火のつかない場所が残される。敵が迫ってくる方角だった。そこだけは兵たちの目を闇に慣らし、近づく敵に警戒し、篝火を灯せなかったのである。
磐余彦は舞台へ上がると、竹と浦の後ろに立ち、暗闇の向こうへ目を向けた。
「かかったな」
「さすが大久米、気が付くのが私より早いわ」
浦が感心したように呟くと、竹も闇を見据えたまま小さく息を吐いた。
「どういう神経しているのでしょうね」
外周の篝火が次々と灯る一方、ただ一か所だけ火のつかない方角がある。それを確認した椎根津彦と日臣は、敵が南から迫っていることを察し、即座に行動を開始した。
「私の部隊はこのまま西へ回り、そのまま南へ向かって敵の退路を塞ぎます。日臣には申し訳ありませんが、全力で東へ回り込んでください」
「ふん、お前を走らせても行軍の邪魔になるだけだからな。任せろ」
日臣はそう言い残すと、すぐさま自らの部隊を率いて東へ駆け出した。椎根津彦も兵を西へと動かし、東征軍の主力部隊は八十建を包囲するため、一斉に動き始めた。
八十建は東征軍の前に姿を現すより早く、その接近を察知されていた。大久米は陣の南側へ進み出ると、盾と槍を手に敵が現れるのを静かに待ち構える。その隣で闇の向こうを見据えていた浦が、わずかに目を細めた。
「きたわ」
「磐余彦様、油断されぬよう」
「わかってる」
竹も鋭い視線を南へ向けたまま注意を促し、磐余彦が頷いた直後、八十建の一団が国見丘から一気に山を駆け下り、東征軍本隊の南側へ襲いかかってきた。南側には篝火がほとんどなく、辺りは深い闇に包まれている。その暗闇の中で久米部と八十建が激突し、槍と盾がぶつかり合う激しい近接戦闘が始まった。
想定していた以上に視界が悪く、久米部の防衛線の隙間を突破して舞台へ迫る八十建の兵も現れたが、舞台上では竹と浦がすでに槍と剣を置き、弓へ持ち替えていた。二人は舞台を照らす篝火の明かりに浮かび上がった敵影を見つけると、迷いなく弦を引き、次々と矢を放って迫る兵を射倒していく。
「見事……よく当てるね……」
磐余彦は感心しながら自分も弓を構えて矢を放ったが、その矢は敵の横を虚しく通り過ぎ、そのまま闇の中へ消えていった。
「たくさん教えたでしょ、どうして上達していないんですか!」
「磐余彦様は武芸の上達はよくなかったからね~」
竹と浦はそう言いながらも敵から目を離さず、次の矢をつがえていた。口調こそいつも通りだったが、その表情は鋭く、視線は南の闇へ向けられたままだった。
「くそー、今度こそ当ててみせるぞ」
「まったく、私達がいないと磐余彦様は命がいくつあっても足りませんよ」
「大丈夫ですよ。ちゃんとお守りいたしますわ」
磐余彦が悔しそうに再び弓を引く横で、竹は呆れたように言い、浦は微笑みながらそう続けると、再び弦を放った。
大久米は篝火から燃え盛る薪を数本引き抜くと、次々に敵のいる南の方角へと投げ込んだ。それを見た久米部の兵たちもすぐに倣い、火のついた薪を暗闇へ投げ入れていく。
散らばった炎が地面を照らし、それまで闇に紛れていた八十建の姿が次々と浮かび上がった。敵が南側からしか攻めてきていないことを確認すると、久米部は全方位を警戒していた円陣を解き、兵力を一斉に南へ振り向けた。
そこで八十建たちも、ようやく自分たちが置かれた状況を悟った。東征軍は宴に浮かれて油断していたのではない。最初から自分たちを山から誘い出し、この平地で迎え撃つつもりだったのだ。
さらに久米部の後方から待機していた兵たちが続々と前線へ加わり、戦況は急速に八十建へ不利となっていった。奇襲によって一気に本陣を崩す目論見が潰えたと判断した八十建たちは、ついに攻撃を諦め、国見丘へ向けて撤退を開始した。
八十建たちは久米部との戦いを切り上げて国見丘へと退き、そのまま南へ抜けてさらに奥の山々へ逃げ込もうとした。だが、その進路に突然激しい矢の雨が降り注いだ。待ち構えていたのは椎根津彦の部隊であり、次々と放たれる矢に行く手を塞がれた八十建たちは、南への撤退を断念して再び国見丘へと押し戻されていった。
国見丘は南側だけが山々と繋がり、それ以外の三方には平野が広がっている。東征軍はその地形を利用し、八十建が山中へ逃げ込む唯一の退路を先回りして塞いでいたのである。
八十建たちはひとまず国見丘の山頂付近まで退き、今度は東側の平野へ下りて包囲から抜け出そうとしたが、その東からも兵の一団が姿を現した。北東へ迂回していた日臣の部隊であり、そのまま大きく東側へ回り込んで、八十建の逃走路を塞ぐ位置まで進んでいたのだ。
さらに西側には椎根津彦の部隊が展開し、北からは大久米率いる久米部が迫っていた。こうして八十建は完全に国見丘へ封じ込められた。
夜が明け、東の空から朝日が昇り始める頃には東征軍の包囲網は次第に狭まり、逃げ場を失った八十建たちは各所で抵抗を続けたものの、四方から押し寄せる兵を前に次々と討たれ、その数を減らしていった。
やがて残されたのは、山頂付近へ追い詰められた者たちだけとなった。
その様子を見ていた磐余彦が、静かに口を開いた。
「ここらでいいよ」
すぐに日臣が声を張り上げた。
「はっ! 包囲態勢のまま攻撃をやめい! 警戒を解くなよ!」
命令が次々と伝わり、それまで八十建へ向けられていた刃と矢が止まった。しかし東征軍の兵たちは武器を下ろさず、いつでも戦える態勢を保ったまま山頂を囲み続けた。
磐余彦は山上に残された八十建を見つめ、それから椎根津彦と大久米へ顔を向けた。
「椎根津彦、大久米、八十建に降伏を勧告してくれ」
「承知いたしました」
椎根津彦が答えると、大久米も静かに頷いた。
椎根津彦は使者として、大久米を護衛につけて八十建のもとへ向かった。そこで、抵抗をやめて降伏するのであれば残された者たちの命を奪わないこと、八十建が守ろうとしてきた村々についても略奪や破壊を行わず、これまで東征軍の統治下に入った土地と同じように公平に治めること、そして降伏した者については、これまで刃を向けたことを理由に罰することなく全て許すという磐余彦の意思を伝えた。
八十建の長たちはしばらく言葉を交わした。もはや山頂を完全に囲まれ、逃げ道はなく、それでも最後まで戦うべきだという声もあったが、このまま戦えば残された者たちまで失われることは明らかだった。
やがて彼らは武器を置き、東征軍への降伏を受け入れた。
こうして国見丘の戦いは終わった。
この夜、八十建を誘い出すために久米部の兵たちが歌った歌は、後の世に「久米歌」として語り継がれ、その歌に合わせて竹と浦が武器を手に舞った舞もまた、やがて「久米舞」として伝承の中にその名を残していくことになるのだった。




