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泣き虫皇子は仲間を集めて初代天皇になる!―神代の終焉と神武東征―  作者: 月見
一章 神武

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五話 山の黒い獣討伐

 西暦二百三十八年。那岐が狭野たちと暮らし始めてから、二年の月日が流れていた。竹と浦は十歳、椎根津彦は九歳、狭野、日臣、大久米は八歳になっていた。


 ある日、子供たちが座学を受けている最中、村長が那岐を訪ねてきた。那岐は子供たちに自習をしているよう言いつけ、村長を別室へ案内して話を聞くことにした。


 村長の相談は、近頃里の周辺に現れる熊についてだった。熊は田畑へ入り込んでは農作物を荒らすだけでなく、ついには人まで襲うようになり、すでに数人の犠牲者が出ているという。一度人を襲った熊は、この先も里へ現れて人を襲う可能性が高い。村人たちだけでは対処しきれず、困り果てた末に那岐へ相談に来たのである。


 事情を聞いた那岐は、熊が通りそうな場所へ仕掛け罠を設置し、それと並行して村の若者の中から山に慣れた者を集め、複数人で捜索する方法を提案した。村長もその方針に賛同したが、那岐はすぐに熊を仕留められるとは考えていなかった。


 熊は人の気配や周囲の異変に敏感であり、危険を察すれば山深くへ姿を隠してしまう。罠を警戒することもあるため、焦って追い回せばかえって見つけることが難しくなる。


「少し時間がかかるかもしれないね。急ぎたい気持ちは分かるけれど、こちらが慌てると余計に危険だから、慎重にやった方がいいよ」


 那岐はそう村長へ説明し、まずは村人たちが熊と不用意に遭遇しないよう注意を促しながら、準備を進めることにした。




 その話を盗み聞きしていた子供たちは、人を襲う熊への恐怖を感じながらも、このまま放っておくことはできないと考えていた。


 最初に言い出したのは狭野だった。


「人を襲っている悪い熊を退治しよう!」


 しかし、日臣はすぐに反対した。


「危険すぎます。熊はそんな簡単に退治できるような獣ではありません」


「でも、村の人たちに犠牲者も出ているんだよ」


 狭野が言うと、浦もすぐに同調する。


「そうよねー。熊退治しようよ」


「浦、あなたまで何言っているのよ!」


 慌てて竹が止めに入った。


 椎根津彦も慎重な意見を口にする。


「熊の体格は今の私たちとは違いすぎます。まともに戦えば危険ですよ」


「でも、那岐様は急いで退治しようとは考えていないみたいだよ。それまでに犠牲者が増えるんじゃないかなぁ」


 狭野の言葉に、一同は黙り込んだ。


 那岐が何も考えていないとは誰も思っていない。罠を仕掛け、村の若者たちを集めて慎重に捜索するつもりなのだろう。しかし、それには時間がかかる。その間にも熊が里へ現れれば、さらに犠牲者が出るかもしれなかった。


 そう考えると、狭野の言葉にも一理あるように思えてしまう。


「大人たちは慎重すぎて動きが遅いんだよ」


 浦が言うと、竹は眉をひそめた。


「那岐様には那岐様のお考えがあってのことでしょ」


「でも、その間に犠牲者が増えるかもしれないよ?」


「しかし若様、いくらなんでも危険すぎます」


 なおも日臣は反対したが、浦が横から面白そうに顔を覗き込んだ。


「何? 怖いの? いいのよ、陰に隠れていても。退治は私に任せてもー」


「は? 怖くねーし! 熊くらい俺だけで退治してやらー!」


 あっさり挑発に乗った日臣に、竹が呆れた顔を向ける。


「浦、煽らないの。私たちだって熊を退治したことなんてないんだから」


 その言葉を聞いた狭野が、今度は竹へ視線を向けた。


「竹も大したことないね。普段あれだけ威張っているのに、一番臆病なんだね」


「何言っているの! 怖いとか、そんなこと言ってないし!」


 竹まで見事に挑発へ乗ってしまった。


「じゃあ、怖くないなら協力してよ。日臣も竹も」


「…………」


 二人とも返す言葉を失った。


 その様子を見て、浦が満足そうに頷く。


「決まりだね。任せて、熊なんて簡単よ!」


「いや、待て。やるとしても、どうやって見つけて退治するんだ?」


 勢いだけで話が進んでいくことに不安を覚えた日臣が尋ねると、椎根津彦は少し考えてから口を開いた。


「見つける方法はまだ分かりませんが、まず役割を決めておきましょう。それと、熊退治のことを那岐様に知られたら絶対に止められるはずです」


 そこで一度言葉を切り、皆の顔を見回す。


「だから最初に考えるべきなのは、どうやって那岐様の目を誤魔化すかですね」


 狭野は感心したように椎根津彦を見つめた。


 こういう時、椎根津彦は本当に頼りになるのであった。




 翌日、子供たちは全員で武芸の鍛錬をしたいと那岐に申し出た。那岐は普段、武芸の稽古には滅多に顔を出さない。それを利用して、子供たちは熊を探すために抜け出すつもりだったのである。


 ただ、那岐は子供たちの様子がいつもと違うことに気づいていた。妙に落ち着きがなく、何かを隠しているように見える。


 何か変だな――。


 そう感じながらも、その場では何も言わず、後から様子を見に行くことにした。


 その頃、狭野たちは熊が出没したという山へ到着していた。周囲には木々が生い茂り、人の姿はない。


「着いたね。椎根津彦、策をみんなにもう一度伝えてくれ」


 狭野に言われ、椎根津彦は一同を見回した。


「では、手筈通りにお願いします。日臣と大久米は槍を持って熊に対応してください。ただし、必ず槍の間合いを守ること。正面から戦うのは禁止です」


「わかった」


 日臣が答え、大久米も黙って頷いた。


「竹は弓と槍の両方で対応してください。最初は弓を使い、必要になった時だけ槍で近づいてください。浦は近づくと危険なので、木の上から弓で援護をお願いします」


「承知した」


「わかったぁ」


 竹は真面目に頷き、浦はいつもの調子で返事をした。


「若様と私は、熊を見つけたら木に登って弓で援護します」


「わかったぞ!」


 狭野は元気よく答えたが、日臣は周囲を見回して眉をひそめた。


「それで、どうやって熊を見つけるんだ?」


「まずは糞や足跡を探しましょう。熊の近くまで行けば、おそらく向こうから逃げることはないと思います」


「なんで?」


 浦が首を傾げる。


「村の人たちが探しに来た時には、熊は逃げているって聞いたよ?」


「それは相手が大人の男だからです。熊も危険だと感じて避けているのでしょう。でも、私たちは違います」


 椎根津彦は少し間を置いて、全員の顔を見た。


「熊から見れば、私たちは小さな子供です。危険な相手ではなく、餌の方から近づいてきたように見えるかもしれません。だから、こちらを見つければ迷わず襲ってくるはずです」


 その言葉を聞き、日臣は黙って槍を握る手に力を込めた。


 前に出て熊を受け止める役目は、自分と大久米である。つまり熊が襲ってきた時、真っ先に狙われる可能性が高い。


 隣を見ると、大久米は普段と変わらない表情で、ただ静かに頷いていた。




 程なくして、浦が地面に残された熊の足跡を見つけた。足跡は大きく、子供たちの手のひらの四倍以上はありそうだった。一行に緊張が走る中、その足跡を追って山の奥へ進んでいくと、今度は熊のものと思われる糞を見つけた。まだ新しい。間違いなく熊が近くにいる。そう感じながら慎重に先へ進んでいくと、木々の向こうについに一頭の熊が姿を現した。


 その瞬間、椎根津彦は熊との位置関係に気づいた。熊がいるのは風下だった。こちらの臭いが風に乗って先に届き、熊はすでに子供たちの存在に気づいて待ち構えていたのだ。


「風下に熊がいる! 先にこちらへ気づいて待ち構えていたんだ。みんな、配置について! 急いで!」


 椎根津彦の声に、一行は一斉に動き出した。浦が素早く近くの木へ登り、枝の上から熊へ向けて矢を放つ。続いて竹も弓を構え、狙いを定めて矢を射た。


 二本の矢は熊の身体を捉えたものの、まだ距離があったこともあり、深く傷を負わせることはできなかった。熊はわずかに身を震わせただけで、その場に立ったまま子供たちを睨みつけていた。


 熊は下で待ち構えていた日臣と大久米をめがけて突進した。二人は即座に左右へ分かれ、木を盾にしてその突進をかわす。


 熊は日臣に狙いを定めた。木を回り込み、日臣と目が合ったその瞬間、背後から大久米の槍が熊の背中へ深々と突き刺さった。


 熊が苦痛の声を上げる。怒りに駆られた熊はすぐさま大久米へ向き直った。


「今だ! 熊の頭を狙え!」


 椎根津彦の声と同時に、一斉に矢が放たれた。ほとんどの矢は熊の硬い頭蓋に弾かれたが、その中の一本、竹の放った矢だけが熊の右目へ深く突き刺さった。


 熊が激しく頭を振って苦しむ。その隙を逃さず、背後へ回った日臣が槍を構え、熊の体へ深々と突き立てた。


 そして大久米も好機と見るや、槍を握り締めて正面から踏み込んだ。


「うおおおおおっ!」


 普段は滅多に声を上げない大久米が雄叫びを上げ、熊の胸へ向かって渾身の力で槍を突き込んだ。


 これだけの攻撃を受けても、熊はまだ倒れなかった。さすがに動きは鈍くなっているものの、なおも怒りに任せて暴れ続けている。


 狭野と椎根津彦も木の上から必死に矢を放った。しかし何本射かけても、熊の動きを完全に止めることはできない。


 熊は目の前にいる大久米へ狙いを定め、巨大な前脚を振り上げた。鋭い爪が大久米へ襲いかかろうとした、その時だった。


 木の上にいた竹が飛び降りた。


「はあっ!」


 落下の勢いをそのまま乗せ、長槍を熊の首へ突き立てる。


 それを見た浦もすぐに動いた。熊との間合いを一気に詰め、剣を両手で握って首筋へ振り抜いた。


挿絵(By みてみん)


 熊の巨体が大きく揺れた。


 ついにその動きが目に見えて鈍くなる。


「今だ、仕留めるぞ!」


 日臣は叫ぶと、深々と刺さったまま抜けなくなった槍を諦め、すぐさま腰の剣を抜いた。


 そして熊の胸へ飛び込み、心臓を狙って剣を深く突き刺した。


 熊の体がびくりと震える。


 それでもしばらく立ち続けていた巨体は、やがて力を失い、地面へと崩れ落ちた。


 今度こそ、熊は息絶えた。


「やったーーー! やったぞーーー!」


 狭野が両手を上げて歓声をあげた。


 その一方で、日臣と大久米はその場に座り込んでいた。熊が倒れたことでようやく緊張の糸が切れたのだろう。立ち上がる力も残っていないらしく、二人とも地面に腰を下ろしたまま動こうとしなかった。


「どう、狭野。私にかかればこんなものよ。先日の無礼は訂正しなさいよね!」


 得意げに胸を張る竹へ、狭野は満面の笑みを向けた。


「うんうん! 竹はすごいよ! 強いよ!」


「…………」


 あまりにも素直に、しかも心の底から褒められたものだから、竹は思わず頬を赤らめた。


 褒めてもらった。


 ただそれだけなのに、どうしてこんなにも嬉しいのだろう。竹自身にも、その理由はまだよく分からなかった。


 そんな姉の変化を浦が見逃すはずもない。


「なに竹? ほっぺた赤いわよ? 狭野に惚れちゃったのかしら?」


「なっ……馬鹿なことを言わないで! そんなわけないでしょ!!!」


 竹が真っ赤になって言い返す。その様子を横目に見ながら、椎根津彦は倒れている熊へ視線を向けた。


「それはそうと、この熊をどうしますか? 持ち帰ります?」


「さすがに重すぎるから運べないわよ」


 浦が熊の巨体を見ながら首を振ると、座り込んだままの日臣が答えた。


「なら、首だけ持ち帰ればよいのでは? 討伐した証にもなるし」


「そうだね。これで村の人達も安心するはずだよ!」


 狭野が嬉しそうに頷く。


 すると日臣は、当然のことのように言った。


「では若様、首をお切りください」


「え? 私が?」


「そうです。大将が最後は締めてもらわないといけません」


 狭野は倒れた熊と、自分の持っている剣を交互に見た。それから覚悟を決めるように大きく頷いた。


「わかった。わかったぞ。首を斬るんだな。えい!」


 狭野は勢いよく剣を振り下ろした。


 しかし、八歳の狭野の力では熊の太い首を簡単に斬り落とせるはずもない。剣は食い込んだものの、それだけで止まってしまった。


「うぅぅ……!」


 狭野は何度も剣を振り上げては熊の首へ叩きつけるが、なかなか斬り落とせない。


 本来なら日臣と大久米も手伝いたいところだったが、二人とも先ほどの戦いで完全に力を使い果たしていた。腰が抜けたように座り込んだまま立ち上がれず、できることといえば声をかけるくらいである。


「若様、しっかり!」


 日臣が声を張り上げる。


 すると普段ほとんど口を開かない大久米まで、狭野へ向かって懸命に声を出した。


「わ、わか……がんばれ」


「うん! がんばる!」


 狭野は二人の声援を受けながら、再び剣を振り上げた。


 見かねた竹と浦が狭野の両側に寄り添った。


「仕方ないわねー」


 二人は狭野と一緒に剣を握り、力を合わせて振り下ろす。何度か繰り返した末、ようやく熊の首が地面へ落ちた。


「はぁ、はぁ……よし! これでちゃんと討伐したね!」


 息を切らしながら狭野が声を上げると、一行から歓声が湧き起こった。自分たちだけで熊を倒した。その喜びに、誰もが緊張から解放されていた。


 だが、その歓声は長く続かなかった。


 不意に、森の奥から何かの気配がした。


「……え?」


 誰かが声を漏らした。


 先ほど熊が現れた方角から、さらに三頭の熊が姿を現したのである。


 中央にいるのは、先ほど倒した熊よりもはるかに巨大な熊だった。その左右には、それより一回り小さな二頭の熊が付き従っている。


 大きな母熊と、二頭の若い熊だった。


 その姿を見た瞬間、子供たちは理解してしまった。自分たちが全員で必死になって倒した熊は、成獣ですらなかったのだ。


 子供たちには十分すぎるほど巨大に見えていた。しかし実際には、まだ成長しきっていない一頭を、六人がかりでようやく仕留めただけだった。


 そして、人を襲っていた熊は一頭だけではなかった。


「そんな……」


 狭野の顔から喜びが消えた。


 もう戦える状態ではなかった。日臣と大久米は先ほどの戦いで力を使い果たし、まだ地面に座り込んだまま立ち上がることさえできない。竹と浦も激しく息を切らし、狭野と椎根津彦にも弓を満足に引くだけの余力は残されていなかった。


 椎根津彦は三頭の熊を見つめながら、自分の考えの浅さを思い知らされていた。


 なぜ、熊が一頭だけだと思い込んでしまったのか。足跡を見つけた。糞も見つけた。そして一頭の熊が現れた。だから、それが人を襲っていた熊なのだと決めつけてしまった。他にもいる可能性を、まったく考えていなかった。


 策を考える役目を引き受けながら、自分はそこまで考えられていなかった。そして今はもう、新しい策を考えたところで、それを実行するだけの力が誰にも残っていない。


 倒された熊から流れる血の臭いと、先ほどまでの騒ぎに刺激されたのか、三頭の熊が低く唸り声を上げた。巨大な母熊が前へ出る。続いて二頭の若い熊も動き出した。


「来る……!」


 椎根津彦が叫ぶ。


 次の瞬間、興奮した三頭の熊が、一斉に狭野たちへ襲い掛かってきた。


 その時、先頭を走っていた二頭の熊の首が、ほとんど同時に宙を舞った。何が起きたのか理解する間もなく、首を失って倒れた熊の上へ、一人の少年が上空から軽やかに降り立つ。


 伊邪那岐であった。


 突然現れた那岐の姿に、残った一頭の熊は身を翻して逃げ出した。だが、那岐は追いかけることすらしない。静かに片手を振ると、その動きに合わせるように青い閃光が走り、逃げようとしていた熊の首を一瞬で斬り落とした。


 ほんのわずかな間の出来事だった。三頭もの熊を、那岐は瞬く間に仕留めてしまったのである。狭野たちは言葉を失い、その場に立ち尽くしていた。


 伊邪那岐については、これまでにも様々な噂や伝承めいた話を聞いたことがある。不老長寿の身であること、不可思議な妖術を操ること、そして遥か昔から倭の各地で国造りに関わってきたことも知っていた。


 けれど、普段の那岐は穏やかで、田を耕し、料理を作り、子供たちに文字や算術を教えているだけの優しい少年にしか見えない。


 そのため狭野たちは、語り継がれている話の中には大げさなものも混じっているのだろうと、どこかで思っていた。だが今、その認識は完全に覆された。目の前にいる伊邪那岐は、本当に大倭壱国の礎を築き、長い年月を生き続けてきた存在なのだ。


 普段は決して見せることのない圧倒的な力を目の当たりにして、狭野たちは初めて、いつも自分たちの傍にいる那岐が、後世に神とまで呼ばれるような存在なのだと実感した。


 珍しく、那岐の顔は硬かった。


「……何か、言うことはあるかい?」


挿絵(By みてみん)


 静かな声だった。怒鳴っているわけでもない。それなのに、子供たちは誰一人として口を開けなかった。


 まずい――。


 一行の間に重い沈黙が落ちる。とりわけ竹と浦にとって、那岐は自分たちが仕える主でもある。二人は普段の威勢が嘘のように体を硬くし、黙って俯いていた。


 やがて、その沈黙を破ったのは狭野だった。


「ごめんなさい、那岐様。私が言い出したんです。村の人たちを助けたくて……これ以上、犠牲が出たら嫌だと思って、私が無理を言いました。みんなは私を見捨てられなくて、協力してくれただけなんです」


 狭野は逃げずに那岐を見上げた。


 那岐は何も答えず、しばらく子供たちを見つめていた。狭野だけではない。日臣、大久米、椎根津彦、竹、浦へと順に視線を向けていく。


 誰も顔を上げられなかった。


 やがて那岐は、小さくため息をついた。


「……後で、全員に罰を与えます。いいですね」


「……はい」


 今度は全員の声が、見事なくらい小さく揃った。


 那岐はそんな子供たちを見回したあと、倒れている熊へ視線を移した。


「それはそれとして、熊を討伐したことは村へ報告しないといけません。せっかくここまで来たのですから、ちゃんと持ち帰りましょう」


 子供たちが恐る恐る顔を上げる。


「みんな、槍に熊の首を刺して、里まで運びますよ」


「はい!」


 先ほどとはまるで違う、元気のいい返事が返ってきた。


 那岐は思わず苦笑した。本当に、手の焼ける子供たちだった。


 こうして狭野たちは四頭の熊の首を槍に掛け、那岐とともに里へ戻った。村人たちは熊が討ち取られたことを知ると大いに喜び、子供たちは歓声に迎えられることになった。




 後日、子供たちはそれぞれ自分の苦手とする分野を、那岐から重点的にやらされることになった。


 狭野と大久米は、数日間ひたすら座学である。文字の読み書きから木簡の内容まで、逃げることは許されなかった。


「日臣、二人を見ていてくれるかい。分からないところがあれば、君が教えてあげてね」


「はい、那岐様」


 日臣には狭野と大久米の監視だけでなく、木簡を使って直接手ほどきをする役目まで与えられた。さらに、その日の進み具合を那岐へ報告することまで義務づけられている。


「若様、そこ違います」


「えぇ……また?」


「またです。さっき教えたばかりでしょう」


 横では大久米が黙々と木簡に向かっていた。普段は何を命じられても黙ってこなす大久米だったが、座学だけはどうにも苦手らしく、眉間には深い皺が寄っていた。


 一方、竹と浦に与えられたのは裁縫だった。それも少し縫えば終わりではない。数着分をきちんと仕上げるよう命じられている。


「痛っ……」


「浦、また指を刺したの?」


「竹だって指、包帯だらけじゃない」


「私はあなたより少ないわ」


「そういう問題じゃないでしょ……」


 二人の指は日に日に包帯だらけになっていった。それでも那岐から課された枚数が終わるまでは、針を置くことは許されなかった。


 ただ一人、椎根津彦だけは別だった。


 那岐は椎根津彦を連れ出し、二人だけで弓の稽古を行っていた。


「もう一度だよ。急いで射たなくていい。よく見て、狙ってから放ちなさい」


「はい」


 椎根津彦は弓を引き、狙いを定める。放たれた矢は的の端へ突き刺さった。


「……まだ駄目です」


「最初から上手くできる人なんていないよ。もう一度やろうか」


 那岐は矢を拾いながら、穏やかな口調のまま続けた。


「椎根津彦。熊を相手にした時、みんなに役目を決めたのは君だったね」


「……はい」


「それ自体は悪いことではないよ。誰かが考えて、みんなを動かさなければならない時もあるからね」


 椎根津彦は黙って那岐の話を聞いていた。


「でもね、策を出すということは、その策に従った人たちの命にも関わるんだ」


 椎根津彦の手が止まった。


「今回、熊が一頭だけだと思い込んでしまいました」


「うん」


「風向きには途中で気づけました。でも、熊が複数いる可能性まで考えられなかった。もし那岐様が来てくれなかったら……」


 その先を椎根津彦は言えなかった。


 那岐は責めることなく、静かに隣へ立った。


「全部を予想することなんて、誰にもできないよ」


「でも……」


「だから考えるんだ。自分の考えが間違っていた時に、どう逃げるのか。予想していたことと違った時に、どう立て直すのか。策というのはね、うまくいくことだけを考えるものじゃないんだよ」


 椎根津彦はゆっくり顔を上げた。


「失敗した時のことまで考える……」


「そう。君は頭がよく回る。だから、みんなも君の話を聞いたのでしょう。でも、人に頼られるようになればなるほど、その言葉は重くなるんだ」


 那岐は再び一本の矢を椎根津彦へ渡した。


「怖くなったかい?」


 椎根津彦は矢を受け取り、しばらく見つめた。


「……少し」


「それでいいと思うよ。怖さを知っている人のほうが、きっと慎重に考えられるからね」


 椎根津彦は再び弓を構えた。熊を前にした時、自分の判断一つで仲間たちが動いた。その結果、全員が死にかけた。


 その事実は重かった。けれど、那岐は策を考えるなとは言わなかった。むしろ、その役目の重さを知ったうえで、これからも考え続けるよう教えてくれている。椎根津彦にとって、それがありがたかった。


 二度と同じ不覚を取りたくない。次に誰かから判断を求められた時には、もっと多くを見て、もっと深く考えられるようになりたい。


 そう思えば、那岐との稽古も話も苦にはならなかった。むしろ椎根津彦には、それが救いにすら感じられていた。


※本作は『【新説古事記】邪馬台国叙事詩―神代建国譚―』の神武編を、神武天皇を主人公として再構成・再執筆した独立作品です。本作単独でお読みいただけます。

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