四話 晴耕雨読
西暦二百三十八年。那岐が狭野たち子供と暮らし始めてから、すでに二年の月日が流れていた。
竹と浦は十歳、椎根津彦は九歳、狭野と日臣、大久米は八歳になっている。
もっとも、八歳になった狭野に、これといって目を見張るような成長があったわけではない。強いて挙げるなら、おねしょをしなくなったことと、何かあるたびに泣いて那岐の後ろへ隠れる回数が少し減ったくらいだった。
朝は那岐と竹が一番早く起き、二人で朝食の準備を始める。日臣は薪を運んだり火の番をしたりし、大久米は家の外で黙々と薪を割っていた。椎根津彦は朝から木簡を広げ、一人で読み進めている。
そんな中、狭野だけは相変わらずなかなか起きようとしない。
しかも、その隣では浦まで気持ちよさそうに眠っていた。夜中のうちに自分の寝床を抜け出し、いつの間にか狭野の横へ潜り込んでいたのである。
朝食の支度が整う頃になると、竹が二人を起こしにやってきた。
「あなた達、いつまで寝ているの。起きなさい!」
布団をめくられても、狭野と浦は眠そうに身を丸め、なかなか起きようとしない。
「まだ眠いよぉ……」
「もうちょっとだけ……」
「駄目。朝ご飯が冷めるでしょう。ほら、起きる!」
竹は二人の言い分など聞くつもりもなく、いつものように強引に起こしにかかった。
こうして狭野と浦を叩き起こすことも、いつの間にか竹の毎朝の日課となっていた。
朝食の最中、椎根津彦がふと那岐へ問いかけた。
「大陸では箸というもので食すとありますが、どのようなものなのでしょうか?」
「ああ、あれね。便利な道具だよ。使ってみるかい?」
那岐は台所の奥にしまっていた箸を持ち出すと、子供たち全員へ一本ずつ渡していった。
「持ち方はこうだよ。私の真似をしてごらん」
那岐が実際に箸を動かして見せると、子供たちは慣れない手つきながら、それぞれ見よう見まねで箸を持ち始めた。
ところが狭野と浦だけは、細かな持ち方など気にする様子もなく、箸をまとめて握り込み、そのまま食べ物へ突き刺して口へ運んでいた。
「違う違う。そんな持ち方じゃないってば。ほら、ちゃんと見て」
那岐が苦笑しながらもう一度手本を見せると、狭野と浦は面倒そうな顔をしながらも、しぶしぶ箸を持ち直して真似るのだった。
食事を終えると、一行は午前中の学びとして田へ向かった。
この日は、田をさらに広げるための水路を延ばす作業を行うことになっていた。那岐が現地を歩きながら水の流れや水路の位置を説明すると、椎根津彦は熱心に耳を傾け、何度も周囲を見回しては気になったところを尋ねてくる。
「那岐様、ここはもう少し低くした方が、水が流れやすいのではありませんか?」
「うん。よく気が付いたね。ただ、低くし過ぎても水が流れすぎてしまうから、その辺りも考えないといけないよ」
椎根津彦は頷くと、また水路と田の高さを見比べ始めた。
日臣と大久米は、那岐から指示された場所で黙々と作業を続けている。日臣は何をするにも真面目で、大久米も言われたことを最後までやり遂げようとするため、作業は順調に進んでいた。
その一方で、竹と浦は少し離れた木陰に座り込んでいた。
「私達は護衛ですから、ここから見ています」
竹が当然のように言い、浦も隣で頷いている。
「そうそう。何かあったら、すぐ助けに行けるからね」
それを聞いた狭野も手を止めた。
「じゃあ私も見学する」
すると竹がすぐに振り返った。
「狭野、これはあなたのための学びでしょ。伊邪那岐様に甘え過ぎよ。ちゃんとやってきなさい」
「えぇ……竹と浦は見てるだけなのに……」
「私達は護衛なの」
「ずるいよぉ……」
狭野は那岐へ助けを求めるような目を向けたが、那岐も笑顔のまま首を横に振った。
「狭野はだめだよ。ちゃんと自分で水路を作って、どうやって田まで水を運ぶのか覚えないとね」
「はぁーい……」
狭野は諦めて日臣たちのもとへ戻っていった。
水路の作業が軌道に乗り、子供たちだけでも続けられるようになると、那岐は木陰にいる竹と浦へ顔を向けた。
「それじゃあ、竹と浦は私と帰ろうか」
「え?」
竹が怪訝そうな顔をする。
「何をするのですか?」
「裁縫だよ」
二人の表情が一瞬で曇った。
家へ戻ると、那岐は布と針を取り出し、二人の前へ並べた。竹も浦も武芸なら喜んで取り組むのだが、裁縫となると途端に手が重くなる。
「那岐様、護衛に裁縫は必要なのでしょうか?」
竹が不満そうに尋ねると、浦もすぐに続いた。
「そうですよ。剣とか弓の稽古の方が護衛らしいと思います」
「そうかな?」
那岐は針に糸を通しながら、何でもないことのように答えた。
「二人が護衛する相手の身の回りの世話を何もできなかったら、誰がするの?」
竹と浦は顔を見合わせた。
「……侍女でしょうか」
「そうだね。じゃあ、その侍女が暗殺者だったらどうする?」
二人は黙り込んだ。
那岐は少し笑いながら続ける。
「食事もそう。着替えもそう。衣が破れた時に直すこともそうだよ。普段の身の回りのことを全部他人に任せていたら、その人が安全なのか確かめることもできないでしょう?」
竹は手元の針を見つめた。
「……護衛するなら、身の回りのことまで把握しておく必要があるということですか」
「そういうことにしておこうかな」
「そういうことにって……」
浦が疑わしそうな顔をする。
「那岐様、今考えたでしょう?」
「どうだろうね」
那岐は柔らかく笑うだけだった。
かなりのこじつけではあったが、竹と浦に武芸以外のことも身につけてもらいたいという思いは本物だった。
「ほら、まずはここからだよ。針を通してごらん」
「……はい」
竹は渋々針を手に取った。
「うぅ……剣だったらもっと簡単なのに」
浦もぶつぶつ言いながら針と糸を持つ。
こうして那岐は、護衛のためという名目を使いながら、二人に少しずつ裁縫や身の回りの仕事を教えていくのだった。
那岐は裁縫を教えながら、子供たち一人一人のことを考えていた。
狭野には、今のところ頭抜けた才能は見られない。年齢相応の普通の子供で、飽きっぽく、夢中になれるものもまだ見つけられていないようだった。ただし、人に対しては寛容である。日臣から「若様」と呼ばれても尊大になることはなく、身分の違いで人を見下すようなところもない。特別な才能こそ見えないが、人を受け入れる器は六人の中で一番大きいのかもしれなかった。
日臣は真面目で、何を教えても熱心に学ぶ。武人の家系に生まれたことにも誇りを持ち、将来は狭野の近習として立派に仕えるのだと決めている。ただ、その意識が強すぎるところがあり、物事を真面目に考えすぎて融通が利かなくなることもあった。
大久米は同年代の中では一番体が大きく、力も強い。無口で、自分の考えを言葉にすることは不得手だった。それでも一度命じられたことは黙って最後までやり遂げる。自分を救ってくれた狭野には、強い恩義を感じているようだった。
椎根津彦は、六人の中で誰よりも学ぶことを楽しんでいた。知識を得られる環境そのものが嬉しいらしく、水を得た魚のように生き生きとしている。身体能力にはあまり恵まれておらず、武芸も得意ではない。それでも狭野に救われてから始まった今の暮らしを、心から楽しんでいるように見えた。
竹は生真面目で、年長者として皆をまとめようとしている。責任感が強く、自分にも他人にも厳しい。ただ、その責任感が強すぎるせいで、必要以上に一人で背負い込んでしまうところがあった。
浦は器用で人懐こく、誰とでもすぐに打ち解ける。その一方で、楽しいことがあるとそちらへ流されやすい。狭野のことは弟のように可愛くて仕方がないらしく、暇さえあれば隣に座り、何かと世話を焼いていた。
六人とも性格も得意なこともまるで違う。だからこそ、伸ばし方も躾け方も一人一人変えなければならなかった。癖の強い子供たちに振り回され、苦労することも多い。それでも那岐にとって、どうすればそれぞれの良さを伸ばしてやれるのかを考える毎日は、いつの間にか充実したものになっていた。
晴れの日は外での学びを中心とし、雨の日には文字の読み書きや算術をはじめ、さまざまな分野を学んでいた。座学では椎根津彦が子供たちの中で最も優秀で、どの分野にも強い関心を示し、自ら進んで学ぼうとしていた。それに次いで成績が良かったのは日臣である。
外での学びは田仕事やため池、水路などの治水を実地で学ぶことが中心だったが、竹と日臣、それに普段はあまり自分から要望を口にしない大久米までが願い出たことで、武芸の鍛錬も取り入れることになった。
ただし那岐は武芸を積極的に教えようとはせず、鍛錬の時間にも時折様子を見に来る程度で、不在にしていることの方が多かった。それでも竹と浦から何度も強く頼まれると、たまに二人を同時に相手にして指南することがあった。
竹と浦は幼い頃から武芸を学び、自分たちの腕にもそれなりの自信を持っていた。しかし那岐にとっては、二人ともまだ十歳の子供に過ぎない。二人が左右から同時に仕掛けても、那岐はほとんど力を入れることなく軽々といなしてしまった。
自信をへし折られた竹と浦は悔しがったものの、同時に、倭国で伝説の神とまで崇められている那岐の実力を身をもって知ることになり、それまで以上に尊敬の念を抱くようになった。
もっとも、那岐が武芸の鍛錬にあまり顔を出さないのは、もともと子供たちに武芸を教えることを好んでいなかったからだけではない。子供たちだけで鍛錬している時間を利用して、次の授業に使う教材を用意したり、これから何をどのように教えていくのか考えたりする必要もあったのである。
武芸では竹と浦がほぼ互角で頭一つ抜けており、その次を日臣と大久米が争っていた。一方、狭野と椎根津彦はあまり上達しておらず、木刀や槍の鍛錬とは別に弓も取り入れ、弓を得意とする竹と浦から指南を受けていた。
日臣は誰よりも必死に鍛錬を続け、大久米とは互角に渡り合っていた。同年代では一番体が大きく力も強い大久米は、少しでも油断すれば押し切られる相手である。それでも日臣は満足せず、機会を見つけては竹や浦にも勝負を挑んでいた。
しかし、二人との実力差はまだ大きく、一度も勝ったことがない。竹は槍を得意とし、一つ一つの動きに無駄がなく、浦は剣や短剣を得意としており、その素早い動きに日臣はなかなか付いていけなかった。さらに二人とも弓の腕にも優れている。
「動きに無駄が多いのよ。自分のことばかりじゃなくて、相手の動きもちゃんと見なさい」
竹は日臣の動きを見ながら容赦なく指摘した。
「あはは、大丈夫よ。私達はお姉さんだからね。まとめて守ってあげるわよ~」
浦は楽しそうに笑っていた。
日臣は悔しかった。負けは負けであり、今の自分では二人に及ばない。それでも、いつか必ず追いつき、そして追い抜いてやると心に誓うのだった。
外での学びを終えた子供たちは、すっかり腹を空かせていた。楽しみにしていた夕食を前にすると、一斉に箸を伸ばして口へ運ぶ。
だが、次の瞬間、一同の表情が揃って曇った。
「浦……お前、またやったな……」
日臣が恨めしそうに浦を見る。
「え、あー……おっかしいなぁ」
浦は首を傾げながら、誤魔化すように笑った。
椎根津彦も恐る恐るもう一口食べてみたものの、すぐに顔をしかめる。
「これは……どうやったら、ここまで不味くなるのですか……」
那岐は何も言わなかった。ただ静かに目を閉じ、心を無にして黙々と食べ続けている。
「せっかく楽しみにしてたのに……」
狭野は今にも泣きそうな顔で椀を見つめた。
「少し目を離した時には、もう手遅れだったわ」
竹も諦めたようにため息をつく。
そんな中、大久米だけは表情一つ変えず、無言のまま黙々と食べ続けていた。
「どうして言われた通りに作らないんだよ!」
ついに日臣が声を上げる。
「ちゃんと言われた通りにやったよー!」
「これのどこがだよ!」
言い争う二人を横目に、狭野は竹へ縋るような目を向けた。
「たけぇー……他に何かない?」
「ないわ。諦めなさい」
竹はきっぱりと言い切った。
逃げ道を失った狭野は、しょんぼりと肩を落とす。目にはうっすら涙を浮かべながら、それでも覚悟を決め、浦の作った夕食を口へ運ぶのだった。
※本作は『【新説古事記】邪馬台国叙事詩―神代建国譚―』の神武編を、神武天皇を主人公として再構成・再執筆した独立作品です。本作単独でお読みいただけます。




