三話 泣き虫皇子の側近たち
西暦二百三十六年。
日向で暮らす那岐のもとへ、大倭壱国の武人・刺田比古が一人の少年を連れてやってきた。
少年の名は日臣。狭野と同じ六歳で、刺田比古の実子だった。刺田比古の一族は代々、大倭壱国に仕えてきた武人の家系であり、一族の者たちは各地の豪族のもとで武人として仕えている。
刺田比古は、日臣を幼い頃から狭野のそばに置き、護衛として仕えさせたいと申し出た。将来は狭野の近習として支える者に育てるつもりなのだろう。
那岐はしばらく日臣の様子を見たあと、穏やかに条件を告げた。
「狭野の護衛として仕えることは構わないよ。ただ、ここで暮らすなら他の子たちと一緒に学んでもらいます。それでもいいかな?」
刺田比古は異論なく承諾し、日臣も姿勢を正して頷いた。
こ うして日臣は、狭野の護衛として仕えながら、那岐のもとで他の子供たちと共に学ぶことになった。
日臣はまだ幼いながらも、厳しい躾を受けて育ったためか、非常に規律を重んじる子供だった。文字の読み書きでも外での実地の学びでも、誰より真面目に取り組み、その姿勢はこれまで少し気の緩みがちだった学びの場の空気まで変えていった。那岐にとっても、熱心に学ぶ日臣が加わったことで教えることが少しずつ楽しくなっていた。
ただ、その日臣には一つだけ大きな不安があった。父から言われるまま仕えることになった狭野皇子が、噂通りの泣き虫皇子だったからである。
竹に叱られて泣いている姿は、一度や二度ではない。座学も決して得意とは言えず、集中が切れてしまうことも多かった。何より身体の線が細く、武芸で頭角を現しそうにも見えない。
――本当に、この皇子を俺の主として大丈夫なのだろうか。
日臣は狭野の姿を見るたび、そんな疑問を心の中から拭いきれずにいた。
外での学びを終え、狭野たちが帰路についていた時だった。
道端に、一人の子供が倒れているのを狭野が見つけた。
「……あれ?」
狭野はすぐに駆け寄り、その傍らにしゃがみ込んだ。子供はひどくやせ細り、衣も汚れている。力尽きて倒れたらしく、呼びかけても反応はなかった。
恐る恐る顔を近づけると、かすかではあるが息をしている。
「生きてる……」
ほっとしたのも束の間、狭野はその子を連れて帰ろうと手を伸ばした。
「若様、お待ちください」
日臣がすぐに止めた。
「見ず知らずの者を連れて帰るなどしてはいけません。どこの誰なのかも分からないのですよ」
「でも、このままじゃこの子は死んじゃうよ」
狭野は倒れている子供を見つめたまま答えた。
「ここに置いていくなんてできないよ。ほっとけない」
「しかし……」
日臣は困ったように狭野と子供を交互に見る。
狭野が一人でも連れて帰ろうとしているのを見て、やがて大きくため息をついた。
「……分かりました。手伝います」
「本当?」
「若様一人では運べないでしょう」
二人は力を合わせ、倒れていた子供を家まで運ぶことにした。
その頃、家では那岐が竹と浦と共に夕餉の支度をしていた。
竹と浦はこれまで料理などほとんどしたことがなかったが、那岐から「護衛をするなら、身の回りのこともできないとね」と言われ、少しずつ覚えさせられていた。
そんな三人のところへ、狭野と日臣が見知らぬ子供を抱えて戻ってきた。
「那岐様!」
狭野の声に振り返った那岐は、二人が抱えている子供を見るなり手を止めた。
「どうしたの、その子?」
「道端で倒れてたんだ。すごく弱っていて……かわいそうだから連れてきた。どうしたらいい?」
「分かった。こっちへ連れてきて」
那岐はすぐに子供を受け取り、床へ寝かせて状態を確かめた。身体はひどく痩せ、頬も落ちている。目立った傷がないか、熱はないか、呼吸に異常はないか、一つずつ丁寧に確認していく。
「よく連れてきてくれたね。えらいぞ」
そう言ってから、那岐は心配そうに傍を離れようとしない狭野へ柔らかく笑いかけた。
「かなり痩せているね。しばらくまともに食べていなかったんだと思う。これだけ弱っていると、胃もきっと衰えているよ」
那岐は振り返った。
「竹、浦。鍋にもう少し湯を足してくれるかな。今日は重湯にしよう」
「えーー、お米たくさん食べたいのに……」
浦が露骨に残念そうな顔をする。
那岐は苦笑した。
「この子は胃が弱りすぎているからね。いきなりたくさん食べさせると、かえって身体に負担になるんだよ。まずは薄いものから少しずつだね」
「……分かりました」
竹はそう答えると、心配そうに子供を見つめる狭野へちらりと目を向けた。
それ以上は何も言わず、静かに鍋へ湯を足した。
子供は数日後には、どうにか自分で身体を起こせるまでに回復した。
名は大久米。狭野や日臣と同じ六歳だった。
話を聞けば、両親は病で亡くなったという。村人たちは病が自分たちにも移ることを恐れ、幼い大久米まで村から追い出してしまった。身寄りも行く当てもないまま一人で彷徨い続け、とうとう力尽きて道端に倒れていたところを狭野に救われたのである。
事情を聞いた那岐は、大久米をそのまま引き取ることにした。
大久米は口数の少ない少年だった。那岐から何かを言いつけられれば、返事もそこそこに黙って従い、与えられたことを最後までこなした。
とりわけ、自分を見つけて連れ帰ってくれた狭野には強い恩を感じているらしい。多くを言葉にすることはなかったが、狭野の傍にいる時だけは、その態度からわずかな親しみが感じられるのであった。
その日、共に学ぶ日々の中では珍しく、皆で海へ釣りに出かけることになった。しばらく釣りを楽しんだあと、那岐は竹と浦を連れ、釣った魚を持って先に家へ戻った。夕食の準備をするためである。
狭野と日臣、大久米の三人は、もう少しだけ釣りを続けることにした。だが那岐たちが帰ってからは一匹も釣れず、やがて諦めて帰ろうとした。
その時、狭野が浜辺に打ち上げられている子供を見つけた。
「大丈夫?」
狭野はすぐに駆け寄った。
子供に意識はなかったが、息はしている。狭野が連れて帰ろうと言い出すと、日臣は呆れたような顔をした。
「またですか……」
大久米は何も言わず、狭野の意思に従って子供を抱き上げた。日臣もため息をつきながら手を貸し、三人は浜辺を後にした。
そんな狭野の姿を見ながら、日臣は少しずつ、この皇子が持つ不思議な魅力を感じ始めていた。
泣き虫で、勉強が得意なわけでもなく、武芸に優れているわけでもない。それでも、目の前で困っている者を見つければ放っておくことができない。
なぜ自分がそんな狭野についていこうと思うのか、日臣にはまだうまく言葉にすることができなかった。
家に戻った狭野たちの様子を見た那岐は、以前の大久米の時と同じように、すぐさま連れてこられた子供の介抱を始めた。
「また重湯なの……」
浦が少し残念そうに鍋を覗き込むと、竹は呆れたように妹を見た。
「仕方ないでしょ。ほら、準備して」
「ごめんなさい。でも心配で、このままほっとけなかったんだ」
狭野が申し訳なさそうに言うと、日臣は小さく息を吐いた。
「わかってます、若様。仕方ありません」
翌日になると、子供はようやく自分で起き上がれるまでに回復した。
椎根津彦という名で、年は七歳だという。
竹と浦は八歳、椎根津彦は七歳、狭野と日臣、大久米は六歳。こうして那岐の周りには、年の近い少年少女たちが集まることになった。
那岐はその顔ぶれを眺めながら、不思議な縁もあるものだと思った。
それにしても、狭野はよく人を拾ってくる。
道端で倒れていた大久米を見つけた時もそうだった。そして今度は、浜辺に打ち上げられていた椎根津彦を放っておけず連れて帰ってきた。
――本当に慈悲深い子だね。
那岐は狭野を見ながら、ふと思う。
特別に頭が切れるわけでも、武芸に秀でているわけでもない。けれど、困っている者を見つければ、そのまま通り過ぎることができない。
もしかすると、それこそがこの子の持つ魅力なのかもしれない。
少し体力を取り戻した椎根津彦から事情を聞くと、家族と共に海を渡り、新たな移住先を探していたらしい。しかし航海の途中で海が荒れ、乗っていた船が転覆したという。
「その後のことは……覚えていません」
椎根津彦自身も、どうやって日向の浜まで流れ着いたのか分からなかった。
那岐はしばらく考えたあと、穏やかに言った。
「そうか……。それなら、しばらくここにいるといいよ」
行く当てもなく、家族の安否さえ分からない七歳の子供を追い出すという選択肢は、最初から那岐にはなかった。こうして椎根津彦も那岐に引き取られ、狭野たちと共に暮らすことになった。
翌日から、那岐は子供たちと一緒に家の増築に取りかかった。さすがに人数が増え、今までの家では手狭になってきたためである。
まずは山へ入り、使えそうな木を選んで伐り出すところから始めた。運び出した木を加工し、柱を立てるための基礎を整え、建て込みを行い、壁や屋根まで自分たちの手で仕上げていく。家を一つ広げるだけでも、やることはいくらでもあった。
意外にも竹は文句一つ言わず、黙々と作業に取り組んでいた。日臣も真面目に那岐の指示を聞き、大久米も力仕事を中心に熱心に手伝っている。
一方の浦は、那岐や竹の目を盗んでは休もうとすることが何度かあった。
椎根津彦はもともと体を動かすことが得意ではなく、重い木材を運ぶような仕事には向いていなかった。そのため比較的軽い作業を担当していたが、ただ言われたことだけをしているわけではない。
「那岐様、ここはどうして、この形にするのですか?」
「この柱は、もう少しこちらへ寄せた方がよくありませんか?」
気になることを見つけるたびに那岐へ質問し、自分でも木切れを使って形を作り、試してみる。それからまた那岐のところへ持ってきては意見を求めていた。
その様子を見ながら、那岐は感心していた。
この子は、ただ言われたことをするだけではない。自分で考え、工夫し、確かめようとする子なのだ。
そんな中、狭野は早くも音を上げていた。
「疲れたー。手が痛いよー」
木材の脇に座り込み、手のひらを見ながら情けない声を上げる。
すぐに竹が振り返った。
「伊邪那岐様に甘えない。自分たちの家でしょ!」
「そんなこと言っても、手が痛いのはしょうがないじゃない。ねー」
浦が狭野の隣に座り、味方するように頷いた。
竹の眉がぴくりと動いた。
「あなただって、ちょっと目を離したらサボってばかりじゃない。真面目にしなさい!」
狭野と浦は顔を見合わせた。
「はぁーーーい」
二人の気の抜けた返事が重なる。
那岐は作業の手を止めることなく、そのやり取りを聞いていた。騒がしく、手もかかる子供たちだったが、そんな姿すら今の那岐には微笑ましく思えた。
※本作は『【新説古事記】邪馬台国叙事詩―神代建国譚―』の神武編を、神武天皇を主人公として再構成・再執筆した独立作品です。本作単独でお読みいただけます。




